岩舟山ー古河の旅 4
足尾山地最南端、日本三大霊山「岩舟山」-標高172.7m- 東北・太平洋沖大地震によって西側140mが崩れた。 江戸時代から始まった「中腹採石・採堀」され、城・神社仏閣の建築で、荒々しく削り取られ、岩肌が露出している。 採石された石は、渡良瀬川を利用して関東各地へ運ばれた。...
View Article幻の古河城 古河の旅ー5
茨城県は日本列島のやや中央部、関東地方の北東部の県。 常陸国ー下総国北西・東は太平洋鹿島灘・北は福島・西は栃木ー常陸台地・南は利根川、千葉県・南瀬に埼玉県に接する。 南が低く・北は高く地形で利根川・鬼怒川・小貝川などで沖積低地の霞ケ浦・北浦など沿岸低地の水郷。 「古河市」は、県最西端の埼玉・栃木に接する。 「幻の古河城」 およそ百年前、関東平野幾千万の生活を守る為に着工した渡良瀬川改修工事。...
View Article古河総合公園 古河の旅ー6
「鎌倉公方」 1349年に足利尊氏と弟の足利直義が対立「観応の擾乱」、直義に代わって政務を執るために上京した足利義詮の後を継いで鎌倉に下向した足利基氏を初代し、関東管領を補佐役として関東十か国を支配した(後に陸奥国・出羽国も管轄した)が、代を重ねるに従って京都の幕府と対立するようになる。 将軍家と身分差が少なく、幕府が危機に陥るたびにそれを脅かす行動をとる傾向が強まったと云う。...
View Article栃木県小山市ー古河の旅 7
栃木県小山市は、県南部で市名が、利根川支流「思川」に臨む台地、西の低地かわ「小さい山」・またアイヌ語の「丘のある」とする説がある。 東北高速の佐野ICからは離れているが、JR東北新幹線・本線・両毛線・水戸線・国道4号線(バイバス)・・と宇都宮に次ぐ市である。 歴史は古く、史跡の「摩利支天塚古墳の前方後円墳2基」・「琵琶塚古墳」・古代・中世では、土豪「小山氏」の城下町。...
View Article結城ー古河の旅 8
「JR水戸線」は、明治22年 小山駅ー水戸駅間開業。 現在、栃木県・茨城県小山駅ー友部駅(16駅)-常磐線に乗り入れている。(単線)距離は、50.2km。 小山駅ー小田林駅ー結城駅下車。 JR水戸線(単線) 江戸期の結城藩水野氏初代、日向守勝成を祀り神とした「聰敏神社」 「結城氏」平安時代から戦国時代の、主に「下総」で活躍した一族。...
View Article結城ー古河の旅 9(最終)
「足利義教」 1394-1441(室町幕府第6代将軍・3代将軍義満の5男 1419年153代天台宗座主) 実権は、父義持で、死後兄弟でくじ引機で将軍に選ばれたという。鎌倉公方足利持氏を自殺に追い込む(永享の乱)さらに丹後守護一色義貫・伊勢守護 土岐持頼を誅殺している。勘合貿易再開し財政改善、狂気の独裁者といわれた。...
View Articleしばらくお休みします。
長い間ご拝読いただきありがとうございました。 気まま旅の記事も約7年にわたり掲載してまいりましたが、 少々マンネリを感じお休みすることといたします。 また新たな考えで始めることも考えていますのでしばらくお待ちください。 8/1須走からの富士山、山がまじかに見えます。 富士吉田にある明見湖の蓮の花、満開です。
View Articleはじめに・・・
Sは昭和13年生まれの寅年です。 今までの人生を振り返って、思い出すことなど記録していきたいと思います。 拙い文章ですがお付き合いください。 お釈迦さまはインドの国境から8km入った、ネパールの一農村の片隅ルンビニー(藍毘尼)で生誕しました。...
View Article明治・大正・昭和
江戸、慶応~西暦1868年ー「明治」がスタート。 幕藩体制から、天皇中心の一世一元政治に、新しいい近代産業「殖産興業」と「富国強兵」へと進む。 「文明開化」という言葉が生まれた。 軍隊も、フランス式からドイツ式にー日清・日露に勝つまでに。その中心が旧薩摩・長州藩出身の閥が形成された。 大正に入ると「関東大震災」で首都東京は壊滅的打撃を受け経済に大きく影響していく。...
View Article昭和13年のことなど
時は、「近衛文麿」1891-1945年・A級戦犯 貴族政治家 公爵近衛篤麿の長男ーベルサイユ講和会議西園寺公望の随員し、帰国後貴族院議員貴族院の議長になっている。 2・26事件後1937年組閣し、1っか月後「日中戦争勃発」-敗戦後GHQからA級戦犯として逮捕状、出頭の朝自殺している。...
View Article幼児時代のS
欧米諸国と肩を並べた我が国は、次から次へと軍人内閣が続いていく。 昭和12年2月に「林銑十郎陸軍大臣・食い逃げ解散」が成立、その6月に近衛文麿(華族)第一次内閣、日中戦争が始まり、 11月南京占領、、。 姉(7つ違い)兄(5つ違い)は、千人針や慰問袋づくりをやっている。 12月南京占領祝賀行事挙行等。...
View Article疎開っ子、小学校入学
昭和11年、2.26事件、翌年、中国盧溝橋において、日・中両軍がぶつかり日中戦争が勃発。 昭和13年国家総動員法が公布され、翌年になるとアメリカが日米通商条約を破棄、ソ連との間では、ノモンハン事件が起きている。 1939年ヨーロッパでは、ドイツがポーランドに侵攻、ソ連との間で全面戦争に、「第2次世界大戦」の火ぶたが切られたのである。...
View Article山の手- 東京大空襲
大空襲は、罹災者ー100万人を超えたという。 S家は、5月25日(金)、一発の焼夷弾で全焼されすべて灰になった。 山の手に470機ものB29が来襲し、山の手大空襲が、...
View Article全焼した Sの家
「Sの家」のこと 暗い内から母は、朝早く割烹着姿で一畳ほどの広さのコンクリートを張った土間の一端に作られた台所の流し台の前で、 全員の食事の支度を続けている。 子供たちは、次々「お母さんお早う」声をかけ、すのこの土間に下り、引き戸の側の井戸ポンプ汲み上げ、 流しの金たらいの中に水を汲み、その中に湯たんぽの湯を流し込み混ぜる。...
View Article従兄弟の滝野川の家
空襲で焼き出され、父母は、叔母(母の姉)の滝野川で一時生活し、従兄弟と三人で住んでいたことがある。。 そこも強制疎開で,家屋の取り壊しに。 滝野川の家は、子供にとって特別に、思い出深い家で、よく遊びに行っていた。 従兄弟は、そこの、一人っ子で実兄の5つ年上、姉と同じ学年、兄とSには、弟のように扱い、近所のお風呂屋へ連れていかれた。...
View Article父と見た東京下町
下町大空襲直後、父に連れられ東京へ、 思わず息をのんだ、町がない。建物の姿がすっかり消えている。地の果てを思わせる砂漠のような荒涼とした平地が、視界の届く限り広がっていた。 地上の底、ここに、かろうじて原型をとどめているのは、焼け焦げた傾いたビルと何本かの煙突のみ、 いくつかのビルからは、まだ、黒煙が立ち上っている。 地上にある焼け得るものすべてが焼き尽くされたのだ。...
View Article東京に戻った。
荒れ果てた上野の焼野原を目にし、敗戦という現実を目の辺りにした。 荒廃した東京は、表現できない、ピカドン・大型爆弾・原子爆弾の話などを聞き、憎きアメリカと思った。 上野駅に着いたのは、夕方。駅前は人、人で溢れ、西郷さんの銅像、ガード下、にゲートルを巻いた日本兵の引揚者、浮浪児、乞食であふれ、焦げ臭さと、悪臭で一杯であった。...
View Article上野桜木町での戦後
現在の寛永寺 寛永寺前 話を元に戻そう、私は母に引かれ上野の山をぬけ、谷中の桜木町と云う門前町に着いた。 かつては、下谷桜木町と呼ばれ、谷中墓地という多数の寺院があり、江戸時代の歴史のある門前町。 地名の通り、谷中・上野の桜の並木が、特に、上野公園の桜は、樹齢を重ねたものがい。時期になると花見客で賑わう。 町内にある「寛永寺」は、寛永2年、徳川3代将軍...
View Article終戦後の事情
天皇が国民に戦後初めて演説した「食糧事情」. 「祖国再建の第一歩は、国民生活、食料安定にある。地方農民は努力をしているが、もっと生産と増産と供出に努力して欲しい、都市における食糧事情はいまだかって例を見ないほど窮迫し、この状況は深く心を痛ましめるものがある。...
View Article一億総懺悔
「東久邇稔彦」 1889-1990 終戦処理にあたった皇族総理 陸軍士官学校・陸軍大学校卒業、太平洋戦争突入持、防衛総司令官、敗戦後、鈴木貫太郎内閣の後、総理大臣に。 就任後の記者会見で、 「全国民総懺悔することがわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる」という。 いわゆる「一億総懺悔」発言を行い混乱の収拾に努め、当時の日本国民の内、いわゆる大和民族は約六千万人程度、...
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