栃木県佐野市、県南西部・渡良瀬川を渡ると群馬県、市名は、古代・中世の「佐野荘」、「狭野」が転じたとも云う。
佐野と云えば、恒例の「秀郷祭り」8月第二土・日曜行われ、藤原秀郷の「平将門の乱」平定の功を、子孫が、足利氏・小山氏などの「武士団」となり
藤姓足利氏から「佐野氏」が派生した。
「万葉集」の東歌ー下毛野美可母の山の小楢のすま麓し児ろは誰がけ持たむーと歌われ「三毳山・225m」がある。
719年三毳関が置かれ東山道の要所たなった。
JR両毛線「佐野駅」上が城山公園で「春日岡城」が築かれ、江戸時代以降に城下町が形成・日光例弊使街道の宿場町と彦根藩領の飛び地の市場町
として発展、渡良瀬川水系の物流の中心となった。伝統的産業に「天明鋳物・際物・佐野縮」、現在は、繊維・食品・鉄鋼・精密機械など。
工業の増加で公害告発の先駆者「田中正造」旧宅が残っている。
万葉集・和歌式部集・枕草子等の歌枕の地とも云われている。弥生時代の「出流原遺跡」は、佐野市
「藤原秀郷」-平将門を討った武将ー
東国の豪族で下野に土着し、青陵区を築いた。一時配流、のち許され「押領使」に任命されている。「将門の乱」将門から与を誘われるが、将門を討ち
首級を京都に、その功により下野・武蔵の国守に。「田原藤太」と云い、「琵琶湖の龍神に頼まれ、近江国三上山の大ムカデを退治し、その礼にいくら米を取り出しても無くならない米俵等の宝物を貰ったので「俵藤太」と呼ばれたと云う。武勇の伝説が残る。
が、跡継ぎの千晴は「安和の変」で失脚し中央への足がかりを失う。だが、小山氏・結城氏などの子孫が東国で繁栄している。
東武佐野線「佐野駅」
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「宝龍寺」ー子育て呑龍様ー
の名で親しまれている浄土宗の僧侶「呑龍上人」は、14歳のとき林西寺に入って僧となり、勉学に励み、1584年、「林西寺」の住職になり、
栃木県佐野市大祝町の「宝龍寺」では9年間活躍している。
呑龍上人が「子育て呑龍さま」と呼ばれるのは当時の貧しい子供たちを弟子として寺に引き取り教育したことに由来。
呑龍上人ゆかりの宝龍寺では、毎年9月8日に子どもたちの健やかな成長や安産を祈願する「子育呑龍上人大祭」が
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「惣宗寺・佐野厄除け大師」-転法輪院惣宗官寺ー
開基・藤原秀郷 創建・944年
本尊ー妙意輪観音(元三大師)
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JR佐野駅・城山公園「佐野城址」の地に創建され、現在地に、城築城で移転している。
「関東三代師」第18世天台座主「良源」のことで、比叡山延暦寺中興の祖とされる「良源」、没後神格化され「元三大師」とされ
日本各地の寺院に祀られ信仰を集めている。
(真言宗・弘法大師の「関東厄除け三大師」西新井大師・川崎大師・観福寺大師堂とは違う)
楼門 金鐘楼
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境内に、「田中正造」の墓がある。
1841-1913 足尾鉱毒事件で農民を指導した義人・政治家。
佐野市田沼町生家・旧宅ー領主六角家の失政を糾弾して投獄され、1880年栃木県会議員に当選・82年改進党に入るが三島通庸県令反対運動で投獄
90年の第一回衆議院総選挙で栃木選出し連続当選ー第二回国会で「足尾鉱毒事件質問」し、被害農民代表で闘争を繰り返した。
1901年議員辞職しー銅山の採堀停止を明治天皇に直訴した。
利根川の治水の為、谷中村が遊水池として買収されるのを阻止するため住民を指導したが敗北し奔走中死去ー農民の葬儀参列者5万人を越えたと云う。
石川啄木の碑が
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「観音寺」ー七福神・大黒天ー
1669年ー斉藤伝七郎久重・太田小左衛門藤原秀次・大川久兵衛藤原信正
3人合作「銅造阿弥陀如来座像」市指定文化財
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インド・中国・日本の三国にわたる「佐野七福神」
金蔵院 (寿老尊・長寿延命) 佐野市越名町ー光永寺 (福禄寿・人望福徳) 佐野市飯田町ー観音寺 (大黒天・有福蓄財) 佐野市金井上町
佐野厄よけ大師・観光物産会館ー圓照寺 (布袋様 ・福徳円満) 佐野市上羽田町ー安楽寺 (恵比寿尊・商売繁盛) 佐野市並木町
西光院 (毘沙門天・勇気授福) 佐野市赤見町ー出流原弁財天(弁財天・愛敬富財) 佐野市出流原町。
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佐野氏の城ー春日岡城(春日城・姥城・唐沢山城)-上杉謙信攻撃をも凌いだ山城ー
「佐野氏一族」は、「佐野房網」・豊臣秀吉に仕えていたため、山城から平城へ、1602年徳川家康の意向を受ける。
佐野城は標高約56m(jR両毛線佐野駅と隣接)
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「佐野信吉」 1566-1622 江戸前期大名
富田知信の子・佐野房網の養子となり、天正20年下野・佐野・唐沢山城を継いでいる。
「関ヶ原の戦いで、東軍に属し、佐野39000石の藩主に、兄、富田信高が改易に、連座して自身も改易に。57歳で没す。
佐野氏は、北部にある「唐沢山城」を拠点としていた。又、小田原北条から養子を迎えていた。北条が小田原征伐で滅亡し秀吉方に仕えている。
佐野房網が、当主に尽くことは免れ、代わりに徳川家康は、唐沢山城廃止(江戸に使い豊臣氏大名は、山城を持つことは出来無かったと推定。
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1607年城主「佐野信吉」も「唐沢山城」から「佐野城・佐野厄除け大師の惣宗寺)移転し、城下町として整備された。
1614年突如「佐野氏」改易され為、約14年で廃城している。
佐野城ー蓮部式平城・東西約370m、南北約500mで、曲輪・堀切・水堀・土塁の一部が、本丸、三の丸、二の丸等堀切で仕切られている。
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次回は、足利市方面へ。
佐野と云えば、恒例の「秀郷祭り」8月第二土・日曜行われ、藤原秀郷の「平将門の乱」平定の功を、子孫が、足利氏・小山氏などの「武士団」となり
藤姓足利氏から「佐野氏」が派生した。
「万葉集」の東歌ー下毛野美可母の山の小楢のすま麓し児ろは誰がけ持たむーと歌われ「三毳山・225m」がある。
719年三毳関が置かれ東山道の要所たなった。
JR両毛線「佐野駅」上が城山公園で「春日岡城」が築かれ、江戸時代以降に城下町が形成・日光例弊使街道の宿場町と彦根藩領の飛び地の市場町
として発展、渡良瀬川水系の物流の中心となった。伝統的産業に「天明鋳物・際物・佐野縮」、現在は、繊維・食品・鉄鋼・精密機械など。
工業の増加で公害告発の先駆者「田中正造」旧宅が残っている。
万葉集・和歌式部集・枕草子等の歌枕の地とも云われている。弥生時代の「出流原遺跡」は、佐野市
「藤原秀郷」-平将門を討った武将ー
東国の豪族で下野に土着し、青陵区を築いた。一時配流、のち許され「押領使」に任命されている。「将門の乱」将門から与を誘われるが、将門を討ち
首級を京都に、その功により下野・武蔵の国守に。「田原藤太」と云い、「琵琶湖の龍神に頼まれ、近江国三上山の大ムカデを退治し、その礼にいくら米を取り出しても無くならない米俵等の宝物を貰ったので「俵藤太」と呼ばれたと云う。武勇の伝説が残る。
が、跡継ぎの千晴は「安和の変」で失脚し中央への足がかりを失う。だが、小山氏・結城氏などの子孫が東国で繁栄している。
東武佐野線「佐野駅」

「宝龍寺」ー子育て呑龍様ー
の名で親しまれている浄土宗の僧侶「呑龍上人」は、14歳のとき林西寺に入って僧となり、勉学に励み、1584年、「林西寺」の住職になり、
栃木県佐野市大祝町の「宝龍寺」では9年間活躍している。
呑龍上人が「子育て呑龍さま」と呼ばれるのは当時の貧しい子供たちを弟子として寺に引き取り教育したことに由来。
呑龍上人ゆかりの宝龍寺では、毎年9月8日に子どもたちの健やかな成長や安産を祈願する「子育呑龍上人大祭」が



「惣宗寺・佐野厄除け大師」-転法輪院惣宗官寺ー
開基・藤原秀郷 創建・944年
本尊ー妙意輪観音(元三大師)

JR佐野駅・城山公園「佐野城址」の地に創建され、現在地に、城築城で移転している。
「関東三代師」第18世天台座主「良源」のことで、比叡山延暦寺中興の祖とされる「良源」、没後神格化され「元三大師」とされ
日本各地の寺院に祀られ信仰を集めている。
(真言宗・弘法大師の「関東厄除け三大師」西新井大師・川崎大師・観福寺大師堂とは違う)
楼門 金鐘楼



境内に、「田中正造」の墓がある。
1841-1913 足尾鉱毒事件で農民を指導した義人・政治家。
佐野市田沼町生家・旧宅ー領主六角家の失政を糾弾して投獄され、1880年栃木県会議員に当選・82年改進党に入るが三島通庸県令反対運動で投獄
90年の第一回衆議院総選挙で栃木選出し連続当選ー第二回国会で「足尾鉱毒事件質問」し、被害農民代表で闘争を繰り返した。
1901年議員辞職しー銅山の採堀停止を明治天皇に直訴した。
利根川の治水の為、谷中村が遊水池として買収されるのを阻止するため住民を指導したが敗北し奔走中死去ー農民の葬儀参列者5万人を越えたと云う。
石川啄木の碑が



「観音寺」ー七福神・大黒天ー
1669年ー斉藤伝七郎久重・太田小左衛門藤原秀次・大川久兵衛藤原信正
3人合作「銅造阿弥陀如来座像」市指定文化財



インド・中国・日本の三国にわたる「佐野七福神」
金蔵院 (寿老尊・長寿延命) 佐野市越名町ー光永寺 (福禄寿・人望福徳) 佐野市飯田町ー観音寺 (大黒天・有福蓄財) 佐野市金井上町
佐野厄よけ大師・観光物産会館ー圓照寺 (布袋様 ・福徳円満) 佐野市上羽田町ー安楽寺 (恵比寿尊・商売繁盛) 佐野市並木町
西光院 (毘沙門天・勇気授福) 佐野市赤見町ー出流原弁財天(弁財天・愛敬富財) 佐野市出流原町。



佐野氏の城ー春日岡城(春日城・姥城・唐沢山城)-上杉謙信攻撃をも凌いだ山城ー
「佐野氏一族」は、「佐野房網」・豊臣秀吉に仕えていたため、山城から平城へ、1602年徳川家康の意向を受ける。
佐野城は標高約56m(jR両毛線佐野駅と隣接)



「佐野信吉」 1566-1622 江戸前期大名
富田知信の子・佐野房網の養子となり、天正20年下野・佐野・唐沢山城を継いでいる。
「関ヶ原の戦いで、東軍に属し、佐野39000石の藩主に、兄、富田信高が改易に、連座して自身も改易に。57歳で没す。
佐野氏は、北部にある「唐沢山城」を拠点としていた。又、小田原北条から養子を迎えていた。北条が小田原征伐で滅亡し秀吉方に仕えている。
佐野房網が、当主に尽くことは免れ、代わりに徳川家康は、唐沢山城廃止(江戸に使い豊臣氏大名は、山城を持つことは出来無かったと推定。


1607年城主「佐野信吉」も「唐沢山城」から「佐野城・佐野厄除け大師の惣宗寺)移転し、城下町として整備された。
1614年突如「佐野氏」改易され為、約14年で廃城している。
佐野城ー蓮部式平城・東西約370m、南北約500mで、曲輪・堀切・水堀・土塁の一部が、本丸、三の丸、二の丸等堀切で仕切られている。


次回は、足利市方面へ。