Quantcast
Channel: syuの日記・気まま旅
Viewing all articles
Browse latest Browse all 683

海老名 相模国分寺ー足柄の旅最終

$
0
0
神奈川県海老名市は、県中央部、相模川に沿って広がる市。
大きな海老が生息していた土地にちなむという、東半分が相模原台地・西半分が沖積低地で水田地帯が広がる。
京浜に近く野菜・果実栽培が盛ん、相模原台地西端地区には古くから住んだ「秋葉山古墳群」があり、国府の所在地で、国分寺・国分尼寺もおかれ、
相模国の中心であった。京浜に近いのと都内にも近くなり都市化が進んでいる地域。
小田急海老名駅前の周辺は、大型店が進出され、商業の中心地となっている。

                小田急線海老名駅通り


          JR相模線・私鉄相模鉄道も、若者が多い街
    

「相模国分寺跡」
海老名駅東口から約1kmの相模原台地にあった。
           「法隆寺」と同じ伽藍配置ー西に七重塔・東に金堂が並列
    

奈良時代以前は、朝廷中心に歴史は動いていた。その朝廷に支配が次第に広まって、朝廷を離れた地方独自の動きはほとんど伝わらない、
大和朝廷は、3世紀末奈良盆地から生まれている。三輪山の神を祀り、天皇・大王を葬る古墳を神聖視する神権政治を行った。
そこに、地方の首長との間に主従関係を広めていった。
6世紀に入り、大和朝廷の全国支配が確立し、「神武天皇」が大和朝廷の開祖・1代天皇で、東征を行ったと伝わる。
呪力で、土蜘蛛等の敵を倒したと伝わる。明治政府は、橿原神宮にまった。

現在の「国分寺」は、かっての薬師堂近く(高台)-現在は、礎石の一部が残されている。


「聖武天皇・孝謙(称徳)天皇(女帝)」 701・718~756・770年ー45代天皇・46代天皇(聖武天皇の皇女)
天皇は、国々に「国分寺」をつくり、中央に奈良の東大寺を置いた。
孝謙天皇は、ただ一人の皇室の嫡流、弓削道鏡とその一派の思いのままの仏教保護がなされていく。

           1292年銘の梵鐘(重文)


          「国分尼寺」は、北方にあったと云う。


東海道に属する「相模国・相州」は、三浦半島から房総半島へと続いて、(川崎・横浜を除いた)範囲とされた。その中心が「海老名か小田原国府津」
諸説多い。10~11世紀続発した争乱で、有力開発領主の武士団が成立していく。
1192年征夷大将軍「源頼朝」が開いた「鎌倉幕府」の有力御家人から幕府直轄地として室町時代も東国を管轄する「関東官領」も鎌倉に置かれた。

                     板碑が出土


                相模国分寺跡から瓦(ハスの花模様)


「秋葉山古墳」
1999年の発掘調査により、整った形の前方後円墳。
前方部が長くなっています。前方部の南側には古墳を区画する溝がみつかっている、西側のくびれ部からは小型で底の丸い柑(かん)とよばれる土器と、鉄製の鏃(やじり)が出土。

 出土した土器から、第1号墳は4世紀代に造られたもの。
    

「厚木市郷土資料館」入館無料


「位至三公鏡」-戸田小柳遺跡跡から


「家形土器 など土器多数が」-子ノ神遺跡出土


秋葉山古墳は、上今泉にある県内最も古い古墳。
    

878年、大地震(相模・武蔵地震)で本尊など仏像が破損し、地震直後の火災で焼失したという(日本三代実録)。
発掘結果からも、国分寺は激しい火災に見舞われたことが明らかになっている。
塔跡の近くからは七重塔の水煙と判断される金属製品が見つかっており、創建当時の水煙、何らかの理由で落下後に修復を受けた水煙、創建当時のものが失われた後に再鋳された水煙の、合計3期があったと見られている。
塔や僧坊など相模国分寺の建物も3期に分けられるとされ、それぞれ初回建立時、819年の火災後の再建、878年の地震とそれに伴う火災後の再建によると見る説がある。
しかし発掘結果の解釈によっては、国分寺の建物が焼失してしまった後、再建された跡が見られないとし、878年以降の相模国分寺の再建を疑問視する説もある。日本三代実録の881年の相模国分寺再建の記事や、日本紀略の940年の「相模国分寺の仏像が雨のような大汗をかいた」との記事との整合性が問題となり、878年の大地震の後に相模国分寺は別の場所に再建されたと推測する説もある。この場合、相模国分寺跡の南東側高台にあった上の台廃寺(伝薬師堂)が、再建先の候補のひとつに。
国分尼寺の方は873年に漢河寺という寺に国分尼寺を移転したが、878年の大地震で漢河寺が倒壊したため、881年にもとの国分尼寺に戻ったとの記録が。
発掘結果からもそれらの記述を裏付けるように、最初の礎石の上に建立された瓦葺の建物が焼失した後に、掘立柱の茅葺と推定される建物が再建されていることが判明している。
最初の建物の焼失は発掘結果から9世紀後半と推定され、漢河寺への国分尼寺の移転は火事による焼失が原因であった可能性が指摘されている。
国分尼寺については881年以後まもなく、再度漢河寺に移されたとの説もある。(しかし現在のところ漢河寺があった場所は不明)

    

「相模国分寺」-高野山真言宗の寺ー
山号ー東光寺・院号ー医王院。
                   本尊ー薬師如来
    

                  鎌倉時代の銅鐘ー重文


これで神奈川足柄の旅は終わります。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 683

Trending Articles