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富士川に沿って 由井から「田子の浦にうち出でてみれば白妙の・・

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東海道五十三次
江戸・日本橋 - 品川 - 川崎 - 神奈川 - 程ヶ谷 - 戸塚 - 藤沢 - 平塚 - 大磯 - 小田原 - 箱根 - 三島 - 沼津 - 原 - 吉原 - 蒲原 -「由比」 興津 - 江尻 - 府中 - 鞠子 - 岡部 - 藤枝 - 島田 - 金谷 - 日坂 - 掛川
袋井 - 見附 - 浜松 - 舞阪 - 新居 - 白須賀 - 二川 - 吉田 -御油 - 赤坂 - 藤川 - 岡崎 - 池鯉鮒 - 鳴海 - 宮 - 桑名 - 四日市 - 石薬師 - 庄野 - 亀山 - 関 - 坂下 - 土山 - 水口 - 石部 - 草津 - 大津 - (京・三条大橋)・ 京街道(大坂街道) (京) - 伏見 - 淀 - 枚方 - 守口 - (大坂・高麗橋)

「由比宿」
由比は、江戸より数えて「16番目の小さな宿場町、海と山に挟まれた鰻の寝床が連なる農漁村だが、本陣、脇本陣が一軒ずつ有って密集し、昔は賑わいを
見せていたのであろう。「弥次喜多道中」で茶屋の女性達の呼び込みに辟易したのはどの辺であったのか。
宿場の西に由比川が流れ、水量が増すと「歩行渡り」で、越えなくてはならなかったという。「踏み込めば 草臥足も治れるかや 三里たけなる由比川の水」
と当時の狂言である。

JR東海道本線「由井駅」                   駅前商店街
    

「地持院」は、山号を北田山、臨済宗妙心寺派に属し、往古地持院山の麓か西山寺にあったという。1573~91年 開山暗室和尚により、現在地に移転再興された。
爾来隣接の豊積神社の別当寺として神仏事を行って、明治初年の神仏分離策により、現在の寺形になった。
本尊は地蔵菩薩「市指定文化財」、他に江戸時代日照りに苦しむ農民を救ったと言われている伝説の「代かき地蔵」や「六地蔵」「わらべ地蔵」「のっぺらぼう地蔵」、
寺領ヌクイから掘り出された「掘り出し地蔵」等がある。お地蔵さまの寺とも呼ばれている。
本堂は大正10年、客殿庫裏は平成7年の建立し、開山暗室和尚より鮎川博道和尚で27代目。

地持寺                               楼門
    

境内は、約二千坪に本堂・堂・客殿・書院・庫裡・山門・鐘楼等諸堂が配置され、飾る四十四面の襖絵・彼岸庭になっている。
心にやすらぎを与える禅寺らしい寺。本堂(大正10年建立)、客殿(平成7年建立)、彼岸庭より見た客殿。
書院(平成7年建立)、鐘楼(昭和34年建立)、住職手造の山門・塀と所々の彫刻もある。

寺の隣には、「駿河國廬原郡 豊積神社・旧郷社」がある。御祭神ー木花之佐久夜比賣命、旧由比町の鎮座。
鳥居をくぐると、茂った木々で境内は暗い、境内に、二基の鳥居、大イチョウの木がある。
神事の、「太鼓祭りは有名」境内には、太鼓の彫刻もあった。正面の社殿の後方には、垣に囲まれて、流造の本殿がある。参拝。

神社鳥居               拝殿                  地持寺   本堂
    

浅間神を祀る神社であり、往古は、豊積之浅間大明神と称していたという、豊積の社号に関しては豊受姫ではなく、木花之佐久夜比賣命の別名・豊吾田姫の豊と父神である大山祇神の祇から取られたという説もある。
坂上田村麿が東征の戦勝報告に当社に立寄り、ここで、宴を催したことから、太鼓祭りが起ったという。境内社の数も多い。

神社本殿                            緑に囲まれた境内
  

「経塚山、妙栄寺」は、1854年、日満上人が境内に大乗妙典を書写した経石数百個が埋没しているのを知り、土地の有志と石塔と草堂を建立。
これを経塚山妙栄寺と称し自ら開山となった寺。
当初は三間四面の辻堂にして、無檀無禄であった。明治23年、望月与平が堂宇を修繕してついに題目修行の道場とした。
18世一妙院日久と一浄院日豊法尼の心願によって現本堂が建立され、20世真亮院日恩に至って境内地の整備された。

                           本堂
   

「由比本陣」(大名が宿泊する施設)は、本陣一軒と脇本陣一軒、旅篭屋が三十二軒あり、相当な賑わいを見せていたと伝えられている。
弥次さん喜多さんで知られる「東海道中膝栗毛」の文中でも往時の賑わいぶりを伝えている。
由比町には、今も当時の面影を残す所が多く、町ではこの本陣屋敷を整備し、江戸時代の生活文化を知る貴重な体験ゾーンとして町民をはじめ訪れる人々が
江戸文化に触れることのできるよう由比本陣公園として開放。
                                 資料展示場
    

表門、石垣、木塀など、本陣は普通に見られる本陣とは少し異なっていて、街道に家屋を直面させないで塀などで遮蔽した。
「遮蔽型本陣」といわれる形式を特徴としている。表門、石垣、木塀や馬の水呑場などは、当時の佇まいを彷彿させる物。
「本陣記念館(御幸亭)」明治天皇がご小休された離れ屋敷。
茶室、水屋などを備えた伝統的な和風建築、出来るだけ当時のままを復元されている。
記念館前にある庭園は「松榧園」といい、その由来は家康公お手植えの松、馬つなぎの榧があることから山岡鉄舟が命名したもの。
記念館北側の庭は、小堀遠州作といわれており、当時の石組みなどを修復しながら再整備された。

                     本陣 庭園
    

「楠木正雪」は、慶安4年・1651年に、「由井正雪の乱・慶安の変」を起こし駿府にて自害。享年47。正雪の首塚が「菩提樹院」に存在する。
慶安の変 は、江戸幕府第3代将軍徳川家光の死の直後に、幕府政策への批判と浪人の救済を掲げ、宝蔵院流の槍術家丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義など浪人を
集めて幕府転覆を計画した事件。しかし仲間の裏切りによる密告によって、事前に発覚したため、正雪は駿府の宿にて町奉行の捕り方に囲まれ自刃した。
事件は、4代将軍徳川家綱以降の政治が武断政策から文治政策へ転換することになったきっかけの一つ、とも言われている。

東海道幕末の風雲児、正雪は、駿府まで逃げて自刃したが、遺髪を託し「正雪紺屋」の浦に埋められているという。
明治に掘り出されかけたが、災いが起きたため中止されている。

明治天皇休息処碑                 本陣前の紺屋
    

「神沢川酒造場」は、由比町の酒、 南部杜氏、仕込水は、神沢川の伏流水。
秋には黄金色に染まる米どころ、冬には雪に閉ざされる寒冷な気候、そんな所が酒蔵にふさわしい風景のように思いがち。
しかし一年を通して温暖な気候の静岡にも三十数件の酒蔵がある。

静岡のほぼ中央、東海道の十七番目の宿場町今なお古い町並みを残す由比町に正雪の蔵元、神沢川酒造場はある。
北に富士山を背にし、南に駿河湾を望む由比町は、小倉百人一首の中に山部赤人が「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける」
と詠われた地と言われる所で古くから東西の交通の要所として栄えた町。
古い歴史を持つ由比町は、駿河湾でしか捕れない桜えびの産地として水産加工業の盛んな町でもあり、田圃もなく温暖な気候のこの地で
創業大正元年、酒蔵としては若い歴史であるが、酒質の向上に努めているという。

由井宿に残る黒塀                       造り酒屋 工場の煙突 昔は、煙がもくもくと
    

仕込み水は、横を流れる神沢川の上流より引き込んでいるものを使用して、鉄、マンガン、マグネシウムなどをほとんど含まない軟水で
スッキリしている酒であった。

工場内              瓶詰工場
  

「酒の話・ジンの製造」
原料は、ライ麦とトウモロコシを蒸煮した後麦芽を加え糖化、醗酵液を蒸留し、留液をアルコール分50-60%まで水を加える。
杜松の香料を刻むか蒸留釜に置く方法(ジンヘッド)アルコール蒸気が通過する方法。杜松(ジュニバー)特有の香気をもったものになる。
安価なジンは、ジンエッセンス(香料植物)加えたものもある。

「蒲原宿」へ
駿河の海を見渡し、みかんの山を眺めつつ、歩いた。ここは、天下の東海道、五十三次、15番目の蒲原の宿。街は、由比と同じ細長く、格子戸が並ぶ町並み、江戸時代と大きく変わっていないようだ。
蒲原宿は、山、川、海に囲まれた静岡市清水区蒲原である。駿河湾で最も奥深い海岸沿いに広がる東西約6.4kmの細長い町並み。
東海道五十三次の時代から、交通の要所として栄えた歴史のある地域。温暖な気候や豊かな海に恵まれて柑橘類、桜えびなど特産品で知られている。
海辺の町らしく明るく伸びやかで、確かな歴史の息吹が感じ、通りの人に聞くと左に見える山の頂上に「蒲原城」が有ったという。

「蒲原城」は、 山城、築城時期は、 南北朝期。築城ー 蒲原氏、その後、佐竹氏、北条氏等。遺構ー 曲輪、土塁、堀切、石積 等

歴史は、鎌倉期に「入江清定」の三男、清実が蒲原荘に居住し蒲原氏を名乗り、築城は南北朝期と推定されている。

1582年の織田信長・徳川家康の甲斐・駿河への侵攻の際、蒲原城は、朝比奈駿河守信置が守備していたが徳川軍の攻撃により落城したと言われる。

蒲原城は、東海道の難所、由比ガ浜と薩捶峠を眼下に控え、「海道一の堅城」と呼ばれていた。
城山」と称される山は周囲と比べて飛びぬけて高い山、というわけではない。南側は急な崖、他の三方も深い谷に守られた堅固な要害であった。
甲相駿三国同盟が信玄の駿河侵攻によって破られた後、駿東一帯は武田氏と北条氏による激しい抗争が続きます。そんな中でも、北条の長老格であった
幻庵長綱の子ふたりが討ち死にしたこの蒲原城の攻防戦は最も激しかった戦いのひとつであったという。

蒲原宿から見える  蒲原山城跡の山  善福寺           


蒲原城跡の約650m東に標高約164mの御殿山山頂に、「狼煙場」と呼ばれてい 所がある。
蒲原城の東側は北方から山が張り出している、 そのため、「狼煙場」は、敵の動向を監視する目的で築かれ、蒲原城の外曲輪の働きをし ていたという。

宿場と山城跡                        御殿山向かいの山に狼煙場が     


蒲原宿は、町をあげて古い物を大事にしているという。小さい蒲原宿の名所の中には「旧五十嵐歯科医院」、「志田邸」「青山荘」などがありました。

旧東海道蒲原宿の街並み                 大正時代の歯科医院    


「志田邸」は、東海道蒲原宿でコメや醤油を扱っていた商家志田家の主屋。国の有形登録文化財に選定された。
東海道町民生活歴史館は、志田家に残る江戸時代からの醤油工場等を活用した資料館、江戸時代から昭和前期までの町民生活に関係したもの
展示している。

志田邸跡


山梨南アルプス駒ヶ岳、釜無川・笛吹川源流から南に流れ、ここ蒲原の駿河湾に注いでいる富士川河口「新富士川橋」を渡ります。
登呂の遺跡、駿河国府、今川氏の本拠地、家康の城下町、、。歴史の静岡市と別れ富士市の中心「吉原宿」に向かいます。

新富士川橋


「富士市」は、駿河トラフとその延長上の富士川河口断層帯に面しているため、プレート境界型の大地震「東海地震」の危険性が指摘されており、
国・県・周辺自治体とともに地震対策、特に津波対策に力が入れられている所。
江戸時代には東海道の宿場町の一つである「吉原宿」が存在したが、津波で2度壊滅的な被害を受け、その度に宿場の位置が内陸部に移動。

                             富士川


「富士川の戦い」は、 治承4年秋の夜、武田信義の部隊が平家軍の背後に回るために渡河を開始した。
この時、富士川の川面で静かに眠っていた水鳥の大群がこの物音に驚き、一斉に飛び上がった。この時の水鳥の羽音がすさまじく、これを源氏軍の夜襲と
勘違いした平家軍は大混乱に陥ったという。
武器も持たずに逃げ回る者、杭につないだ馬にまたがり、ぐるぐる走り回る者、等々、散々な混乱ぶりだったと「平家物語」や「源平盛衰記」は伝えている。
しかし、実際にこのような混乱ぶりがあったのかどうかは定かではない。この混乱ぶりには、軍記物の特徴である誇張がかなり含まれている。

士気も振るわず兵力でも劣勢に立たされていた平家軍が、源氏軍の襲来とともに、戦いらしい戦いもせずに潰走したことは確かであろう。
平惟盛が京に逃げ戻った時には、7万騎の兵力が僅か10騎になっていたという。

「平維盛」 1157-84 平清盛の嫡孫、重盛の長男、後白河法皇「五十の賀」で「青海波」を舞い、桜梅少将と呼ばれていた。
平家の総大将として「富士川の戦い」で潰走。「墨俣川の戦い」で勝利するが、倶利伽羅峠で木曾義仲軍に大敗する。
妻子を京都に残して高野山に出家する。都の空を望み妻子が恋しく那智の滝に打たれたと「平家物語」は、伝えている。

和田川          富士川の戦いの「平家越え橋」 


「平家越え橋」は、
平氏が敗走したのは富士市の新橋町辺りとされる。付近にはかつて「平家越」という小字があり、和田川にかかる平家越え橋の東詰めには「平家越えの碑」が建つ。
現在の富士川は市西端を流れており、碑とは6kmほど離れているが、これは江戸期の治水事業で川筋が西へ移ったため。
往時はもっと東を流れ、幾筋もの支流を形成していた。市内には地名に「島」とつく地域が多いが、これらは砂州・中州だったことに由来している。
吉原宿に近い。

平家越えの碑                   吉原宿跡


「源氏、頼朝」は、安房国平北郡猟島に。同地で先発していた三浦一族らと合流地元の豪族安西景益が頼朝らを迎え入れた。
頼朝は和田義盛を千葉常胤へ、安達盛長を上総広常のもとへ派遣。その他、小山朝政、下河辺行平そして豊島清元、葛西清重父子にも参陣するよう求め、
千葉常胤は、直ちにお迎えするとの返事を寄こし挙兵して下総国府を襲い、平家一族の目代を殺したが「結城浜の戦い」、房総半島に大きな勢力を有する
上総広常の向背には不安があった。

頼朝は、300騎を率いて安房国を出立。下総国府に入り、千葉常胤が一族を率いてこれを迎え、千葉氏の300騎を加えた。
武蔵国と下総国の国境の隅田川に達したところで、上総広常が2万騎の大軍を率いて参陣した。諸国の兵が集まり2万5000余騎に膨れ上がっている。
頼朝は武蔵国へ入り、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越重頼、江戸重長、畠山重忠らが続々と参じた。頼朝の軍は数万騎の大軍に膨れ上がり、
何らの抵抗を受けることな、源氏累代の本拠地鎌倉に入った。

この辺りは、安藤廣重も東海道五十三次の「吉原 左富士」として描いた景勝地だったという。
治承年の10月、源平両軍が対峙した古戦場と伝わっているが、現在は、和田川の薄汚れた川が流れているだけの埃っぽい工場地帯であった。もっとも富士川合戦とは名ばかりで、実際には古戦場と呼ぶほどの大規模な衝突は起きていなかったという人もいる。

浮㠀ヶ原、富士沼での源平の戦いが


「吉原宿、田子の浦」
吉原は、富士市の中心より少し東に位置。田子の浦港に架かる橋「沼川橋」を通ると、戦国時代の「吉原宿」のあった所。
田子江川、潤井川、小潤井川、和田川、沼川が流入し、港の周辺は、古くから製紙の町として発展してきた。
富士市ということもあって日本製紙・王子製紙・三島製紙などの製紙工場が多く、倉庫(埠頭倉庫)、運輸業、食品加工工場も集中する。
南側には石油埠頭があり、油槽所も多い、西側には、旭化成の工場、東側寄りには貯木場となっている。
港を作る前は砂浜海岸であり、湾になっていることで、定期的に浚渫工事が行われている。
しかしながら、田子の浦港に入港する外航船(外国貨物を運ぶ船舶)は、主に紙の原料となるチップや コーンスターチの原料となるトウモロコシなどの
バルカーがあり、これらはパナマックス級であることが多いが、このクラスの船に貨物が満載の状態や潮の干満を考慮しないと船底を擦ってしまい
接岸できなかったりする。

沼川の石水門は、明治19年に完成し、「6つめがね」の通称で親しまれていた。長さ63.5メートル、幅・高さ6.9メートルの立派なもので、沼川一帯の農耕地を海水の逆流から守ってきましたが、貯木場を建設するために取り壊され、(現在は沼川橋になっています)昭和41年12月沼川石水門は、撤去され、碑が建てられている。

現在の街並み                      石水門の碑             
    

「田子の浦」
「田子の浦にうち出でてみれば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ」 山部赤人(新古今集)。
(田子の浦まではるばる来てみると、富士山の高いところは真っ白になっている。今でも雪は降り続いているのだ)

「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける」 山部赤人(万葉集)。
 (“田子の浦ゆ”の“ゆ”がまず違い、これは経由の由(ゆ)。
 ”田子の浦に”ではここから富士山を見たという事になり、“田子の浦ゆ”ではここを通って富士山が見えるところまで出たという)

“雪は降りつつ”と“降りける”でもかなり違う。“つつ”では今も降っているという意味になり、“ける”では降ったということになる。

“白妙の”と“真白にぞ”でもかなり違ってくる。万葉集・新古今集とどっちが・・・・。

田子の浦みなと公園の森                田子の浦    化学工場のクレーンが
    

「田子の浦みなと公園」山部赤人の歌碑あり。
公園から残念ながら田子の浦の港は臨められないが、秋には、展望台から、御前崎、東は箱根山麓、南は天城から大瀬崎、そして北は富士山、愛鷹山、
南アルプスと見える時もあるという。

公園展望台から                  園内の神社で参拝
    

「市の津波想定」は、東海地震の被害想定で、富士市沿岸に到達が予想される津波の高さは2.6~2.8mと推定、
田子の浦湾内に侵入した津波は高さ3.8mと推定され、市の海岸沿いには、過去の高潮被害の後に高さ17mの防潮堤が設置されており、この防潮堤を超えるような
推定はされていないという。
市内の津波の浸水の深さは0.5m以下と推定されて、津波による家屋の倒壊や人的な被害は想定されていない。
しかし、東北地方太平洋沖地震を教訓とした地震・津波対策に関する専門調査会の報告にもあり、想定できなかった地震の規模と巨大津波が東北地方を中心に発生し、
未曾有の大震災に日本中の沿岸地域に住んでいる人々が不安を感じている。

ここ「みなと公園」も、海は、コンクリートの壁。

「毘沙門天・妙法寺」は、中国風、インド風の建物が同じ敷地内にある毘沙門天妙法寺。
毘沙門天は、四天王最強の神で、すべてのことを一切聞きもらさない知恵者というところから多聞天とも呼ばれている。日本では財宝や福徳を与える神様としている。
毎年旧暦の正月に行われる毘沙門天大祭は日本三大だるま市の1つとして有名で、ここで売られる立派なひげのだるまは五穀豊穣、商売繁昌などの縁起物として人気。

毘沙門天妙法寺                   正面
  

山号、香久山、毘沙門天、市今井町、 日蓮宗 本尊 一塔両尊、創建 1627年  開基 渡部彦左衛門 、開山 日深上人、本寺 身延久遠寺、 日蓮宗橘、
毘沙門輪宝 鎮守 毘沙門堂、 旧暦正月7~9日:大祭(だるま市)。

銭洗いの池に、「お札やコインを洗って種銭して下さい」、と書かれていた。毘沙門天は勝負運、開運に利益があるとされて、ここでお金を洗って商売の種銭にしたり、
勝負事などにも御利益が?。

大鳥居                        鐘楼          本堂前           
    

本堂は、毘沙門堂と呼ばれ、日本風建築、奥には、インド風建築の建物。同じ寺内の建物とは思えない、屋根は、竜が彫られている。
左右に狛犬も彫られ、歴史を感じさせる。呪文で、フクジュウカイムリョウの呪文を唱えは、惣無量の物を与えたまえの意味らしい。

焼香殿                              本殿
  

本堂の中に、大きなダルマがあり、網で囲われていた。立派なひげをたくわえたダルマが笑っている。手前には商売繁盛と家内安全の文字。
小さなダルマは、右目だけ黒く入れられていた。念願が成就したときに左目を入れるのであろう。

本堂内                      竜神                         本殿外廊下
    

富士川に沿って、続きます。

源平富士川の戦いの吉原宿と小さな原宿へ(達磨白隠禅師)

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「富士川」 山梨北西部・静岡県
南アルプス駒ケ岳西麓・釜無川源流部南流して静岡県駿河湾に注ぐ川ー山形最上川・熊本球磨川と富士川を日本三大急流と云う。
土砂の運搬量多く洪水に悩むー武田信玄の治水対策は知られている「信玄堤」。
江戸時代は、鍛沢河岸と岩淵を結ぶ舟運が。
長さー128km・流面3990km2

                      新富士川橋



「富士市」は、駿河トラフとその延長上の富士川河口断層帯に面しているため、プレート境界型の大地震「東海地震」の危険性が指摘されており、
国・県・周辺自治体とともに地震対策、特に津波対策に力が入れられている所。
江戸時代には東海道の宿場町の一つである「吉原宿」が存在したが、津波で2度壊滅的な被害を受け、その度に宿場の位置が内陸部に移動。


                      富士川


「富士川の戦い」は、 治承4年秋の夜、武田信義の部隊が平家軍の背後に回るために渡河を開始した。
この時、富士川の川面で静かに眠っていた水鳥の大群がこの物音に驚き、一斉に飛び上がった。この時の水鳥の羽音がすさまじく、これを源氏軍の夜襲と
勘違いした平家軍は大混乱に陥ったという。
武器も持たずに逃げ回る者、杭につないだ馬にまたがり、ぐるぐる走り回る者、等々、散々な混乱ぶりだったと「平家物語」や「源平盛衰記」は伝えている。
しかし、実際にこのような混乱ぶりがあったのかどうかは定かではない。この混乱ぶりには、軍記物の特徴である誇張がかなり含まれている。

士気も振るわず兵力でも劣勢に立たされていた平家軍が、源氏軍の襲来とともに、戦いらしい戦いもせずに潰走したことは確かであろう。
平惟盛が京に逃げ戻った時には、7万騎の兵力が僅か10騎になっていたという。

「平維盛」 1157-84 平清盛の嫡孫、重盛の長男、後白河法皇「五十の賀」で「青海波」を舞い、桜梅少将と呼ばれていた。
平家の総大将として「富士川の戦い」で潰走。「墨俣川の戦い」で勝利するが、倶利伽羅峠で木曾義仲軍に大敗する。
妻子を京都に残して高野山に出家する。都の空を望み妻子が恋しく那智の滝に打たれたと「平家物語」は、伝えている。

和田川          富士川の戦いの「平家越え橋」 


「平家越え橋」は、
平氏が敗走したのは富士市の新橋町辺りとされる。付近にはかつて「平家越」という小字があり、和田川にかかる平家越え橋の東詰めには「平家越えの碑」が建つ。
現在の富士川は市西端を流れており、碑とは6kmほど離れているが、これは江戸期の治水事業で川筋が西へ移ったため。
往時はもっと東を流れ、幾筋もの支流を形成していた。市内には地名に「島」とつく地域が多いが、これらは砂州・中州だったことに由来している。
吉原宿に近い。

平家越えの碑                   吉原宿跡


「源氏、頼朝」は、安房国平北郡猟島に。同地で先発していた三浦一族らと合流地元の豪族安西景益が頼朝らを迎え入れた。
頼朝は和田義盛を千葉常胤へ、安達盛長を上総広常のもとへ派遣。その他、小山朝政、下河辺行平そして豊島清元、葛西清重父子にも参陣するよう求め、
千葉常胤は、直ちにお迎えするとの返事を寄こし挙兵して下総国府を襲い、平家一族の目代を殺したが「結城浜の戦い」、房総半島に大きな勢力を有する
上総広常の向背には不安があった。

頼朝は、300騎を率いて安房国を出立。下総国府に入り、千葉常胤が一族を率いてこれを迎え、千葉氏の300騎を加えた。
武蔵国と下総国の国境の隅田川に達したところで、上総広常が2万騎の大軍を率いて参陣した。諸国の兵が集まり2万5000余騎に膨れ上がっている。
頼朝は武蔵国へ入り、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越重頼、江戸重長、畠山重忠らが続々と参じた。頼朝の軍は数万騎の大軍に膨れ上がり、
何らの抵抗を受けることな、源氏累代の本拠地鎌倉に入った。


この辺りは、安藤廣重も東海道五十三次の「吉原 左富士」として描いた景勝地だったという。
治承年の10月、源平両軍が対峙した古戦場と伝わっているが、現在は、和田川の薄汚れた川が流れているだけの埃っぽい工場地帯であった。もっとも富士川合戦とは名ばかりで、実際には古戦場と呼ぶほどの大規模な衝突は起きていなかったという人もいる。


浮㠀ヶ原、富士沼での源平の戦いが



「一宮賀茂神社」鎮座 身延町下山菖蒲沢 小さい神社。御祭神 天津日高彦穂瓊々杵尊。天平勝宝年間・七百五十年代の古い神社。
現宮司の始祖「稲葉左近」が土地の人とはかり創立したと伝えられている。
武田氏並びに穴山氏の尊崇極めて篤く河内領一七社の社頭として一ノ宮と尊称され、往昔葵祭には領内の神主ことごとく神事に奉仕したと伝える。
武田氏より三貫五百文地を、徳川氏におよんで同領の朱印地を代々受けている。
穴山氏より勝千代祈祷料として岩間の地に一九八アール寄進されていたが古文書だけ現存し場所は不明。

                             賀茂神社   
    

歴史と落ち着いた境内でした。小高い神社を背に鳥居の向かいの山々の景色は素晴らしい。

          拝殿内                      高台の神社前から
  

「八日市場八幡神社のケヤキ」
天然記念物 ケヤキは、樹高 30m/12m、目通り幹囲 6.5m/5.6m、推定樹齢 300年以上、身延町八日市場
案内板による。拝殿横のケヤキと鳥居近くのケヤキとある。

ケヤキの独立巨木が3本かたまっていたと云うが、残念ながら、3本とも主幹を途中で失っており、鳥居近くの1本は、1966年の台風、
拝殿横の1本は、1987年の突風の害を受けたと云う。

                            八幡神社
    

八幡神社隣の三守皇山長光院「大聖寺」ー真言宗醍醐派の寺、本尊 不動明王、
重要文化財・不動明王座像・県指定文化財・絹本著色地蔵菩薩十王図 ほか。

                             大聖寺
    

里山の木立ちにあり、歴史を感じる。
この寺は、1105年に、新羅三郎義光(八幡太郎義家の弟)によって開かれたという。
その後、義光の曾孫に当たる加賀美遠光が京都で宮中守護の任務につき、"鳴弦の術"で魔物を退散させた功で、時の高倉天皇から清涼殿に安置されていた不動明王と「三守皇山長光王院大聖明王寺」の勅額を賜わったと云う。
遠光はこれをこの寺に収め、以後は三守皇山長光院大聖不動明王寺と称し、不動明王はいまも寺の本尊として祀られている。

                            不動明王像
    

「身延町なかとみ和紙の里」

富士川の豊かな流れと、四季折々の自然に恵まれた身延町は、風雅な趣きを持つ西嶋和紙の名産地。
はるかな山々をいだく、のびやかな地にたたずむ「なかとみ和紙の里」は、工芸美術にふれる「なかとみ現代工芸美術館」、手漉きが体験できる「漉屋なかとみ」、全国の和紙をとりそろえた「紙屋なかとみ」がある。



現代工芸と呼ばれる分野は、紙・陶磁器・染色・漆から、ガラス・皮・金属など多彩な材料と技法・技術を駆使して生まれる作品。
美術館は、新しい時代の美をいつくしみ、現代に息づく工芸美術作品を展示・収集する個性的なカルチャースポット。
数々の特色ある展覧会を企画している。

和紙づくり体験もできる。¥1000から、入館料¥500.

                         庭園
  

「身延町中富」は、山間部で耕地面積がわずかであるため、林業や焼畑、狩猟、製紙原料となる三椏の栽培など山の資源を利用した生業が成立し、西島は紙漉職人が多く、和紙を生産している。
富士川沿いには青柳河岸(増穂町)に属した切石河岸・八日市場河岸や黒沢河岸(鰍沢町)に属した下田原河岸などの富士川舟運に関わる河岸があり、渡船に携わるものもいた。
富士川沿いには甲駿を結ぶ駿州往還(河内路)が通り、沿道は宿場や町場で賑わった。

                           石の彫刻  有料
      


                   「東海道五十三次・原宿」


東海道11番「箱根」・12番「三島」・13番「沼津」・「14番「原」」

                         白隠の産湯井。


長興寺 臨済宗妙心寺派 約640年前、室町時代、鎌倉・建長寺の開山、「大覚禅師」のお弟子の「友獄和尚」が行脚中に原の浜辺にさしかかり、海の響きに感応道交して身心脱落。
歓喜雀躍して、念持仏の虚空蔵菩薩を奉安し一堂宇を建立した。
その場所が砂州の上にあり、満潮の時にはあたかも海の上にあるかのように見えたので、山号を海上山とたという。
江戸時代なかば、白隠禅師の道友であった、大義和尚(当山準開山)によって清見寺末となり、妙心寺派となる。
海と御縁の深い寺で、海の神様、金毘羅山大権現 を鎮守神としておまつりしている。
昔、駿河湾ではマグロやカツオなどの漁が盛んでした。お祭りには大漁や海上安全を祈願する漁師が、地元のみならず西浦方面からも舟でお参りし、にぎわったと伝えられてる。
近年、金毘羅堂も再建され、毎年5月の最終日曜日に開催される例大祭には、赤ちゃんのすこやかな成長を祈願する恒例の「奉納泣きずもう」が 行われます。江戸時代、お隣の松蔭寺には、日本臨済禅中興の祖として仰がれる白隠禅師の指導を求め、全国から修行僧が参集。
その数、数百であったと記録されています。その折り、当山も宿坊として使用されました。修行者が松蔭寺へと参禅にかよった道が今も残っており「白隠道」と称されている。
 
             清見寺末、長興寺(白隠禅師の道友、大義和尚開山)
    

京都の「妙心寺」原の「松陰寺」は、全国大名、参勤交代時、あらそって面会を求めたと云う。
    

松陰寺・(白隠さん)は、白隠禅師(1685~1768)ゆかりの寺。
臨済宗の古寺で、歴史は約700年あり、名僧白隠が住職になる。現在は臨済宗白隠派大本山。

「擂り鉢の松」特に親交の深かった備前岡山池田氏は白隠の求めに応じて備前焼の大擂り鉢を贈りました。白隠はある日、庭の松が台風で裂けたため、雨よけにと擂り鉢をその裂け目にかぶせました。松はこの擂り鉢をのせたまま育ち、今も「擂り鉢の松」として親しまれています。原宿の旧本陣(渡辺本陣)の門と松が、松蔭寺内に移築されています。山門手前に「白隠の里案内図」が設置(2008年3月)されました

松陰寺(世界に知られている白隠禅師ゆかりの寺) 
    

                       境内と堂 
  

                       藤棚と本堂
    

「昌原寺」日蓮宗、
大仙院日耀の開山。開基は、徳川家康の側室、お万の方(養珠院日心大姉)である。
1615年 春、東海道原宿の渡辺本陣にお万の方が宿泊されたとき、南無妙法蓮華経のお題目が、聞こえ、ただちに本陣渡辺八郎左衛門ともない庵に入り、読経を聴聞されたのち、庵主、地主庄司七左衛門を呼び、こ の地に一山を構えるように要請した。
お万の方は、法華経の信者として朝暮に日蓮大聖人の御真影を敬拝していた。
この御真影は、日蓮聖人の自点眼尊影として、昌原寺落成のとき駿府城を通じて当山に寄進され寺宝となっている。
徳川幕府より境内地5反30畝、大門40歩のほか、御真影供養料田地1反5畝を賜った。
元和8年に念願が成就し、寺院を、建立している。

                       昌原寺                            
    

「浅間神社」-祭神・木花咲耶姫命(富士山のこと),愛鷹大神(愛鷹山のこと)
浮島ヶ原を最も早く開墾したのは遠州の浪人だった鈴木助兵衛であるという、父が安部郡上土を開拓した後二代目助兵衛が浮島ヶ原へ来てこの地を拓き助兵衛新田と称した。
原「浅間神社」は、1609年武田家臣の植松平次右衛門季重が創建と云う。
興国寺城は伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)の旗揚げの城として名高 い、根古屋と青野の境の篠山という愛鷹山の尾根を利用して築かれた山城で、後北条氏の祖である北条早雲が最初に城を与えられ、旗揚げした城。
城の南部には、原宿のある東海道に通じていて交通の便はよいが、途中に広大な浮島ヶ原湿原があったため、難攻不落の城だった。
太古から原宿の北西には富士の湧き水が溜まる浮島ヶ原湿原が広がり、これが地元民の生活に支障をきたしていたようである。
墓地は安全な高台に、生活の場には安全祈願の浅間神社を祀ったという。

                     浅間神社             
    

沼津へ

1本1本植林した 沼津の千本松原(増誉上人)

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永禄3年ー1560年、今川義元の桶狭間での敗北による今川氏の衰退は、諸国の諸大名による今川領への進入を招いた。
西からは徳川氏、北からは武田氏が遠江、駿河に攻めてきた。また、東の後北条氏も武田氏に対抗して駿河に進攻した。
後北条氏と武田氏は駿河中部から東部にかけて数度の戦いを繰り広げた。
この頃の武田氏の、駿河における拠点の一つが三枚橋城で、三枚橋城は現在の沼津の駅南部にあり、本丸を二の丸、三の丸、外郭が狩野川に面した東南部を除いて同心円上に囲む構造になっていた。
城の築城時期については、1577年に武田勝頼が築城したという説と、信玄生存中の1570年には既に築城されていたという説があり、現在では後者が有力で、城の城主としては高坂源五郎が名高い。

この三枚橋城と川を挟んで対立したのが、後北条氏の戸倉城で、三枚橋城による武田氏との間で小競り合いが絶えなかったという。
1580年には、武田と後北条の水軍が重須沖の駿河湾で海戦を行っている。

1577年、武田勝頼が後北条氏の戸倉城に対抗して、沼津城を築城し、「高坂源五郎昌信」に守備させたといわれている。
しかし、「信濃史料」から、築城の時期は天正5年ではなく、元亀元年、信濃の諸士に城普請を務めさせている記事がみえるため、この時期に創築を求めようとする説が有力と云う。

沼津城の遺構はほとんど残存していないが、昭和48年ビル建築工事で発見された石垣が同城のものであったと推定され、石垣の組み方は戦国末期の実戦的築造であるという。

沼津と云えば、「江原素六と兵学校」、明治維新後はアメリカ視察を経て、徳川家が移封された静岡に移り住み、沼津兵学校、 沼津中学校などの創設に貢献。
明治23年には第1回衆議院選挙に当選し 、自由党、憲政会、政友会の議員を務め、麻布中学の初代校長歴任、銅像があると聞いたが不明。

沼津市内「医王山・東方寺」
    

乗運寺向かいには「醫王山東方寺」がある。 臨済宗の寺、ご本殿は、薬師瑠璃光如来像、古くは真言宗の寺で、江戸時代の明暦年間に
臨済宗 として再興された。

境内
    

寺で、塗ってよし、飲んでよしと言われた 万能薬「清明丹東方寺目薬」を製造販売していたと云う。
切疵や潰瘍に効くと言われて、一時は、この薬の売上で寺が維持されていたと云う。
しかし、薬事法の関係で昭和50年に製造販売を中止した。
沼津修養会がこの東方寺に置かれ、講話会や座禅会が開催され、沼津仏教会の中心的寺になっている。

境内
  

千本浜通りに、出雲の神を祀る「日枝神社」が、昔この辺りは、一面都の荘園で,大岡庄と呼ばれていたと云う。
狩野川がうねり,沼地のようなところを干拓し,次第に水稲を作れる荘園に作りあげて行ったのが,この神社創建の平安中期であった。

頼朝の頃、京都からの距離から想像するに,平安中期に,沼津あたりに着手していたとみても,それほど狂いはないと云う。

日枝神社                拝殿                      千本松原に
    

「長谷寺」は、稲久山と号し、本尊は十一面福聚自在観世音である。
825年、淳和天皇の御代に、弘法大師が勅を奉じて駿・豆地方を巡錫中、鎮護国家の祈願道場として創建したものだという。
昔、大和の長谷寺の末寺で、法相宗から真言宗に変わり、現在は時宗に属している。地元では、「浜の観音さん」と呼ばれ親しまれている。

公園前の長谷寺                                 堂
   

毎年4月に開帳の法要が営まれているが、その際120反の帆布で作られた大観音曼陀羅の開帳がある。
この曼陀羅は、その昔航海の難所熊野灘、遠州灘などの航海安全を念願して、船主はその無事帰還のお礼にと、船の命の綱と頼む帆に霊像を写して奉納したのに始まったと伝えられる。
現在寺に所蔵されている曼陀羅は、明治8年の正月に菊地金平受広(別名、一運斎国秀)がこの完成のために日頃の信仰から、斎戒沐浴し、およそ200畳敷き余もある綿布に半年の年月を費やし、原図のとおりに精巧緻密に写し上げたもの。

長谷寺は、江戸時代より駿河一国三十一番札所及び横道十三番札所となっている。

                        本堂


沼津「千本浜公園」は、東海道随一の景勝地である千本松原を有する沼津を代表する公園。
堤防上や松林の中を散歩・ジョギングする人など多い。数々の歌碑・文学碑がある。

千本松原(先人たちが一本一本植林)


風致公園で、沼津港の海岸に沿っている。面積 146000㎡と広い。

公園内 
    

「増誉上人の像」と千本松原は、1537年頃、駿河の今川・甲斐の武田と伊豆の後北条との戦いで無惨にも伐きり払われてしまう。
そこへ、一人の旅の僧がやって来ました。「増誉上人長円」です。
潮風の害を受けて困窮していた住民をみた長円は、人々を救うために経文を唱えながら、何年もかかって千本の松苗を植えた。
千本松原はこうしてできたもので、増誉上人長円は千本山乗運寺の開祖です。

増誉上人像は、千本浜公園のシンボルとして親しまれ敬われている。

東方寺前の千本山乗運寺開祖「増誉上人」が千本松苗を植えたと云う
    

角田竹冷句碑がある。
角田竹冷は、安政3年、富士郡加島村(現在の富士市)に生まれ、家が貧しかったので少年時代は魚町の商家の奉公をした。
明治5年、16歳の時に東京へ出て働きながら法律を学び、24歳で、弁護士の免状を取り、35歳で衆議院議員に当選、その後6期17年間にわたって議員として活躍。
俳句には幼少時から生涯を通じて親しみ、俳人としても名を成し、「毎日新聞」「読売新聞」の俳句選者にもなっている。
代議士就任中、新聞紙上に軽妙な時事俳句を発表したことは有名である。大正8年62歳で永眠した。
  句碑  時は弥生  瓢枕に  鼾かな。 亡くなる前日に。

1856年富士市苗村出身の 角田氏句碑


弥生~古墳時代の沢田遺跡等が。
大和朝廷が力をのばし、4世紀中ごろまでに日本を統一した。
伊豆沼津にも影響下に入り、スルガの国がおかれた。
近畿地方や瀬戸内地方において、3世紀後半から4世紀初めにかけ、古墳とよばれる「支配者の墓」がつくられはじめたが、5世紀の末から6世紀にかけて、沼津市にも松長の神明塚古墳、東沢田の長塚古墳、西沢田の子ノ神古墳など3つの前方後円墳などがつくられ、さらに、6世紀後半になると、市内各地に多くの円墳がつくられ、7世紀終わりごろには、横穴墳がつくられるようになった。

伊豆方面へ。

”汽笛いっせい新橋を・・”変貌する新橋 

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静岡県掛川~沼津まで掲載してきましたが、「JR/山手線・新駅」が2020年に出来ますので、途中ですが中断し、2回・新橋~泉岳寺までを。

「浅野長矩」 1665-1701 江戸城中で乱心した赤穂藩主・8歳で53500石の領主に。
接待役で指導を受けていた「吉良義央」を、江戸城中・松の廊下」で傷を負わせたことから、「切腹」を命じられ、赤穂浅野家改易処分に。
「田村右京太夫」-一ノ関藩主。田村邸の庭先で、腹を切った、内匠頭。その悲劇を見つめていた桜・銀杏の木の銀杏の一本が残って、これを「お化け銀杏」と呼ばれ、沖合から船頭たちは目標にしていたと云う。お化け銀杏は、大正期の枯れたと云う。
大田道灌が江戸城を築き、「日比谷湾」に港を開いた時は、大手町辺りが中心地、家康が江戸に入り、神田・日本橋を埋め立て町に、明暦の大火で港の中心は、隅田川ー鉄砲洲・築地・芝浦・高輪へと広がり、広重浮世絵には、船泊の光景で佃島であった。
明治に入り、横浜開港され、横浜へ横浜へと移動した。横浜に入った文明は、鉄道で「新橋駅・汐留」に・文明開化は「港区」からと云える。

文明開化の先駆けの「新橋駅ー横浜駅」蒸械が出発・明治5年、明治天皇勅語が。(陸蒸気と呼んだ)
「今般我が国の首線工竣るを告ぐ。朕親を開行して其便利を欣ぶ。
嗚呼、汝百官此の成業を百事維新の初めに起し此鴻利を萬民の永亨の後に恵まんとし。その励精勉力実に嘉尚すべし。
朕我国の富盛を期し、百官萬民の為此を祝す。朕又更に此業を拡張して、此線をして全国に蔦布せしめんを庶幾す。」
「汽笛一声新橋を、、、、」新橋駅=汐留駅(現在の汐留町)で、鉄道記念日10月14日(太陽暦に換算)に。
新橋・汐留ー横浜(現在の桜木町)28.8kmは、主に貨車・コンテナ。明治42年「烏森駅」開業した。が、大正12年の大震災により焼失している。
汐留の江戸初期は、汐入りのアシ沼と云う。後埋め立て海は、堤防で仕切られたので、「汐留」、1624年以降は、竜野藩脇坂淡路守の下屋敷・仙台藩
伊達邸が占めていた。明治5年鉄道用地となった。大震災後は放置され長い間、埋もれていたが、昭和11年鉄道省が、駅を改築するに当たり「碑」立て
「永く奮駅を忘れ去らむとす」している。
「国鉄百年史」
新橋(汐留駅)~横浜間18マイル(29km)10月14日単線・イギリス製長さ24フィート、重量60ポンド(27.2kg)枕木檜・松使用・・。
明治天皇 新橋~横浜両停留場に臨御・式場敬護近衛兵800人輸送の為3往復運転・・・。
新政府の必死の思いが。また、当時の政府は、イギリス国からの借入と、さらに莫大な国費をつぎ込んでいる。

                     変わりゆく新橋・汐留


新橋駅日比谷口広場

C11形蒸気機関車・C11 292は、静態保存。C11 292は、昭和20年、日本車輌株式会社で誕生し108万3975kmを走破した車輌。




汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として、2集1番ー夏なお寒き布引の 滝の響きをあとにして 神戸の里を立ちいずる 山陽線路の汽車の道~治まる御代の天下茶屋 さわがぬ波の難波駅 いさみて出ずる旅人の 心はあとに残れども
6集40番ー幌別輪西打ち過ぎて はや室蘭に着きにけり 青森までは海一つ 海胆は此地の名産ぞ。全374番の歌詞を続けて歌うと1時間30分以上かかる。

                             鉄道唱歌の碑


「ゆりかごめ」
        東京臨海新交通臨海線は、東京都港区の新橋駅から江東区の豊洲駅までを結ぶ。


                  平成7年開業・18年有明ー豊洲間延伸


「汐留」は港区北東端、「浜離宮庭園は中央区」と第一京浜・国道15号線に挟まれた地区の東新橋。外堀・汐留川をへだてた旧武家地で、赤坂見附付近を
源とする汐留川は、物資輸送に大きな役割を果たした川で、河口には、問屋・商家・倉庫が軒を連ね、荷揚げ場であった。
明治5年鉄道開業で姿を消した。



平成7年から、都市基盤整備と民間のプロジェクトにより、都市再開発が始まった。平成16年には、13棟の超高層オフィスビルが建ち並び、
4つのホテルや数多くのレストラン、ショップなどが地下通路とペデストリアンデッキでつながる6万人の複合都市として生まれ変わった。
東側には浜離宮恩賜庭園をはさんで東京湾、西側は新橋駅から虎ノ門・神谷町・霞ヶ関の官庁街があり、銀座・築地・臨海副都心にも近く恰好のビジネスロケーションとなった。
六本木ヒルズやお台場と並び、東京の新しい観光名所の一つに。

    平成23年、国際戦略総合特区の一つである東京都提案のアジアヘッドクオーター特区区域に指定。


        古いビルの一角に「たい焼き」の店、行列・そこが新橋。


「新橋」東新橋・新橋・西新橋(田村町)。地名は、江戸時代に汐留川に架かる東海道の芝口橋・新橋の名が由来と云う。
江戸城下の重要な門戸で、城から見れば最も近い市街地・JR新橋駅西口「烏森」は、花街として栄えた。
新橋から浅草間の鉄道馬車は、1882年で交通の中心地でもあった。
戦後新橋駅西口と云えば一番早く「闇市」が開かれた。その、盛り場として飲食歓楽街がさえた。

                     今の盛り場、正面が烏森神社


                     新橋西口通り


進んだ港に育った「新橋芸者」は、進歩的、東京平康等級表で一等柳橋・新橋~四等神楽坂~五等向島・赤坂・・。
新橋駅日比谷口、柳の街が、烏森花柳街、この辺は、サラリーマンは遊日には行けない場所であった。
烏森と云うのは、鳥村・鳥丸などと呼んで「鳥」の多くいる鬱蒼とした森であったと云う。自然破壊である。
大正に出来た「新橋駅」は、ルネッサン式煉瓦三階建てあったと云う。

                     新橋2丁目付近


「烏森神社」
社伝ー天慶3年の940年、平将門が乱を起こした時、鎮守府将軍「藤原秀郷(俵藤太)」が武蔵国のある稲荷神社に戦勝を祈願したところ、白狐が現れて白羽の矢を秀郷に与えた。
その矢によって速やかに乱を鎮めることができたので、それに感謝してどこかに稲荷神社を創建しようと考えていた所、秀郷の夢に白狐が現れ、神鳥が群がる場所が霊地であるとお告げ。
秀郷が現在地である桜田村の森に来た所、お告げの通り烏が群がっていたので、そこに神社を創建したと云う。
江戸時代の稲荷ブームの際には、初午の稲荷祭の賑わいは、江戸で、一二を争うものであったと云う。
新橋には他に日比谷神社があり、大祭は、日比谷神社と交互に隔年で行われる。

                祭神ー倉稲魂命   大祭ー5月上旬 


     神社の千貫大神輿は、名人・山本正太郎(通称だし鉄)によって作られたと云う。


               狭い神社であるが狛犬は大きい


                    10段余の階段上に社殿


                       干支の戌が


「浅野長矩」 1665-1701 赤穂藩士 寛文5ー元禄14。

江戸城松の廊下での刃傷沙汰があったその日のうちに、切腹.
上野介を打ち取れなかった無念の思いを、辞世の句「風さそう花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」に託して。
浅野家はお取り潰しに。

          新橋4丁目の日比谷通り沿いに(元禄時代の田村家上屋敷)


          お菓子「切腹最中」の新正堂ビル この付近区画整理で変わっていた。


港区は、都の東・千代田・中央・品川区とともに都心を形成・23区の中央に位置し、昭和22年赤坂・麻布・芝が合併し「港区」に。
竹芝・日の出・芝浦桟橋から「港区」に。
「芝公園」増上寺境内一部にあたる公園で、明治6年に浅草・飛鳥山・上野・深川・とともに東京市制定の「5公園」の一つに指定



「増上寺・大門」
表門である現在の大門は、旧大門の老朽化のため、昭和12年に都によって旧大門の意匠を踏襲し1.5倍の大きさの高麗門、鉄骨鉄筋コンクリート造で再建


                         昔の参拝風景



「伊能忠敬」 1745-1818 測量家 50歳で隠居後、高橋至時の門下、測量術習得し17年かけて全国測量「大日本沿岸輿地全図」を。
一歩65㎝。  増上寺に記念碑がある。
久しぶりに新橋へいったので静岡を中断して記録します。



               伊能忠敬は、「高輪大木戸」から、測量を。



「増上寺」浄土宗大本山・山号三縁山・1393年聖聡上人開基・徳川家の菩提寺。
2代秀忠・6代家宣・7代家継・9代家重・12代家慶・14代家茂。和宮をはじめに夫人たちの霊廟がある。
重文ー二天門・惣門・三解脱門・法然上人伝など多数ある。

                     増上寺の三解脱門・1605年建立


                      今の三解脱門




                        本堂


「東京タワー」芝公園内、総合電波塔ー昭和33年で高さ333m(150mと250m展望台)。
入口に南極越冬隊に参加した「樺太犬」の群像が建つ。

                      本堂と東京タワー


                徳川将軍家墓所(6人の将軍が)と皇女和宮他


                         境内・案内

山手線30番目に新駅工事 高輪泉岳寺に2020年 

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武蔵野台地末端、東の山の手と沖積低地の下町・中央部に「古川」で、赤坂・麻布・高輪台の台地に分かれ、台地が入り込むので坂が多い。
その地形を表す「三河台・高輪台・日の窪・・」坂では、鳥居坂・潮見坂・仙台坂・乃木坂・・87か所を数える。
海を面する旧芝は、江戸時代の町屋を形成し、海苔の漁村であった。
現在は、埋め立てられ港湾・物流倉庫・工場・高層ビルが立ち並ぶ、芝大神宮だらだら祭知られている。
道路では、首都高1~4・11と国道1・15・246.鉄道は、JR東海道本線・山手線・京浜・・、私鉄京浜急行、地下鉄は、営団銀座線・千代田線・浅草線
モノレールなどが。

今日は、その鉄道の「山手線・新駅」が、2020年を目指しての工事が「品川駅~田町駅の間」に出来るので訪ねてみた。

               地下鉄浅草線「泉岳寺駅」交差点の稲荷神社境内から


                        二階の本殿


                          境内


山手線は、明治18年開通。
はじめは、浅草を中心に計画されたが、地元民の反対で現在の駅が、上野・鶯谷・日暮里・西日暮里(一番新しい駅)田端・駒込・巣鴨・大塚・池袋
目白・高田馬場・新大久保・新宿・代々木・原宿・渋谷・恵比寿・目黒・五反田・大崎・品川(この間に新駅が)田町・浜松町・新橋・有楽町
東京・神田・秋葉原・御徒町。現在29駅が2020年に1駅プラスされ「30駅」に。

                     大型クレーンと新ビル工事が


「新駅の名が楽しみである。」・・・窓より近く品川の台場もみえて「波」白く、うみのあなたにうずがすむ山は上総か房洲か・・・
鉄道唱歌から
                        JR横須賀線が


国道15号線・第一京浜「高輪大木戸」は、東海道の江戸出入口

                       高輪大木戸跡付近 伊能忠敬はここから全国測量へ


「慶応義塾図書館」大学正面左手にある図書館(明治40年創立)。「福沢諭吉が演説訓練の目的でアメリカ会堂を模したという」

                      泉岳寺は、稲荷神社の坂上。


                    泉岳寺交差点(第一京浜・415号線)


                      第一京浜から芝方面を


                        四十七士碑


                        高輪見取り図


                  地下鉄浅草線「泉岳寺駅」改札口付近


「大石良雄」 1659-1703 赤穂義士の首領 通称ー内蔵助 浅野家家老
主君浅野長矩の仇「吉良義央」を討つため、翌年同士46名とともに討ち入り首をあげた。
良雄は、幕命切腹した。3男大三郎は、広島浅野本家に。
                          大石良雄像


                    赤穂義士の「義」(記念館が)

「吉良義央」 1641-1702 地元では名君 足利一族の名門。吉良家は、断絶処分に。

                    吉良上野介義央と大石主税  (画)


「泉岳寺」 曹洞宗 ・山号 萬松山

1560年、桶狭間で打ち死に「今川義元」の霊を慰めるため徳川家康が赤坂に建立し1641年現在地に移転している。
曹洞宗江戸3ケ寺の一ッ名刹・浅野家の菩提寺。

                     大石良雄 (画)


                       山門                        


                       八脚門


                  参道のお土産屋 四十七提灯などが                        


「内匠儀、勅使ご馳走の御用を仰せ付け置かる。
その上時節柄殿中を憚らず不届の仕方に付いてお仕置き仰せ付けらるに付き、上野儀お構いなしとさしおかれ候ところ、主人の仇を報じ候と申し立て四十六人が徒党致し上野宅え押し込み飛び道具など持ち出し上野を討ち候始末。
公儀を恐れざる段重々不届きに候、これに依り切腹申し付ける」

                       赤穂義士墓地図


                       山門裏手


                         梅移植


                       泉岳寺本堂 本尊釈迦如来


                       四十七士墓地門


細川越中守に17名、松平壱岐守に10名、毛利甲斐守に10名、水野監物の屋敷に9名が移送された。

                        梅移植


                       首洗い井戸




                          墓所門


                       長矩公夫人の墓


                         良雄の墓 義士供養




                   毎年12月14日「義士祭」が行わ
                        


                    赤穂藩主浅野長矩及び義士の墓が




「大野九郎兵衛」 赤穂浪士・家老 大石氏と対立、討ち入りには加わらなかったと卑怯者に、(講談・歌舞伎)。
出羽国境「板谷峠」で吉良を待ち伏せしていたとも、墓石が残っている。

歴史ある沼津海岸 沼津御用邸付近 

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沼津に戻ります。

伊豆半島の西付け根、東部中心都市・中世沼津郷、政治・経済地域、駿河湾北東部を抱き込、沼津町・楊原村・片浜・金岡・大岡・静南・愛鷹・大平
内浦・西浦ー北に「愛鷹山」「狩野川で二分」、先土器・縄文土器の遺跡が多く、弥生土器時代は水稲耕作がい営まれている。
鎌倉時代から東海道の要衝、戦国時代には武将らの争奪の舞台ー「武田勝頼」は、狩野川河口に「三枚橋城」を築城、江戸時代に、水野藩が支配下とし
城下町・宿場町として発展し、「沼津市」は、静岡県東部の中心、大政奉還後 1867年、「沼津兵学校」が開設、近代都市の基礎が築かれた。

「長浜」は、戦国時代の古文書に出てくる地名で、長い浜に面した土地から付けられたと云う。
「長浜城跡」は、重須と長浜の境にあり海に張り出した小山の城。戦国時代、豪族大川氏の居城。
また、「重須」は、長浜に続く集落で湾内の入り江に面していることから「面洲」・この土地にとって重要な洲を意味し重洲と称し、「重須」と記され、「北条水軍」の根拠地で船大将「梶原氏の陣所」と云う。
田久留輪や城下の地名が残っているいるとも云う。
1580年、武田水軍が重須港に鉄砲を放ち、千本浜の沖合で北条と武田の水軍が海戦となり、両者とも勝負つかず引き上げたとある。

「梶原景宗」- もとは紀伊の海賊と言われ、北条氏康が、自軍の水軍を強化するために招いた。北条水軍は領国への海上侵犯や小田原城への攻撃を
防ぐことを役割としており、2度にわたる安房・里見水軍の襲撃を阻止した。また、武田水軍とも駿河湾で海戦を交えたといわれる。

長浜城、伊豆国君沢郡長浜(静岡県沼津市内浦重須)にある。戦国時代の海賊城の遺構を多く残している。
    

「北条氏直」 1562-91 5代目城主ー小田原城主ー北条100年王国の幕引ー
北条氏政の長男、本能寺の変後、上野国にいた「織田信長重臣・滝川一益」を撃破して信濃国へ攻め入る。小県・佐久郡占領する。
甲斐の国をめぐり徳川家康と争うが講和している。家康の娘「督姫」を娶る。「名胡桃城」を攻撃した為、豊臣秀吉の怒りを買い征伐され降伏する。
妻と別れる時にお守りを渡し北条早雲が小田原城を奪った際の、武運を祈って食べた勝栗の半分を錦袋に納めた物、代々伝わる秘蔵の品だったと云う。
ー一族から世に出る者があれば渡してほしいー頼んだと云う。氏直は、復活をあきらめていなかったと云う。
秀吉から1万石を賜り大坂で30歳で没している。

    

駿河湾奥部の内浦湾に面したこの城は、室町時代から北条氏に仕えていた大川氏が居城としていた。
その後武田氏が狩野川沿いに三枚橋城(のちの沼津城と同地)を築城したため、水路を絶たれた北条氏が1579年、頃、北条水軍の基地として改修し、
武田水軍との幾多の戦いの際の発進基地ともなった。
1580年(天正8年)には千本浜沖で、後に駿河湾海戦と呼ばれる大規模な海戦も起こっている。
1590年(天正18年)、豊臣水軍の侵攻の際は土侍が敗走、一戦も交えず陥落した。築城時期、終焉時期の明確な記録は不明である。

国の史跡に指定、
市教育委員会による発掘調査・史跡整備が行われ、史跡公園。
城址の各所に解説版が設置されている。

  

総面積は、15476㎡・城郭の中で最も高い場所の「第一曲輪」は標高約33m。
海側からの攻撃を想定しておらず、敵の銃撃をよける「土塁」は陸側にしかないのが大きな特徴と云う。
全国的にもこの形の城はあまりないとも云われている。

1550年代の戦国武将の勢力図は、関東や伊豆を北条氏、駿河は今川氏、甲斐が武田氏。3氏に囲まれた「緩衝地帯」が

                  現在の沼津市のあたりだった。
  

駿河を手中にした武田氏が狩野川沿い に三枚橋城(沼津城)を築城したため、水路を絶たれた北条氏が 1579に、
    


「駿河湾海戦」
武田氏の沼津三枚橋城と北条氏の沼津長浜城が整備された翌年、駿河湾内で海戦が行われた。
北条・武田両氏水軍は、天正8年の1580年、ついに両者の間に駿河湾を舞台に大規模な海戦が。
3月15日のまだ夜が明けきらない頃、武田方の軍船5艘による奇襲から戦いは始まり、鉄砲が飛び交う激戦を繰り広げた。
戦いは日没をむかえても決着はつかず、引き分けに終わったと云う。
北条方には「安宅」と呼ばれる50丁櫓の大型軍船があり、武田方は大分苦戦、4月25日に武田勝頼が武田水軍の小浜景隆・向井兵庫助に対して
「伊豆沿岸の郷村を数か所撃破したうえに、敵船を奪った」ことを称えている。
翌年3月29日に起こった沼津市久料(伊豆久龍津)での海戦においても武田水軍が「敵船3艘を乗り沈め、凶徒数十人を討ち捕えた」との記述があることから、3月の開戦後しばらくは武田水軍が優勢だったと思える。

織田・徳川連合軍が武田攻略作戦を進めると、これに呼応した北条軍も河東地域一帯から武田軍を追いやることに成功しているが。
武田軍は、この後盛り返すことはできず、滅亡へと進んでいく。

天正18年の1590年、
豊臣秀吉の小田原攻めに際し、長浜城は再び緊張状態におかれ、北条方水軍は、初めは豊臣水軍の来襲に備え下田城に集結しますが、評定の結果
籠城策と決まったため、小田原の川岸と油壷に移動、北条水軍の去った後の長浜城、在地土豪、大川兵庫が城将として籠城したと云う。
長浜城では大した戦闘はなく、韮山開城とともに廃城になったものと考えられている。



「県道17号」
沼津土肥線は沼津市口野のR414交点を起点に、伊豆半島北東部を海岸沿いに走り、土肥町(現 伊豆市土肥)のR136交点に至る54.1kmの主要地方道です。(土肥ー戸田村)


県道17号線を沼津から西伊豆方面に海沿いに走ると、その途中にいくつかの富士山が見られる展望台があります。
その一つ、静岡県沼津市井田にある「煌めきの丘」に立ち寄りました。
この「煌めきの丘」からは井田集落や明神池、駿河湾、そして天気の良い日には正面に富士山が見られるはずなのですが、今回の旅行探検で訪れたときは富士山全体があつい雲で覆われており見ることができませんでした(残念)
しかし、2月~3月頃にしか見ることができない菜の花畑の「井田」の文字を見ることができました。

ちなみに今回は行きませんでしたが、この「煌めきの丘」から少し下ったところにある「明神池」には徒歩10分ほどで行けるそうです。
次回の旅行探検で行った際には「明神池」や「松江古墳群(すんごうこふんぐん)」、駿河湾に面した海岸線まで行ってきたいと思います。



起点である沼津市・口野放水路交差点から伊豆半島西海岸沿いを進み、三津、西浦、大瀬崎、戸田を経て伊豆市に入り終点の土肥中浜で国道136号に接続します。駿河湾を眺めながらのドライブコースではありますが道幅の狭くカーブが多い区間が点在するので快適とまではいきません。沼津から土肥へのアクセスには国道136号



伊豆半島最南端の石廊崎と御前崎を結ぶ線に囲まれた海域が駿河湾で、その最深部は2,500メートルに達し、日本の湾の中では一番深い湾です。
駿河湾は、湾の間口も奥行きも約60km、表面積は約2,300平方kmです。
その水深の特徴は、フィリピン海プレートとユーラシアプレートの境に位置し、1,000メートルより深くに海底峡谷が湾口から湾奥部まで南北に連なっています。
湾内には約1,000種の魚類が生息しているといわれています。(日本の魚類は淡水魚を含め約2,300種)イワシ、アジ、サバをはじめ、サクラエビ、メダイ、ムツ、ヒラメ、ソコダラ類、ボタンエビ、アカザエビ、クルマエビ、イセエビ、タカアシガニ等が生息しています。
また、珍しい深海魚が生息していることでも有名です。

日本の深い湾トップ3

1位 駿河湾 2,500m 静岡県

2位 相模湾 1,500m 神奈川県

3位 富山湾 900m 富山県

資料、出典:東海大学出版会日本海洋学会沿岸海洋研究部会編、「駿河湾のなぞ」(星野通平編)
資料協力:沼津市、富士市


雄大な富士山を眺めながら、駿河湾を渡る高速カーフェリー。清水港と西伊豆土肥港をわずか65分で結んでおり、ちょっとした船旅気分も味わえる。特別室もある豪華なフェリーは横揺れ防止装置を備え、快適な乗り心地。広いデッキでは頬にあたる潮風も気持ちいい。

ヘダ号は、戸田村に感謝し命名された日露合同で造船された西洋式帆船の船名。

沼津市の戸田地区 写真は2010年のもの
1854年12月23日(嘉永7年11月4日)の安政東海地震によって伊豆半島は津波の被害にあった。この時、ロシアの海軍中将であるエフィム・プチャーチンは日本との国交樹立交渉のため、フリゲート「ディアナ号」(2000トン級)にて来日し、下田に停泊していた。津波によりディアナ号は直撃を何度も受け、半日もの間激しく湾内を旋回した後、沈没は免れたが、大破した。

ディアナ号は破損した船体を修復すべく、幕府の許しを得て、戸田村へ向かったが、航行中に強風と大波にあい1855年1月15日(安政元年11月27日)に田子の浦沖で座礁し、1855年1月19日(安政元年12月2日)に沈没する。幸いにプチャーチンと乗組員は、大地震の被災者でもある地元の人々の協力により救助され、宮島村(静岡県富士市)に上陸する。 プチャーチン使節団の応接掛であった川路聖謨も、ただちに救難対策を講じた。この時、ロシア人一行は、自身のおかれた状況も顧みず、献身的に救助してくれた地元の人々に対し大いに感謝したと伝わっている。

日露和親条約締結後、プチャーチンは帰国ための船の建造を幕府に願い出る。その申し出は許可され、戸田村・牛ケ洞にて帆船の建造が始まる。日本人は官民合同で300人と、ロシア人500人の計800人に上り、日本史上初ともいえる日露合同の造船が行われた。

日本人とロシア人の言葉の壁や、西洋式の帆船であるための資材の調達や専門技術者の不在など、数々の問題はあったが、日露双方が一丸になって取り組み、着工から3ヶ月という短期間で、2本のマストを備えた小さな帆船が竣工する。プチャーチンは、村民への感謝をこめてこれを「ヘダ号」と名付けた。「ヘダ号」は無事、ロシアのニコライエフスクまで航行し、プチャーチンたちは3年ぶりに祖国に帰還した。

1856年(安政3年)9月に日露友好のシンボルとなった「ヘダ号」は日本に返還されるが、戊辰戦争の局面の箱館戦争で官軍に対し使用されたのを最後に、その記録は途絶えており、行く末の詳細は、わかっていない。

戸田村では、ヘダ号の同型船である君沢形の量産が行われ、日本の造船技術の発展に大きく寄与した。



梶原 景宗(かじわら かげむね、生没年不詳)は、安土桃山時代の武将。後北条氏の家臣。備前守。
紀伊国の出身であったが、水軍の指揮に長けたことを北条氏康に見込まれて、その家臣となり伊豆水軍を率いた。里見氏や武田氏との戦いでは、水軍を率いて活躍したと言われている。しかし『北条記』では「海賊」と記されている。『北条五代記』では、「船大将の頭」と記されている。また、近年では伊勢湾沿岸と関東地方を結ぶ交易商人としての側面が指摘されている(北条家臣安藤良整と共に多くの商業関連の文書に連署している事からも窺える)。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐で水軍を率いるも本多重次の配下であった向井正綱率いる徳川水軍に敗れた。北条氏直とともに高野山に赴き、氏直の死後は紀伊に土着したという。 文書上、最後に動向が確認できるのは天正19年(1591年)に北条氏直が景宗から贈呈された鯖50匹に対する返礼。

北条氏康から景宗宛ての書状で「海上警備の為に現地(伊豆海域)に残ってほしい」とするものや、里見水軍との戦いに際しては「紀伊衆が活躍し~」などと記述が残っており、北条氏の直臣という立場ではなく、前述の交易商人としての行動や、「傭兵」のような形で属し、立場としては客将のような形であったと思われる。(ゆえに北条氏の滅亡後は本拠の紀伊へ戻っている)
沼津は、東部の伊豆半島の付け根、市名は中世の「沼津郷」から。愛鷹山麓には、縄文遺跡が多い。弥生時代から狩野川流域で水稲耕作が営まれてい、古墳も多い。鎌倉時代は、東海道の要衝であった。
武田勝頼は狩野川河口に「三枚橋城」を築いている。江戸時代は、水野藩の支配下の入る。大政奉還後(1867年)沼津兵学校・陸軍兵学寮
多くの人材を養成している。

「沼津御用邸記念公園・歴史民俗資料館」は、沼津御用邸は明治26年に造営され、明治・大正・昭和の三代に渡り使用されました。
昭和44年に廃止され、45年からは記念公園となって美しい庭園や邸が公開されている。(有料)

                    沼津御用邸記念公園


西附属邸は建物だけでなく室内の家具・調度品まで復元されており、当時の皇族の暮らしにふれることができます。東附属邸は、皇孫殿下の御学問所としての性格を受け継ぎ、文化活動のための施設。

                       園内


歴史民俗資料館では、駿河湾で使われてきた漁具類や沼津の地場産業となった干物作りの道具、湿田農耕の資料などを展示。

  

敷地面積は約15万平方mに及び、千本松原に連なる広大な松林と駿河湾に面した砂浜の中にある。明治時代、周辺には大山巌や西郷従道、大木喬任など元勲の別荘も存在していた。北北西の方向に富士山が見える風光明媚、かつ温暖な地。

  

昭和20年、沼津大空襲で本邸を焼失し、昭和44年に廃止されて沼津市へ移管され、昭和45年、残された東附属邸と西附属邸を中心として周囲の緑地と共に、沼津御用邸記念公園として開設、1994年には今上天皇が行幸。

国道414号から近い。

  

「過去の御用邸」は、 神戸御用邸(明治19年)設置、 熱海御用邸(明治21年)設置、現在は熱海市役所。
伊香保御用邸(明治23年)設置、現在の群馬大学伊香保研修所。 山内御用邸(栃木県日光市)(明治23年)設置、現在は日光東照宮社務所。

沼津御用邸(明治26年)設置、沼津御用邸記念公園。 宮ノ下御用邸(箱根町)(明治28年)設置。後に高松宮家別邸、現在の富士屋ホテル別館菊華荘。 田母沢御用邸(日光市)(明治32年)設置、現在の日光田母沢御用邸記念公園。
鎌倉御用邸(明治32年)設置、現在の鎌倉市立御成小学校、鎌倉市役所。 静岡御用邸(明治33年)設置、静岡大空襲で焼失。現在の静岡市役所。 小田原御用邸(明治34年)設置、現在の小田原城内。 塩原御用邸(明治37年)設置、現在国立光明寮国立塩原視力障害センター。

  

東附属邸は、かつての御学問所としての歴史と伝統を引き継ぎ、市民の交流の場として、文化・教養活動の拠点として改修整備したもの。

「現存の御用邸」は、那須御用邸 (大正15年/昭和元年)設置。主に8月~9月に利用されている。 葉山御用邸 (明治27年)設置。
(昭和46年)に建物が焼失。昭和56年に再建。主に2月~3月に利用されている。
須崎御用邸 下田市 (昭和46年)設置。邸内にはプライベートビーチがある。主に7月~8月に利用されている。

    

東附属邸は、1903年 昭和天皇の御学問所として、赤坂離宮の東宮大夫官舎を移築して造られ、夏期には隣地の学習院遊泳場とともに、ご利用の機会も多かったようです。
東附属邸は面積も約550㎡と広くありませんが、当時の御殿建築の姿をよくとどめて、1969年に沼津御用邸が廃止されるまで、長期間にわたり継続して利用された。
現在は新たに茶室を設け、日本文化を学ぶ研修所として、一般に公開している。
  
    

駿河湾に面した沼津港は、大きな漁港。沼津港の大型展望水門が多い。
内側が内港、外側を外港といい、フィッシングは外港の方が面白いと聞く。今日も多数の海釣りに。

                        水門
  

長浜へ 

土肥金山から土肥温泉 修善寺物語

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静岡県田方郡土肥町・伊豆半島西海岸、駿河湾の臨む、中世期以来の地名、説はいろいろある。
1577年、採掘、1606年、「大久保長安」が幕府の金山奉行に任命。「土肥千軒」と云われたのがこの頃、金産出量が増えていく。
が、1965年閉山した。1680年頃坑道から「温泉」が湧きだした。それを鉱湯と云われた。土肥温泉である。土肥海岸・温泉・金山跡などで
全国に知られた観光地になった。-坑道湧出し平均95℃・硫酸塩泉ー沼津港から船をおススメ。

土肥金山の坑口・土肥金山・土肥鉱山」は、伊豆市の指定史跡。1972年からテーマパークとして一般に公開。
金山は明治から昭和にかけては、佐渡金山に次ぐ日本第2位の産出量があった。1965年に鉱量枯渇のため閉山。
土肥マリン観光株式会社が、観光坑道、鉱夫らの人形で再現、砂金採りの体験も。
金山資料館「黄金館」には、土肥金山に関する資料や鉱石などが展示され、ギネスにも認定された250kgの世界一の巨大金塊などもある。

  第一期黄金時代を明治時代から昭和にかけて第二期黄金時代を迎え佐渡金山に次ぐ生産量を誇った。


金山は、1577年発見。幕府直轄の金鉱として採掘した金銀は慶長小判の地金に使われ、1596ー1615年には、繁栄を極め、幕府公許の妓楼が連なり、
土肥港は金塊を運ぶ葵定紋の千石船で賑わったという。
昭和40年廃坑、一部坑道を整備して当時の採掘の様子を見せる観光施設に。

          砂金採りのできる「砂金館」(有料)
  

「丸山城址」
形式ー 山城・丸山スポーツ公園(船溜り)の北半島状に突き出た山に出城と、西から東へ掛けての山に本城がある。
年代ー 戦国時代
城主ー 富永氏 「遺構 郭・土塁・堀切・石積など。
      


明応年間以前より土肥周辺に勢力を持っていた高谷城主、「富永政直」の支城。
1493年、、北条早雲が伊豆へ侵攻を始めると早雲の家来となり領地を安泰される。
その後、富永直勝ー政家と続き、1587年頃の豊臣氏による小田原征伐の動きに対し、「土肥の水軍基地」を守る為に
高谷城と共に改修されたと思われるが、丸山城はその半ばで放棄されたと云う。

  

遺構は、国道脇から出城側へ道を下ると幅10m程の堀切が、出城の山頂部には東西30m、南北50mの平場が見られ、東北側には兵糧貯蔵庫だったと思われる5m四方程の土塁で囲われた郭が残っていると云う。
海に面した北側には六、七段の腰郭が付属など、
出城は、「小田原の役」以前には本城として機能していたが改修により出城として位置付けられた。
物見曲輪が畑となり残っていた。
堀切地形の畑が見られ、郭が案内板に表記されているが畑に、遺構は見られない。

                     丸山スポーツ公園


          土塁と、虎口、兵糧庫の虎口には石積が藪に覆われている。
  

                  国道から見た出城
  

「日蓮宗・妙蔵寺」ー伊豆市八木沢。

境内に七福神が安置・本堂右側の石段の上に「平和の鐘と世界の平和の塔」、塔の石段下、「原爆の少女の像2体を建立」。
広島にて原爆で被爆して白血病になり、12才で死去した故・佐々木禎子さんをモデルにしたブロンズ像。
長崎で被爆した15才で死去した故・林嘉代子さんをモデルにしたブロンズ像が。



  伽藍山(876m)-太平洋展望台・西伊豆ラインの登山道入り口辺りで周りは田圃
    

「日蓮宗・栄源寺」
三十三観音。たくさんの観音像が祀られている。
観音様の御名を唱え、心に念じお参りすれば難病が快癒するのは勿論、交通難など諸難から免れ、、、。

山門は、伊豆市の文化財に指定。観音堂・三十三観音・七観音・非母観音・水子観音・大観音。
  

1471年、池上8世大運阿闍梨日調により改宗された西伊豆で最初の日蓮宗の寺。
  

                    栄源寺ー山門


「伊豆半島」
三島ー沼津ー伊豆長岡ー戸田ー土肥ー賀茂ー西伊豆ー松崎ー南伊豆 駿河湾で、ー下田ー河津ー熱川ー伊東ー熱海ー湯河原に、相模湾で、
中央に韮崎ー大仁ー修善寺ー天城ー河津 狩野川が、

680年では、駿河国に田方、賀茂2郡を割いて1国、律令制では、田方・賀茂・那賀の3郡で国府を三島市鷹部屋、後に長谷に移ったとある。
古来罪人配流の地、源頼朝・日蓮が流された平安時代、駿河守「藤原維景」は、「狩野氏」名乗って、子孫は、伊東・宇佐美・河津氏として栄えて行く。
「伊豆介」として赴任した「平 時方」は、北条・韮山の土着、その子孫が「北条時政」らで「蛭ヶ小島」に流罪の「源頼朝」を擁して鎌倉幕府
の樹立に貢献した。時政の娘が「政子」頼朝亡き後「尼将軍」と称されている。
室町時代に「足利政知」は、田方郡堀越・韮崎町に居を構え、関東支配をめぐって下総の「古河公方」と対立した。
足利政知没後「伊勢新九郎・北条早雲」は、堀越公方を攻め、「韮山」を拠点に伊豆を支配していく。
北条早雲は、小田原に進出して戦国大名「北条氏」の礎を築いた。
近世に入り、伊豆は天領・幕府領となり、三島代官ー韮山代官「江川氏」が支配した。
1792年、ロシア遣日使節「ラクスマン」が根室来航し海防問題が持ち上がり、伊豆は、江戸防備の重要地となり、老中「松平定信」は、「下田」を
開港場となった。韮山に「反射路」が築かれた。
戸田に「洋式帆船」が建造・1868年の明治元年韮山県が置かれ、1876年静岡県に合併、、、。

「狩野城跡」
平安末期の1100年頃、「狩野氏」によって築かれた城の跡。
標高190mの城域には,鎌倉時代に発達した二重堀を備え,本郭・西郭・南郭・中郭・東郭・出丸に区分、中世山城の遺構が,重要な史跡
    

「狩野氏」
平安時代後期の11世紀半ばから室町時代後期の15世紀まで約400年にわたり、狩野地区の領主。
北条早雲が伊豆に攻め込んだときには敵対、後に狩野城を開城して降伏、小田原に移って後北条氏の家臣団の中枢で活躍した。
狩野城は、狩野川と柿木川合流点の南側の丘陵地に、急峻な斜面に囲まれ、深い空堀が各郭を区切るように設け、二重堀。
残っている地名から、戦のない平常時には城内でなく、西側の平坦地に住んでいたものと推測される。
近くには、「法泉寺」の、しだれ桜は天然記念物で、3月下旬には桜まつりも開催、花見客が訪れる。

    

祖・狩野維景が駿河守を退任し,初め,市内日向に館を構えたが,その子「狩野維職」が伊豆押領史を務め、軍事上の必要もあり要害の地を選んで
この地に移ったと云う。
最初の城主は二代維職が三代維次。維景から五代の孫茂光は,その子親光と共に源頼朝に従い,1180年、石橋山の合戦に敗北自刀したが,
子孫は鎌倉,室町両幕府に伊豆を代表する武将として仕えた。
1493年、からの「北条早雲・伊豆侵攻の折,城主狩野道一は足利方に付き戦い,敗れて開城したと云う。
その後一族は小田原に移り,後北条氏の重臣として重職を歴任している。
 
室町時代中頃から絵師として栄えた。狩野派の初代狩野正信は,維景から十六代の孫。
  

「狩野派」は、 親・兄弟などの血族関係を中心とした画家の集団で,江戸時代末期までの およそ400年もの長期間 日本の画壇に君臨し、特異な画家の系列である。
室町幕府の御用絵師となった「狩野正信」を祖として,元信・永徳・山楽・探幽・・・など名前を挙げきれないほどの多くの名人を輩出している。
この狩野家が 狩野城と どのような関係があったかについては,必ずしも明確な説明はない。

  

「一級河川 狩野川」 延長ー46km。
川流域は、火山地帯であり、箱根山・愛鷹山・富士山・天城山・達磨山などの第四紀火山や、新第三紀に形成された火山性地層からなる静浦山地などに囲まれ、流域の多くが脆弱な火山岩及び火山噴出物で地質が構成、大雨などで崩壊しやすいことも洪水の要因であると云う。
名称の由来は、日本書紀によるもので、「応神天皇」5年の274年、「伊豆の国」で船を造り、その名を「枯野」と称したとある。
それが軽野からカヌに変わったという説。伊豆市の湯ヶ島地区の松ヶ瀬には、軽野の造船儀礼と深く関わっていた神社である「軽野神社」が残る。

「宝蔵院」
延暦19年の800年、「弘法大師空海」が開いたのが始まりと伝えられている。
境内にある「いの字石」は空海が宝蔵院の山門前で発見され、法力によって「い」の字を刻んだと伝わるもので古くから無病息災に御利益があると信じられている。
後、1598年、佛山長壽禅師が改めて開山、永平寺(福井県永平寺町)の末寺となっている。
現在の山門は、1659年、に再建、単層切妻、銅板葺(元茅葺)、間口3m、奥行3.1m、彫刻は2代目甚五郎が彫ったものと伝えられ、
(伊豆市指定文化財に指定) 

    
弘法大師の創建と伝わる寺で、その後曹洞宗に改宗。本堂左手に弘法大師の命石といわれる霊石 ”いの字石" が残っている。

1659年、再建の山門に、「狩野元信」の下絵で左甚五郎作と伝えられる竹に虎の彫刻がみられると云う、
甚五郎作の篇額で表が船原山、裏が牡丹も残されている。

                        宝蔵院
    

「土肥温泉・日蓮宗 清雲寺」
小田原北条氏時代の土肥城主富永山城守の菩提寺。
天保三年建立の現今本堂に日蓮聖人一代記を掲額、畳一帖大の杉板(90枚)に岩絵具・貝粉などで描かれている貴重な文化財。日蓮聖人の生涯を描いた板絵額があるお寺として知られている。この90枚の絵を描いたのは浮世絵師の「歌川国秀」氏で、歌川氏が51歳の時に完成させた絵だと云われ、
明治23年、日蓮宗門篤志家の賛助により奉納された。
板絵は90枚にも及び、板の上に和紙を盛り上げて立体感を出すなどの手法を凝らし、肉筆彩色画で、大型の額の中でも傑出した作品と云う。
建物は、大工の神様として語りつがれる「酒井多次郎 藤原政房」。

(一運斉国秀画伯 作品 明治二十三年掲額)
現在では、その板絵が観光の名所、壮大な寺院内には、位牌堂(富永山城守御位牌・檀家各位の御位牌をお守りし山城守の開運を授かり無病息災を祈る)・七面堂(七十七段の石段を上りつめたところに御堂があり七面天女・鬼子母神女性の守護神・大蓮院(三十番神)

                 日蓮宗ー清雲寺
    

「日蓮聖人一代記 90枚を掲額 浮世絵師 歌川国秀 作」ー市有形文化財ー(本堂内)

日蓮大聖人の一生を知ることができる。


「七面大明神」
七面天女とも呼ばれ日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神。
七面天女は当初、日蓮宗総本山である身延山久遠寺の守護神として信仰され、日蓮宗が広まるにつれ、法華経を守護する神として各地の日蓮宗寺院で祀られるようになったと云う。
山梨県南巨摩郡早川町にある標高1982mの七面山山頂にある寺「敬慎院」に祀られている神で、吉祥天とも弁財天ともいわれる。
伝説によると、日蓮の弟子の日朗と南部實長公が登山して、1297年、九月十九日(旧暦)朝に七面大明神を勧請したと言われている。
七面山は、古来より修験道が盛んな山で、山頂にある大きな池のほとりには池大神が祀られている。
その姿は役の小角の姿である。日蓮聖人の時代以前から、すでに七面山には山岳信仰の形態の一つとしての池の神の信仰があったと云う。

                          七面大明神
  

県南東部・伊豆半島北・狩野川中流・田方郡修善寺町、空海が806-810年に発見したと伝わる「修善寺温泉」の町。
南北朝期に「足利基氏」に執事職解任された「畠山国清」が立てこもった「修善寺城(小立野)」があった。
1596年頃から「大久保長安」開墾のー瓜生野金山は30年掘削されている。一時衰退した「修善寺紙・立野半紙」室町時代に復活している。

「独鈷の湯」狩野川にある露天風呂。
虎渓橋の河原にある。-病気の父を助けようと若者が、持っていた独鈷(鉄銅の仏具の棒)掘り当てた温泉ー弘法大師(空海)にまつわる伝説
空海は、他にも湧水(温泉)で村を救亥救済したとある。-弘法清水・弘法水・弘法井戸・杖立て井戸・お大師水・弘法願水等ー

                狩野川支流桂川の河原にある「独鈷の湯」


温泉街ー風の径ー
竹林の小径から、桂川を望む。ギャラリー等が、小径を抜けると、その先に「赤蛙公園」、遊歩道があり、先に、「源範頼の墓」へと続いている。
径の途中には、配湯所と呼ばれる「貯湯槽」(過去温泉の需要が高まるにつれて、温泉管理が無秩序であった為に源泉の主要含有量が低下したことも)
その後、2つの配湯所を作り、第1配湯所で必要量の温泉を集め、第2配湯所が、

                      竹林の径
   

「修善寺」
山号ー肖盧山、創建は、空海の弟子「杲隣」、真言宗であったが、北条早雲再建し曹洞宗になる。

鎌倉時代、宋の蘭渓道などが修法している
    

1194年源頼朝に幽閉された弟「源 範頼」は、梶原景時に襲われ自刃し、鎌倉2代将軍「頼家」が幽閉・殺害、、、修善寺物語(岡本綺堂)
我が国最古の金銅独鈷・木造大日如来坐像・木造釈迦如来坐像ー重文が安置されている。
    

源頼家 1182-1204 頼朝の長男、 鎌倉2代将軍 北条氏を討とうとしたが破れ、修善寺へ幽閉、三代将軍に実朝となる。若くして破滅した将軍

「指月殿」
伊豆最古の木造建築と言われる指月殿、
北条政子が2代将軍の菩提所として建立した。
指月とは経典を意味し、禅家が愛用している不立文字を解く言葉。
鎌倉から送られてきた5~6千巻にも及ぶ宋版大蔵経を収める経堂で、大部分の経本は散失してしまい、わずかに「放光般若波羅密経・巻第二十三」だけが残り、巻末には「為征夷大将軍左金吾督源頼家菩提 尼置之」という政子の墨書がある。
現在は修善寺の宝物館に保存。
本尊である釈迦如来坐像(県指定文化財)は、蓮の花を持った禅宗式という珍しい形をしており、杉を中心にした寄木造りで高さ203cmもあり、
この種の像としては伊豆最大のもの。
阿吽二体の仁王像は、本尊よりさらに古く藤原時代の作と言われ、修善寺の全盛時には寺門の入口を守っていたとされている。
本尊ともども大変貴重な三体は、昭和57年(1983年)に2年の歳月を掛けて修復。

源頼家の墓と 主君の暗殺の敵討ちを13 士が計画したが、事前にそのことが北条方に漏れ、撃取られた家臣の13士の墓。
    

「源範頼」 兄頼朝に謀反を疑われ不運の武将。
範頼公の墓、源範頼は、源頼朝の異母弟、母は遠江国池田宿の遊女だったといわれている。
1159年の「平治の乱」後、藤原範季に養育されたことから、その一字をとり「範頼」と名乗り、「源平合戦(治承・寿永の乱)」で
源義経とともに頼朝の代官として活躍し、1193年、、頼朝が催した富士裾野の巻狩りの際に起こった「曽我兄弟の仇討ち」をきっかけに
失脚してしまう。
「吾妻鏡」、「曽我兄弟の仇討ち」は5月28日に発生。頼朝は無事だったが、鎌倉には「頼朝も討たれた」という誤報が伝わる。
心配する北条政子に対して範頼は「私がいるから心配ない」と言ったのだという。しかし、この言動が頼朝から謀叛の疑いをかけられ、8月2日、
範頼は疑いを晴らすため、頼朝に起請文を提出するが、起請文の署名に「源範頼」と記してしまう。
この事に頼朝は「源家の一族と思っているのだろうが、すこぶる思い上がりである」といって激怒し、8月10日には、範頼の家人当麻太郎という者が
頼朝の本心を確かめようと頼朝の寝室の床下忍び込むという事件が発生した。
ますます立場の悪くなった範頼は、8月17日、伊豆修禅寺に幽閉され、間もなく梶原景時に攻められ自刃したと伝えられている。

                       源 範頼公の墓
    

達磨山東斜面を流下する狩野川・桂川沿いに形成された温泉街で、歴史は古く弘法大師と文学とのゆかりも深い。
我々の新婚旅行は、交通公社の「寿コースの2泊3日、熱海・伊豆一周」で、最後が、修善寺温泉で解散、その当時の賑わいは無い。
岡本綺堂ー修善寺物語ーの舞台でもある。夏目漱石のー修善寺日記の碑もある。



「伊豆国遠流の国」 1160年。
源頼朝が流されたという伊豆国の蛭ヶ小島は、水田の中にあった高地で、蛭が多かったことから付いた名といわれている。
頼朝はここで父義朝の菩提を弔いながら、約20年を過ごしている。


修善寺物語

どうしても満足ゆく面ができない。しかしそれは、彼の技が優れているがため。モデルの死まで予見してしまった名人の物語。

面作り師・夜叉王は、伊豆の修禅寺に押し込められた将軍「源頼家」から顔を写した面を依頼されたが、満足のゆく面ができない。
しかしそれは彼の腕が拙いからではなく、頼家が持つ暗い運命のためであった。
夜叉王の娘・桂も出世を望んで、その運命に巻き込まれてゆく。

1204年秋ー
伊豆の国修善寺村、桂川のほとりに住む面作り師夜叉王の家。
美しく勝ち気な姉娘の桂と、その妹の楓が名産品の紙を砧でたたいて柔らかくしている。桂は面を作る職人の仕事など卑しいもので、「この家で一生を終わりたくない」と言い、仕事に誇りを持っている楓の夫・春彦と言い争う。
父の面作り師・夜叉王が出てきて諍いを止め、春彦に、桂は亡き母に似て気位が高く公家のような気質なのだと言い聞かせる。

頼家の怒りー修禅寺に蟄居させられている鎌倉幕府の二代将軍源頼家が、お忍びで夜叉王を訪ねてくる。
自分の顔を写した面を作ってほしいと頼んだのに、半年以上たってもできないので、気の短い頼家は自ら催促に来たのだ。
「面のできない理由を言え」とせまられた
夜叉王は、「自分の中に力がみなぎって流れるように打つのでなければ面は打てない、いつできるか約束はできない」と答える。
怒った頼家は夜叉王を斬ろうとする。
驚いた桂と楓が父の打った試作の面を差し出すと、その素晴らしいできばえに頼家は満足し、桂のことも気に入って、奉公させることにする。
高貴な人に仕える希望がかなった桂はすすんで供をする。
頼家たちが去ったあと、失敗作を渡してしまったことに耐えられない夜叉王は、今まで作った面をすべて砕こうとする。
だが「一生に一度名作ができれば名人、これからいよいよ立派なものを作ればよい」と泣きながらさとす楓の言葉に黙りこむ。・・・・。

北条の使いとして金窪兵衛行親が現れる。
行親は頼家が桂に「若狭」の名を与えたと聞き、鎌倉に相談もせず勝手な行いだと非難する。
取り合わずに去って行く頼家と桂。
しかし行親のほんとうの目的は、北条方の命令で頼家を暗殺することだった。
たまたま行親の計画を聞いてしまった春彦は、行親たちが去ったのち、あとから来た頼家の家来、下田五郎景安に伝える。
下田五郎は襲ってくる行親の手勢を斬り捨て、夜討ちの企みを修禅寺に伝えるよう、春彦に頼む。

面の真実は、
修禅寺を夜討ちする音が夜叉王の家まで聞こえてくる。
春彦が走って戻り、修禅寺に近づくこともできなかったと報告する。
そこへ桂が先ほどの面をつけ、頼家の身代わりをつとめて重傷を負って戻ってくる。
取りすがって「死ぬな」と泣く楓に、桂は「半時でも将軍に召し出され、名を頂いて満足だ」と告げる。
逃げてきた修禅寺の僧が、頼家が討たれて死んだと告げる。
自分が何度頼家の顔を写そうとしても生きなかったのは、技術が足りなかったからではなく、夜討ちで死ぬ頼家の運命が自然と面の上に現れたからだと覚った夜叉王は、
自分の技に心から満足する。そして死に行く娘・桂の顔をのちの手本にするため、紙に描き写すのだった。

「歌舞伎から」




伊豆長岡 韮山の反射炉、日本で初めてパンを作ったなど江川氏の偉業

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「浜城」

駿河湾奥部の内浦湾に面したこの城は、室町時代から北条氏に仕えていた大川氏が居城としていた。
その後武田氏が狩野川沿いに三枚橋城(のちの沼津城と同地)を築城したため、水路を絶たれた北条氏が1579年頃、北条水軍の基地として改修したとされる。
武田水軍との幾多の戦いの際の発進基地ともなっており、1580年には千本浜沖で、後に駿河湾海戦と呼ばれる大規模な海戦も起こっている。
そして、1590年、豊臣水軍の侵攻の際は土侍が敗走、一戦も交えず陥落した。
築城時期、終焉時期の明確な記録は不明である。



北条早雲は、伊豆国と小田原を本拠に、次第に独立して戦国大名化し、関東へ本格的に進出を始める。
道寸は藤頼を保護してこれと争うが、早雲は山内上杉家と対抗するために1498年、上杉朝良・三浦道寸に対して同盟を提案する。
話し合いの結果、顕定が守護職であった伊豆を2分する(早雲が伊豆半島を、道寸が伊豆諸島を領有する)事で和解が成立した。

1512年、ついに早雲は兵を挙げ岡崎城に攻撃を開始。
敵せずと見た道寸は弟・道香の守る住吉城(現逗子市)に退却し、抵抗を続けた。
しかし道香も戦死。道寸はさらに新井城へ退却し、扇谷上杉家へ援軍を要請する。しかし、援軍に向かった太田資康(太田道灌の子で道寸の娘婿)も北条勢に迎撃されて討ち死に。
道寸・荒次郎父子は三浦半島の新井城に籠城、北条軍がこれを包囲、、、、。

「駿河湾海戦」武田水軍・北条水軍幾多の海戦。
今川氏が衰退した1560年以降、駿河への侵攻を始めた武田信玄は、駿東をめぐって小田原北条氏と激しく争いました。
駿東は武田氏の手に落ちますが、北条氏も戸倉城(清水町)を前線基地とし、武田方と対峙します。
海のない甲斐の武田氏は駿河を手に入れるために、旧今川水軍から引き継いだ伊丹氏・岡部氏をはじめ、伊勢からは向井氏・小浜氏といった船大将を招き入れて水軍を組織しました。
1580年には、北条氏と武田氏両水軍による「駿河湾海戦」が起こりす。
静岡県内の武田水軍の城として江尻城・袋城(静岡市清水区)、持舟城(静岡市駿河区)が知られている。

    

一方北条水軍は、伊勢新九盛時(北条早雲)が伊豆を平定した時からの在地武士である富永氏(土肥)、高橋氏(雲見=くもみ)、松下氏(三津=みと)、鈴木氏(江梨)らが中核となっていました。それに加え、早雲によって滅ぼされた三浦氏の遺臣を取り込んで組織した三浦水軍や、船大将として熊野から招かれた梶原景宗らを併せて北条水軍が組織されていきました。
駿河湾において武田氏とは何度となく海戦を交えましたが、1582年武田氏滅亡後は豊臣勢の脅威にさらされていきます。
そして1590年、長宗我部元親・九鬼嘉隆・脇坂安治らが率いる豊臣連合軍の大船団がついに下田を取り囲みます。
水軍に力を注いでいた小田原北条氏ですが、この強大な豊臣軍勢にはとても太刀打ちできません。
駿河湾から伊豆へと、豊臣勢は陸と海から北条氏の拠点をことごとくつぶしつつ小田原へと迫ったのでした。

                     湾内
  

1590年、豊臣勢との決戦態勢のためか、後北条水軍は小田原に集結、水軍が撤収した長浜城には土豪「大川兵庫」が立て籠もったという。
豊臣水軍が迫ると、「大川兵庫」らは抗する術もなく一戦も交えず敗走したと伝えられている。
その後、大川氏は網元として内浦の漁業を支配し、江戸期には韮山代官の小代官をつとめて幕末に至ったという。

無縁墓地                      海岸線から見た城山                     航空写真
    

「光明寺」長浜城の近くの寺、鎌倉の「光明寺」の末寺と思われる。
鎌倉光明寺は、創建年不明、15世紀頃、鎌倉三十三観音18番、 鎌倉二十四地蔵22番、 東国花の寺百ヶ寺 鎌倉2番。
浄土宗大本山 光明寺、山号を天照山、本尊は阿弥陀如来。
北条経時、開山とある。13世紀〜14世紀にかけての歴史はあまり定かでないが、室町時代には中興開山とされる祐崇上人-1509年によって復興

城山階段                                               光明寺
    

古い供養塔・地蔵・石仏。

        本堂                                お地蔵さん
  

伊豆長岡にある江川邸は代官の屋敷をそのままの形で今に伝え、国から重要文化財に指定されている。建物でとくに目をひくのは、力学的に組まれた屋根裏の構造。
その他日蓮上人の火伏の札が屋根裏のいただきに納められていたり、立木をそのまま利用した生柱などがある。

江川太郎左衛門(坦庵)は、洋学にくわしく、海防の必要性を早くから叫び、沿岸測量、品川台場構築、砲術指南、大砲鋳造、種痘、パン製造など文武両道にたけた人。

  

広い門前


土間とかまど                     木製の扇風機            米などを量るじょうご
    

江川太郎左衛門は、反射炉ばかりでなく、数々の偉業を成し遂げていた。これは、日本で初めてパンを作った彼をたたえた記念碑である。
ユ-モラスな形の碑で、とてもおもしろい。
ほかにも、教育熱心の彼の私塾は後の韮山高校になり、また、種痘にも熱心に取り組んで、住民を天然痘の流行から救ったとのこと。

庭の蔵                              パンの記念碑
  

近くに本立寺                    江川太郎左衛門の像
  

1857年(安政4)、韮山代官だった江川太郎左衛門英龍の進言で建設された鉄製大砲を鋳造するための炉。
1853年(嘉永6)のペリー来航、欧米各国のアジア進出に対抗するため、軍備の近代化を目的として建設された。ほぼ完全な形で残り、管理されているのは全国でもここだけ。

4基の反射炉の外側は伊豆石、煙突部分は3段構造で125段のレンガが積まれ、煙突を含め高さは約16m。内側は耐火レンガのアーチ積み。
天井に熱を反射させて一つに集中し、金属を溶かす構造。ここで鋳造された大砲は品川台場に配備された。

反射炉のそばにはレストラン
   

反射炉

富士山の湧水の柿田川公園 頼朝以来の三嶋大社 

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県東部、駿東郡清水町に入る。西に沼津・東が三島で、街中央に富士山の大小10ヶ所に自爆湧水の柿田川がある。町名も湧水に由来する。
戦国時代は泉頭・徳倉の2城が置かれ、北条と武田の激戦地になっている。
三島市の発展で清水町もその延長部分となっている。
今は、工場が多く、沼津の卸商団地、徳倉団地とベッドタウン化している。 

「白隠の遺墨」が、白隠慧鶴は江戸時代中期に、“駿河に過ぎたるものが二つあり、富士のお山と原の白隠”と言われ、分かりやすい禅画や和讃の形式で民衆の教化に努めた臨済宗中興の祖と称えられる高僧。
玉井寺に残された白隠の遺墨は三界萬霊等二点と山号・金龍山及び寺号・玉井寺等であり、いずれも雄渾にして気魄のある肉太の筆跡で大変貴重である。(数か月前渋谷文化村で白隠の水墨画の展示を掲載した。沼津-吉原の中間原町を予定しています)

    

金龍山「玉井禅寺」禅画、東海道田子の浦「白隠禅師」の関係寺という。

達磨の禅画は、世界に知られている。


昭和50年代まで荒廃に任せるままであったがという。昭和60年に原型に復元整備され、 61年 清水町文化財指定されている。
百丈山宝池寺は、臨済宗妙心寺派 駿河國興津清見寺末寺という。 元亀2年(1571年)創建という古寺。

宝池寺一里塚


「市内の一里塚」

宝池寺一里塚は、向い側にある玉井寺一里塚と対を成し、一般的に伏見一里塚といわれ、江戸日本橋から29番目に当たり、昭和60年復原。
宝池寺側には立場があり人夫が駕籠など留めて休息できる場であったと伝えられている。

玉井寺一里塚は、1604年、江戸幕府が交通政策上の重要施策として、四キロメートル(一里)毎に道路の両側へ、高さ1メートル、9メートル平方の塚を築き、上に榎(えのき)を植えさせた当時の里程標の一つ。
一里塚と三島市塚原(山中)にある一里塚との距離は正確であるが、沼津日枝神社境内の一里塚との距離は短かい。
こちらは原形を改修してあるという。

    

「柿田川公園」は、昭和61年、「自然の保護・保全」と「コミュニティー広場の確保」を目的に町民の憩いの場として柿田川の上流部に開園
園内の第1・第2展望台からは、年中変わることなく水が湧き出る「わき間」を見ることができ、湧水広場では実際に水に足を入れて湧き水の冷たさを体験できるので、子供・家族連れが多い。
国指定天然記念物の柿田川を眺めながら散策できる遊歩道が整備されている。

富士山の湧水が滾々と


東洋一の大湧水群が湧き出る様子が見られる、-柿田川湧水群-。富士山の雪解け水が、長い年月を経て、ここ柿田川に涌き出ます。



柿田川の日100万トンの水量すべてが湧水、公園内は、貴重な動植物の生息地として知られ、約35万人の飲料水として利用されている。
ミネラルウォーターが水道から出てくる、日本有数のすばらしい地下水。

公園内の「貴船神社」
  

柿田川は、延長ー1.2 km短く、合流先は、狩野川へ。県駿東郡清水町を流れる狩野川水系の一級河川。約1.2kmは、日本で最も短い一級河川である。
かつては泉川、周辺地域は、泉郷と呼ばれていた。大量の湧水を水源とする日本でも稀有な川である。
本河川は、長良川・四万十川とともに日本三大清流に数えられている。
1985年(昭和60年)柿田川湧水群として名水百選に選定された。
さらに国の天然記念物にも「地質鉱物」の枠で指定、これは民間の企画であるが、日本の秘境100選にも選定。

雑木林には、いろいろな昆虫              夏になると涌出水が増すと聞く
    

「駿河志科」(1861)によると、夏には益々湧出溢れるがこれは富士山の雪解けの水であって、地中をくぐって出てくると里人は言っているがそのとおりであり、柿田と言う地名がつけられたのは里の老人の話として、この地は用水に不足し乾き田であったことから「カキダ」といっていたが、後に柿田の文字に変えたと記している。

    

「水生生物」は、安定した水温と水量が保たれているため生物にもその影響が現れている。
沈水植物には珍しい種類があり、春秋に水中や水面に淡黄色の梅花に似たミシマバイカモのほか、多年草のセキショウモ、フサモ、ヤナギモ等である。魚類は流域によって種類が変わり、清流ではウキゴリ、カジカ、アユ、アマゴ、濁りの在る所ではウグイ、ヘラブナ、アブラハヤ等が生息。
川底にはヌマエビ、スジエビ、テナガエビ、モズクガニ等の甲殻類が生息している(清水町調べ、1981)。



公園は、国道1号線沿いにある。一歩中に入ると、公園としても、芝生が広がる広場、園内に引かれた水遊び用の水路、2つの大きな湧水群と、きれいな水と空気の中をあるく遊歩道が続く。 遊歩道を歩きながら、小規模の湧水が、



「柿田川」は、清水町伏見にある柿田川公園の「わき間」からの湧水に源を発し南へ流下、清水町役場付近で狩野川に合流する。
流水はほぼ全量が湧水から成り、これは富士山への雨水や雪どけ水が三島溶岩流に浸透し、その先端部から湧き出でたものである。
清流で知られ、水温は季節を問わず15℃前後。流量も年間を通してほぼ一定を保っている。当河川特有の水中植物としてミシマバイカモが自生している。
豊富な湧水を求めて工場が進出、排水のたれ流しにより水質が悪化し、魚も住めない状態になった。
1970年代には護岸のため、部分的に川縁がコンクリートに覆われるなどしたが、1980年代には地元有志によるナショナルトラスト運動が始まり、工場の移転運動や清掃活動が行われ、カワセミ等も生息する環境が残されたという。

柿田川


柿田川脇に、1671(寛文11)年 建立の「石橋碑」と1787(天明7)年建立の「十句観音経 二百萬遍供養塔」がある。
左右三基の石碑を合わせて「柿田川三石碑」と呼んでいると云う。
架橋されている鉄筋コンクリートの柿田橋は、地震、水害などで犠牲者が出たのであろう、その供養塔であろう。

柿田橋から
    

キリン協和・東レ・東芝・森永・横浜ゴム等の企業の三島工場がある。
県東部に位置する三島市は、伊豆半島の基部にあたる。三島大社市内中央に、箱根連山の西側斜面で、西部は愛鷹山の東部斜面で、東に境川、西に黄瀬川が流れている。
古代から伊豆国府が置かれ、行政の中心地であった。

鎌倉時代以降三嶋大社の門前町としてのイメージが強い、江戸に入り下田街道の分岐点として東海道の宿場として栄えた。
箱根越え、伊豆の天領を支配する「三島代官所」が置かれていた。
明治に入り一時衰退しているが、丹那トンネル開通で活況を取り戻した。富士山の伏流水の湧水地が特に多い。「三嶋は水の都」と云われ
富士箱根国立公園の玄関口になる。

法華宗本門流「光長寺」・創建は1276年(建治2年)、日蓮を開山、日春と日法の2名を「同時二祖」としている。鷲山寺(千葉県茂原市)、本能寺(京都市)、本興寺(尼崎市)とともに法華宗本門流の四大本山の一である。住所沼津。

光長寺・日蓮宗                       山門に大楠木が


「宝物」は、日法作の御影、宗祖日蓮大聖人曼荼羅 5幅・全て山中喜八の『御本尊集目録』に収録されている。 中でも弘安元年11月の28紙継ぎの曼荼羅は、現存する宗祖筆の曼荼羅の中で最大。(2349×1249mm)
日法聖人作宗祖御影、日法聖人彫刻の御影。 「日蓮大聖人御尊像、 彫刻の名手として名高い日法聖人の謹刻。御開眼の後、少しお気に召さぬところがあり鑿を当てたところ清血が流れたと云う、一たび御開眼の後はただの木像ではない、「生きておられる」と驚き疎漏を悔いられ、これを伝え「血流れの祖師」と云うとある。
                       立派な楼門


七百余年の昔、御弟子の訓育に努めておられた宗祖は、かって道中の草庵を結ばれ、熱心な信者もいる岡宮の地に再度の弘教を志され、御弟子日法聖人にこれを託されました。
師の命を承けて法華経を説く日法聖人の法門を弔問した当地の古刹の僧空存は、自らの誤りを悟り日法聖人に帰信し、聖人の御手引きで宗祖の御弟子に加えられ、名を日春と賜りました。
日春日法両聖人は力を合せ里人を教化し、1276年 光長寺を開創、宗祖の命に応えた。

室町時代には学頭日朝聖人が出られ、京都本能寺の日隆聖人と呼応して宗祖の正義を宣揚され、現在の法華宗の礎を築かれ、その後
今川氏徳川氏等も寺領を安堵、教勢は年を逐って充実伸張したと云う。
宗祖直受の法燈連綿七百年、末寺約百を擁し、老杉古松鬱蒼と茂る二万余坪の境内は聖地の趣き深く、全国法華宗徒渇仰の霊場となった。

額に山号「徳長山」の文字        仁王像が             参道


辻之坊山門は、沼津城中庭の門を移築したものと伝えられている。

日朝聖人ご旧跡、日蓮宗総本山身延山久遠寺第11法王で、行学院と号する(1422~1500)、今日の身延山発展の基を造った敏腕家。
優れた学僧でもあって、晩年には、著作活動に全精力を傾注し、一時眼病を患って筆を置くこともあったが、信仰の力で、やがて視力を回復したと云う。「にっちょうさま」と呼ばれて、民衆に崇められ、眼病平癒の神様とうたわれる。

                           本堂


文化財は、重要文化財 宝物集ー巻第一、1287年日春の書写。宮内庁書陵部本と並ぶ「宝物集」の最古写本、登録有形文化財 光長寺御宝蔵
1926年起工した、宝物収納法要堂は、県指定文化財 法門聴聞集等がある。

                           講堂

桜の名所として有名で、春になると多くの人々が訪れる。 
現住は、78世石田日信貫首。関連、 鷲山寺、 本能寺、 本興寺、 門池。光長寺と市仏教会、 南之坊、 西之坊、 東之坊、 辻之坊がある。

                        坊、末寺


「三嶋大社」三島駅南約1Km大宮町に鎮座する。
                        三嶋大社


伊豆国一宮。三島明神とも称した。祭神は、大山祇命と事代主命、創建ははっきりしていないが平安初期には文献に見られている。

                         本殿


源頼朝以来、幕府や武家に信仰されて保護を受けている。
銅像の神主は、矢田部家が世襲・社家の河合家は、三島暦(地方暦)を発行した。

神木


江戸時代は、朱印地530石を領有した神社。

天然記念物金木犀                  舞殿              境内


境内には、天然記念物金木犀が、資料館に頼朝らの歴史資料が展示されている。北条政子奉納の「梅蒔絵手箱」・頼家筆の般若心経など。

源頼朝・北条政子腰掛石がある。 治承4年に源頼朝が平家追討の心願をこめて百日の日参をした時に、腰をかけて休憩したと伝えられている。
向って左側の石が源頼朝、右側の石が北条政子が腰掛けたと云うが。?



1月7日「お田打神事」は、鎌倉時代から伝わるー田遊びーで知られている。



「沼津アルプス」とは、香貫山から南へ横山、徳倉山、志下山、小鷲頭山、鷲頭山、大平山と続く山稜線を地元の愛好会が整備し、名づけたもの。標高は一番高い鷲頭山でも392mと低山ではあるが、起伏が激しく鎖を伝って歩くところもあるので、登山用の装備が必要という。
高齢者の人気登山、 沼津アルプスは、なんといっても、眺望が素晴らしく、山稜線まで登ると眼下に駿河湾を見下ろし、北には富士山がそびえる。まさに大パノラマ。春は桜、秋は紅葉も楽しめる。

「狩野川」は、伊豆半島の最高峰、天城山に端を発し北流。沖積平野である田方平野を蛇行しながら、沼津市付近で大きく向きを変えて駿河湾に注ぐ。狩野川のような太平洋側の大河川で北流するものは本川だけである。
これはかつて島であった伊豆半島が、フィリピン海プレートの移動によって本州側のプレートに衝突し隆起したことによる。
一級水系の大河川にしては河口付近でもそれほど川幅が広くならない。これは大支流である黄瀬川が造りだした三島扇状地(黄瀬川扇状地とも)があるためであると云う。また、水利用の大型ダムがなく、これは一級水系にしては数少ない特徴である。

沼津に


「沼津・霊山寺」は、曹洞宗永平寺派の寺。
昔は真言宗の寺院であったが、1748年の火災に遭って寺記をことごとく焼失、創建の年代などは不詳である。
伝説によれば、昔この辺が伊豆国であった時、天平の詔によって創立されたものといわれている。
1557年に宗祖の道元禅師より12世の法孫である機外永宜和尚が、伊豆国北条村の真珠院の住職であった時、当寺に招かれて中興開山となったと云う。このために真珠院を本寺とし、曹洞宗に改宗。
塔頭として、光明院・西光院があったが、後者は廃寺となり、前者は平成13年大岡三明寺に移転している。

霊山寺            鐘楼                    本堂


五輪塔は空、風、火、水、地の五大を、団、半月、三角、円、方の五輪にあて、順次積み重ねて塔、もとは舎利(仏骨)奉安のためのものであったが、後に転じて墓標となっている。
藤原末期から作られ、鎌倉時代に盛んになった。中央の大きな五輪塔の下からは、青銅製の蔵骨器が出土しその銘によって、元享3年(1323)に亡くなった成真大徳という僧侶の墓であることが判明したと云う。本県の場合、中世の蔵骨器は陶製のものが主であるので、青銅製のものは珍しい。県指定有形文化財に指定。
墓地には、内膳堀を造った植田内膳の墓がある。

お地蔵さん

日本一の大空中吊り橋 中山峠 三島から箱根へ

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                   JR東海道本線「三島駅」マップ

                        南口駅前


           三島神社近くの「お菓子の田子の月」健康茶と大福が




            三島駅北口の三島風穴 富士山から30km以上ある。




           三島駅から「元箱根」行きバス 大吊橋下車


           我が国最長の吊橋空中散歩 全長400m 天候雨












    ロングジップスライド(ロープで滑走)・セグウエイ(乗り物)などがある。


「三島西坂」


「錦田一里塚」
1604年(慶長9年)、日本橋から28里地点に築いた一里塚。静岡県田方郡錦田村(現在の三島市)に所在

一里塚は、日本橋を基点として4㎞ごとに築かれ、旅人の道程の目印としたもので、塚の上にはエノキが植えられた。
錦田一里塚は街道の両側に一対で現存する。

三島宿場手前の「錦田一里塚」


箱根山中腹の「山中城」は、戦国時代の城趾。
史跡1934年指定され、面積約11万8000m2、小田原の出城「北条氏康」の築城。

「北条氏康」 1515-1571 小田原 北条氏三代目。氏綱の長男、扇谷上杉氏・山内上杉氏を武蔵国河越にて破る。古河公方を傀儡とし、関東の南半を支配した。武田信玄・上杉謙信と抗争と同盟を繰り返し領国を拡大させ、税制改革・検地を推進した。
北条綱成(豪将・重臣で氏康の女婿)が、河越城で、扇谷・山内上杉・古河公方大連合軍8万兵に囲まれ、氏家は、援軍途中で退去している。
相手が気を緩めるのを待っていたと云う、夜襲で大連合軍を潰走させている。世にいう日本三大夜戦の一つ。遺言では、武田氏と同盟せよと。

箱根の山は天下の剣 旧東海道


1589年豊臣秀吉軍来攻に供え拡張されたが、1590年小田原攻めで落城した。
豊臣秀吉との関係が悪化すると、山中城は改修し防備を固めることになるが、結局間に合わず未完成のまま豊臣軍を迎える。
1590年、小田原征伐で豊臣秀次率いる7万の軍勢が山中城を攻撃、守将である北条氏勝、松田康長、松田康郷、蔭山氏広、間宮康俊ら4千は奮戦し、豊臣方も部将の一柳直末など多くの戦死者を出すものの、猛烈な力攻めの結果わずか半日で落城し、北条方の松田・間宮などの武将や城兵の多くが討死した。

戦死した兵達を弔うために「宗閑寺」が建立、山中城主であった松田・間宮、豊臣軍の将と、豊臣軍一柳直末らの墓が並んでいる。
    

天下の険として有名な箱根・標高約600mの傾斜地に築城され、もとは甲斐国(山梨県)の武田氏との国境での攻防を考えて築城されたと云われている。
また防御面だけにあらず、北条氏が駿河(静岡県)・甲斐(山梨)方面へ侵攻する際にも重要な意味を持つ拠点は、間違いない。

土塁・堀・井戸などが当時を忍ばせている
    

他の城とは明らかに違って特徴的な部分は、幹線道路(東海道・現国道1号線)を取り込む形で縄張りをとっている点で、今現在も国道が通っていることからお分かりの通り、この幹線道路を通過する=山中城を突破しなければいけない仕組みになっている所。

    

秀吉軍の関東侵攻も時間の問題となりつつある1587年に、豊臣軍が小田原征伐へとやってくる直前にかけて大改修が行われた。

が、山中城の改修工事も完全に終わりきっていない、天正18年に豊臣軍と北条との合戦が、山中城ではじまる。

    

関東に一大帝国を築こうとする北条軍、その中で山中城に篭る兵は僅か4・5千程という。一方の豊臣軍は、羽柴秀次を総大将に、徳川家康等の生え抜き武将が陸路・海路を抑えつつ、計7万と云う。

古木が多い。
    

天正18年3月払暁から猛攻撃が開始、多勢に無勢、山中城はあっという間に各郭が攻め落とされ、山中城城主であった松田康長を初め、間宮康俊らが壮絶な戦死を遂げ、僅か半日程で陥落。
しかし大部隊で攻め寄せた秀吉軍も力攻めを強行したが為に、奮戦する山中城兵士に苦戦、大きな損害を出して山中合戦は終了する。

矢立の杉・樹齢600年のカシの木
    

史跡がほぼ完全に発掘・整備・復元され、北条流築城技術を隅々まで見せてくれている。三ノ丸跡には戦死した兵達を弔うために宗閑寺が建立され、山中城主であった松田・間宮、豊臣軍の将と、豊臣軍一柳直末らの墓が並んでいる。

岱崎出丸と畝堀(復元)                             障子堀が、
    

石畳の道以降は、山中城址公園駐車場前の蕎麦屋。その少し先にある茶屋竹屋(現在では鰻屋さん)その先の接待茶屋は、閉店。
現在では店の跡も無い。

箱根八里は海賊遊覧船で

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箱根峠の山道が、東西交通の主要となってくるのは鎌倉時代以降。
律令時代に設けられた当初の東海道は箱根峠ではなく、箱根山北方の足柄峠を経由した。
富士山の延暦噴火(800年 - 802年)の為に通行が困難になったため、新たに箱根峠の街道が開かれたと云う。
その後、足柄峠のルートも再開した為、二つの街道が並存している。

「箱根の坂」
室町から戦国への時代の移り変わりを、北条早雲の人生を中心に描いた 司馬遼太郎の「箱根の坂」の舞台。
箱根八里記念碑には、「幾億の跫音が坂に 積もり 吐く息が谷を埋めるわが箱根にこそ」と彫られている。

司馬遼太郎記念碑


「乙女峠」から見る富士山
箱根の仙石原に「とめ」という名前の若い女性が住んでいた。
おとめさんと呼ばれていたこの娘は父の病の治癒を願い、この峠を越えて御殿場の地蔵堂へ百か日の願掛けに参拝し続け、最後には願いが叶い父の身代わりとなってこの峠で亡くなり、この「おとめさん」の逸話から「乙女峠」と呼ぶようになったという伝承が残る。
また、江戸時代になると仙石原には関所が設けられ、通行の際はここでしばしば足止めされた。このことから「御留峠」(おとめとうげ)と呼ばれるようになり、これが「乙女峠」へと変化していったとも云う。

「箱根温泉郷」は、江戸時代の末期に、安藤広重の描いた「箱根七湯図会」がある。箱根には、七つの温泉場が開けていたようだ。
昭和には、十七湯、現在は、二十湯ともいう、箱根の温泉場も増えてきた。



「桃源台」は、小田急箱根ホールディングス傘下交通機関の結節点(ロープウェイ・船・路線バス)である。
港及びバスターミナルと一体的な施設となっている。
湖尻港まで徒歩10分で結んでいる。付近は、集落標識に従うと「湖尻」の集落外になると云う。

桃源台タミナール


芦ノ湖


















「箱根」は、神奈川県南西、箱根火山と湯河原火山一帯を云い、
神山(1438m)・駒ヶ岳(1350m)など西麓を指して言うようになる。
ハコは、中国で神仙・ネは、山嶺を意味していると云う。源頼朝が鎌倉の幕府を開いて以来、東西交通の要衝なり、江戸時代は、関東の
西の玄関東口として足柄峠や芦ノ湖畔に関所が設けられた。
相模湾に迫るやく1000mの急崖が交通の生涯であった。その為、小田原宿~箱根宿~三島宿を「箱根八里」と呼んだ。
また、温泉が豊富で我が国代表の湯治客と保養地で賑わった。

「箱根神社」
孝昭天皇の時代、聖占仙人が駒ヶ岳を神体山として神仙宮を開いたのに始まり、757年、万巻上人が現在地に里宮を創建して僧・俗・女の三体の神を箱根三所権現として祀ったと伝える。
駒ヶ岳山頂には箱根元宮が1964年に堤康次郎の寄進によって再建され、奥宮として登拝者を集めている。

「吾妻鏡」には石橋山の戦いで敗れた源頼朝を当社の権現別当が助けたとの記事があり、以降、関東の武家の崇敬を受けるようになった。
豊臣秀吉の小田原征伐の際に焼失したが、徳川家康が社領200石と社地不入の朱印状を寄せ、社殿を再建したと云う。
昭和3年に国幣小社箱根神社に昇格。

一の鳥居                神社入口              林の参道
  

「文化財」は、 紙本著色箱根権現縁起絵巻、 木造神像2躯(男神坐像、女神坐像)、 木造万巻上人坐像、 赤木柄短刀、 鉄湯釜 2口 1268年銘、1283年銘。
 
謡曲「曽我物」の舞台となった箱根神社境内には曽我兄弟を祀った「曽我神社」がある。
1193年、曽我十郎祐成と五郎時致の兄弟は、父河津祐通(祐泰)の仇として工藤祐経を討ち果たした。
「曽我物」では、五郎時致は、箱根権現(箱根神社)の稚児の頃、父の仇工藤祐経と会うが、討ち果たすことが出来ず、祐経の人形を作って調伏したと描かれている。また、兄祐成は、弟時致の元服を箱根権現の別当行実に願い出たと描かれている。

曽我神社前の兄弟杉  曽我兄弟が仇討ちを決行したのは、源頼朝が富士裾野で行った巻狩りのとき、兄祐成は仁田忠常に討たれ討死し、弟時致は御所五郎丸に捕らえられ、後に処刑されたと伝えられている。

階段の途中にある曽我神社、参拝
 

箱根神社は、九頭龍神社 ( 九頭竜伝承の九頭龍を祀る。)、 伊豆山神社の 源頼朝二社詣(伊豆山神社・箱根神社)、 三島大社 源頼朝三社詣(伊豆山神社・箱根神社・三島大社)、
                         本殿


「矢立てスギ」は、有名。樹高35m、幹周6m、樹齢1200年以上、 坂上田村麻呂、源頼義が表矢を献納したと伝えられている。
杉の古木が多い箱根神社の中でも、ひときわ目立つ巨木。(県名木100選)

芦ノ湖から神木が。
                         古神木


約40万年前に第一期火山活動が始まり、やく2700mに達する成層火山となった。噴火を重ね東西やく8km・南北約12kmのカルデラが
形成され、それを取り巻くのが、外輪山・明星が岳(924)・明神が岳(1169)・乙女峠・長尾峠・大観山(1011)の尾根を形成している。

1680年箱根旧街道、箱根道が石畳で開通している。元箱根~湯本茶屋、畑宿付近、一部現存している。
東海道小田原から箱根宿、三嶋宿(箱根八里)険阻な山道であり、交通のみで無く軍事上の要衝として東西を分けていた。

遊覧船                    旧箱根道
  

「県立恩賜箱根公園」は、県立の都市公園(風致公園)。(国の登録記念物)で、ここはかつての函根離宮跡。
1946年に一般開放され、芦ノ湖に突き出た塔ヶ島と呼ばれる半島にあり、離宮を模した展望台からは箱根外輪山や富士山が一望できる。
園内の散策路では、5月にはツツジ、夏から秋にかけてはヤマユリを楽しむことができる。周辺には箱根関所跡や旧東海道杉並木などの観光名所がある。

沿革 1884年に、 宮内庁が塔ヶ島地区の土地を買収、函根離宮の造営開始、 1923年・1930年に、 関東大震災・北伊豆地震により函根離宮倒壊
   1946年、 函根離宮跡地が神奈川県に下賜され、同年5月5日に一般開放される。
   1979年 - かながわの景勝50選に選定、 2006年、 日本の歴史公園100選(第一次)に選定され、2013年「恩賜箱根公園」として国の登録   記念物に登録された。

  

主な施設は、湖畔展望館、 中央広場、 弁天の鼻展望台、 塔の鼻広場、 白鳥の池広場、 芦川橋(かながわの橋100選に選定)など。
                       


「箱根八里」曲 滝廉太郎
              箱根の山は 天下の険 函谷関も物ならず
                     万丈の山 千仞の谷 前に聳え後に支う
                            雲は山をめぐり 霧は谷をとざす
                                  昼猶闇き杉の並木 羊腸の小径は苔滑か
                                         一夫関に当るや万夫も開くなし、、、。
                        箱根八里の歌碑


「箱根関」芦ノ湖畔の旧東海道に設置された関所跡は、鎌倉時代にもあったが、1619年徳川幕府により、屏風山と湖の間306間
(556m)柵を設け小田原藩が管理して通行人を取り調べていた。
周囲の山は、要害山として立ち入るキンシであった。
鎌倉時代は、関銭徴収の目的であったと云う。江戸幕府は、特に「鉄砲と出入の女性」を厳しく取り締まった。

                          箱根関番人


1686年の小田原藩の職制によれば、箱根関所は番頭1・平番士3(以上侍身分)・小頭1・足軽10・仲間(中間)2(以上「足軽」身分)・定番人3・人見女2・その他非常用の人夫から構成された。
後に番頭を補佐する者として侍身分の横目1名が追加された。
侍・足軽身分の者は小田原藩士であり、侍は毎月2日、足軽は毎月23日に小田原城から派遣されて交代で勤務したが、定番人・人見女は箱根近辺の農民から雇用して幕府が手当の肩代わりを行い、人夫は主として駿東郡などの小田原領民があたった。

芦ノ湖から見た富士山(写真から) 公園から関の道           入口
 

箱根関所には常備付の武具として弓5・鉄砲10・長柄槍10・大身槍5・三道具1組(突棒・刺股・袖搦各1)・寄棒10が規定されていた。
が、ほとんどが旅人を脅すためのもので、火縄銃に火薬が詰めておらず、弓があっても矢が無かったなどのことが分かっている。
建造物は上御番所・番士詰所・休息所・風呂場からなる「面番所」、所詰半番・休息所・牢屋からなる「向番所」、厩、辻番、高札場などが設置され、柵で囲まれていた。また、関所裏の屏風山には「遠見番所」、芦ノ湖南岸には「外屋番所」が設置され、周囲の山林は要害山・御用林の指定を受け、そこを通過して関所破り(関所抜け)を行おうとした者は厳罰に処せられたのである。

                    関所の中
 

関所跡は、芦ノ湖畔北西約2km今でも交通の要所、国道1号線を中心にスカイライン、新道、十国峠道路などで峠越えの面影はない。
高さは、849m。
            関所を出ると旧道が並行してある


「箱根関所」
1619年、幕府は、全国53か所余りに設けている。その中で中山道木曽福島・碓氷・新居(静岡)そしてここ神奈川県に箱根が重要な関所と考えられていたと云う。特に、鉄砲検査が主であったが、箱根は、「出女」に厳しい関所と云われた。

箱根 ロープウエイで白煙立ちのぼる大涌谷

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「箱根八里」
明治34年、中学唱歌に初出の唱歌・「鳥居忱・作詞、瀧廉太郎作曲」
題名の箱根八里とは、旧東海道で小田原宿から箱根宿までの四里と箱根宿から三島宿までの四里をあわせたもの。
東海道では大井川とともに難所として知られ、箱根馬子唄でも「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」とうたわれる。
李白の漢詩「蜀道難」の一節「一夫當關 萬夫莫開」が歌詞に織り込まれるなど、漢籍にみられる故事や古典、歴史に由来する事項が多く盛り込まれていると云う。
歌詞に登場する「函谷関」は中国の長安と洛陽の間、長安のある関中の地への入り口を扼する関所で、王朝の死命を制する要衝として有名。
漢の劉邦と楚の項羽の攻防や孟嘗君の故事などで知られ、また「蜀の桟道」は蜀の地、すなわち四川盆地を守るに堅い要害としている山中の難所でやはり劉邦の天下取りへの備えとなった故事がある。いずれも箱根の関所のある山道の険しさを・・・。

箱根の山は、天下の嶮・ 函谷關も ものならず・萬丈の山、千仞の谷・ 前に聳え、後方にささふ・雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす・昼猶闇き杉の並木
羊腸の小徑は苔滑らか・一夫關に当たるや、萬夫も開くなし・天下に旅する剛氣の武士・ 大刀腰に足駄がけ・八里の碞根踏みならす、
かくこそありしか、往時の武士。
箱根の山は天下の岨・蜀の桟道數ならず・萬丈の山、千仞の谷・ 前に聳え、後方にささふ・雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす・昼猶闇き杉の並木
羊腸の小徑は、苔滑らか・一夫關にあたるや、萬夫も開くなし・山野に狩りする剛毅のますらを(益荒男)・ 猟銃肩に草鞋がけ
八里の碞根踏み破る・ かくこそあるなれ、当時のますらを。

箱根湯本ー塔の沢・大平台・宮ノ下・小涌谷・彫刻の森・強羅














強羅ー早雲山 ケーブルカー約10分


早雲山 標高1151m・強羅は、神奈川県箱根町県の南西部、早雲山は北部に麓に温泉地が、地名は岩石がゴロゴロしている所から。
箱根登山電車が湯本から強羅間の開通が1918年で新しい。箱根観光の中心になっている。公園・美術館・スケートリンク等がある。



箱根火山最高峰神山・駒ヶ岳・二子山は、第一期火山活動中に起きた断層が中心で火口丘形成された。
最後の大きな活動は、約3000年前の神山北斜面の水蒸気爆発で、その土石流が「早川」の上流を堰き止めて、「芦ノ湖」が誕生。
仙石原は、その砂粘土が堆積してできた。
現在の大涌谷や早雲山はその後、噴気活動している。











早雲山ー桃源台 ロープウエイ約20分芦ノ湖へ空中散歩



箱根七湯ー湯本・塔の沢・堂ヶ島・宮ノ下・底倉・木賀・芦之湯(早川渓谷の谷底に自然湧出)





大涌谷も箱根町の北部、硫気孔郡のある谷で、上部を閻魔台・下部を地獄沢と呼んでいたが、1873年、明治天皇行幸で「小地獄を小涌谷・大涌谷」
に改名している。中央火口丘が神山、高1438m・箱根ロープウエイの大涌谷駅前に自然館と観測所が併設している。















冠ヶ岳 標高1409m。


「姥子」下車

箱根湯本 北条氏五代の早雲寺

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「小田原宿」は、東海道五十三次の9番目の宿場、江戸を出て最初の城下町にある宿場。

箱根駅伝は、国道1号線を走るのは横浜駅近辺の青木橋から戸塚中継所付近と「大礒から箱根方面」(往路・復路どちらも)。
箱根駅伝は、大正9年、マラソンの父「金栗四三」らが、世界に通用するランナー育成したい思いからと云う。
大正6、日本で初めての駅伝となる「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」が、京都三条大橋と東京・上野不忍池間で行われた。
読売新聞社が上野で開く大博覧会の協賛イベントとして企画したもので、京都―東京516キロを23区間に分け、三日間、昼夜兼行で走り継ぐ壮大なたすきリレー、東西対抗で行われたレースは、大成功を収め、これが箱根駅伝の”原型”となったと云う。
東海道駅伝の成功に意を強くした金栗らは、大学や師範学校、専門学校に箱根駅伝創設の意義を説いて参加を呼びかけ、早大、慶大、明大、東京高師(現筑波大)の四校が応じたという。
第1回大会が「四大校駅伝競走」の名称で行われた。

                  箱根鉄道は、国道一号線に沿って。


「居神神社」
北条早雲との戦いに敗れた三浦半島新井城主「三浦荒次郎義意」が、永正15年の1518年、に自刃、その首が井神の森の古松にかぶりつき、そのまま
3年間通行人をにらみつけ、これを久野総世寺四世忠室存孝和尚が成仏させて祀ったという。
江戸期には、山角町・板橋村の鎮守社・明治43年大窪村板橋浅間神社、同村同字秋葉神社を合併したと云う。

                           鳥居


祭神ー三浦荒次郎義意、木花咲耶姫命、火之加具土命 ・境内社ー水神社、金刀比羅神社、八幡神社、摩利支神社 が。

                           社殿




「古碑群」最も古いもので、鎌倉時代末期のものと云う。
文保・元享の両板碑には刻文があり、その中のいずれにも念仏乗の字句があって、これらの板碑が念仏供養のために建てられたもの。
五輪塔線刻碑二基と、左手の念仏塔、庚申塔など四基は、未指定で、近隣から移転。
形状等ー「古碑の種類 碑の高さ(cm)」
五輪塔線刻碑 三九,五・ 文保元年銘版碑 一三五,〇(文保元年(一三一七)二月二四日と刻まれる)・ 五輪塔線刻碑 五三,五
元享二年銘版碑 一二三,〇(元享二年(一三二二)一二月一四日と刻まれる)・ 五輪塔陽刻碑 四八,〇
(小田原市教育委員会掲示より)



「北条氏綱」 早雲の子 小田原北条二代目。
                    「勝って兜の緒を締めよ」の碑


「石垣山城・一夜城」
小田原征伐の際に陣城として築かれた城で、小田原方から気付かれないように小田原城側の山の木を伐採せずに築城し、大方出来上がった時点で、木を伐採することで、一夜にして城が出来上がったかのように見せかけたとされる。
記録には、6月初旬に伊達政宗が訪れたときはまだ完成していなかったと伝えられているが、同月20日付けで千利休が古田織部に宛てた書状には
「今月中に出来上がる」という趣旨のことが記されているという。

                一夜城の遠景


「紹太寺」-入生田駅、黄檗宗の寺、山号長興山
小田原藩主稲葉正則が両親の為城下の旧山角町に建立。が安政年間の大火で焼失、1669年現在地に「稲葉一族や春日局の墓所になる」
天然記念物の樹齢320年枝垂れ桜が。

   箱根登山鉄道線「箱根湯本駅」小田原・板橋・風祭・入生田・箱根湯本の5駅


箱根湯本駅は、明治11年 - 軌道線・後の小田原市内線、が湯本へ乗り入れ。大正8年、 鉄道線湯本 - 強羅間開業に伴い箱根湯本駅が開業。
昭和10年、 鉄道線小田原駅乗り入れに伴い、用地転用のため軌道線停留所を廃止し、昭和25年、 小田急車両の乗り入れが開始。
昭和57年に、小田急の大型乗り入れ。


「早川」
早川水系は、源流域の芦ノ湖に注ぐ大涌谷ほか多くの沢と、芦ノ湖から流れる早川および須雲川などの支流から成る。
各支流は河床勾配が大変急、芦ノ湖が自然の調整池の役割を果たしている。

               早川ー二級河川 延長ー20.65km・面積ー80.59㎡

                    
「北条早雲」 1432-1519 戦国武将の先駆け・小田原北条氏初代・京都伊勢氏説が有力と云う。
名は、長氏、新九郎・駿河国今川氏から「興国寺城・下田に近い」を貰い、伊豆国に乱入、堀越公方の子茶々丸殺害し、一国平定した。
後に「大森氏・小田原城」を奪い・三浦氏・新井城を滅ぼし「相模国」併合する。
大森氏攻撃は、贈り物をして城主「大森藤頼」の信用を得てから、早雲は、「伊豆国で鹿狩りをしたら、鹿が皆そちらへ逃げてしまったので、鹿を駆り
たてる「勢子」を入れたい」と頼み込んで「勢子」を小田原に送り、その勢子は、変装した兵であったと云う。
北条軍は、夜襲で知られているが、早雲の時代からであった。

                   農民への租税は「四公六民」の善政


「早雲寺」
早雲・遺命により北条家2代の北条氏綱が大永元年の1521年、箱根湯本に創建した北条家歴代の菩提所。

                          臨済宗大徳寺派の古刹。


「北条氏綱」 1486-1541 小田原北条二代目 北条五代の基礎を築いた。
鎌倉幕府の執権北条氏にちなみ改姓・扇谷上杉「朝興」を破り武蔵国を制圧。今川氏・里見氏を圧迫して領土拡張する。
下総国国府台で、足利義明を討つ。古河公方「足利晴氏」に娘を嫁がせる・鎌倉八幡宮再建。
諸国から商人が集まり大変な賑わいだったと云う。小田原名産「外郎・薬」発祥、広めた。「勝って兜の緒を締めよ」の言葉は有名。

「北条氏康」 1515-1571 三代目・北条家発展に導いた名将。
山内上杉氏武蔵国河越破り、古河公方を傀儡とし、関東南半を支配する。武田信玄、上杉謙信と抗争と同盟を繰り返す。税制改革・地検推進
北条重臣「北条綱成」の守る河越城が、囲まれ、氏康兵8千を率いて何度も援軍に向かうが、その都度わざわざ退却する。が、
敵が安心したゆるみを見て「夜襲」し連合軍を撃破し潰走させている。世に云う「河越の夜戦、日本夜戦の一つ」上杉氏は、頼りにならない武田信玄と同盟を結べ遺言し没している。

「北条氏政」 1538-90 四代目 下総国国府台で里見・太田連合軍を破る。北関東へ勢力拡大、上杉・武田同盟・断交繰り返す。
氏直に家督を譲るが実権を握る。父氏康は、氏政食事時「汁加減もわからぬようでは、北条家も終わりだ」と落涙した云う。山積みの麦を見て「すぐに
麦飯を作れ」と家臣に命じた、これを信玄が聞き「麦はこき、こなし、ほし、つきて食にするもの、すぐには食えん」と世間知らずを笑ったと云う。
氏政の首は、一条戻橋に晒された。

「北条氏直」 1562-91 五代目 幕引き
本能寺の変後、上野国にいた信長の重臣「滝川一益」を撃破し、信濃国へ攻め入り、小県・佐久郡を占領する。甲斐国で家康と争うが講和し、娘「督姫」を娶る。名胡桃城を攻撃したため、秀吉の怒りを買い征伐され降伏した。高野山追放・後1万石で大阪に住むが30歳で没している。
妻と別れ際、早雲が武運祈った「勝栗」の半分渡し「一族で、世に出るものあれば渡してくれ」と頼んだと云う。

                           老木が


                            本堂


                          清閑な境内


                        早雲の墓石 5代の墓 


「今大路道三幻鑑之墓」 徳川二代将軍秀忠公侍医
                          寛永3年50歳で没


「北条幻庵」 1493-1589 北条早雲の三男・北条5代に仕えた一族の長老・幼少で僧籍、三井寺で修行
北条軍の一将で国府台の戦い・平井城攻めに参加している。また歌会を開く文化人でもあったと云う。作庭にも秀でていた。
97歳で没した。娘が嫁ぐ際、彼女に渡した「礼式心得・北条幻庵覚書」は、一級史料。

                       幻庵の庭園




                         惣門

                        早雲寺鐘楼


「弥坂湯」で知られた坂。
地元の湯場、2~3人がせいぜいの小さな温泉共同浴場。
箱根の旧東海道沿い、地元住民中心に愛されている。
弘法の湯と程近い。 中は木造作りで狭く、いかにも共同浴場の雰囲気で、浴槽は、共同湯らしく内湯のみ。
泉質は単純温泉で消毒のみ行っている模様。源泉温度は48.7度と高いがそんなに熱くないと云う。
場所が箱根中心街と離れていることもあり観光客があまり来ないので、ゆっくり入浴可能。

 

不落の小田原城と石垣山の一夜城

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1589年 北条氏は「真田昌幸公」の名胡桃城を攻めます。
これが、秀吉公の小田原攻めのきっかけを与えてしまいます。
その後、小田原攻めの準備は着々と進み、2月には徳川家康公、が先発隊を出陣させ、この段階で北条氏がもくろんでいた三国同盟の一角はくずれます。4月には秀吉公は小田原城を包囲。
                         石垣山登り口
  

氏政公の弟氏照公の居城八王子城も落城します、北条氏が誇る支城システムは完全崩壊します。

「小田原評定」、1590年、北条氏は城の中で毎日毎日戦いを続けるか降伏するか、会議を開き意見がまとまらず日時が過ぎていた。
        小田原相談、評議、談合ともいう。

石垣の上に生えた樹木
  

四方を完全に包囲されてしまい、毛利水軍や長曽我部水軍や九鬼水軍が海からの包囲を実現。その軍勢総数20万と云われている。
北条は、抜け出る隙間もなく、完全包囲の結果、北条が誇る支城システムも機能せず、各個撃破されてしまう。

            石垣山天守閣辺りからの小田原城方面
    

6月に、伊達正宗公、秀吉の陣に到着。これには北条側もがっくりです、軍事的にも後詰のない篭城は城兵の希望もなくなり士気が喪失されてしまい、伊達氏が北方から援護してくれることをひそかに期待していた。北条氏側はその思惑の甘さにがあったようです。
北条早雲公から5代100年の歴史がここに幕を閉じます。
小田原戦役の折、早雲寺山内でもう一つの悲劇が、 千利休の高弟・山上宗二が秀吉の怒りに触れて惨殺されたのです。
境内に「山上宗二追善碑」が建てられている。

「山上宗二」は、秀吉公から、家を横領するばかりか、故主の妹御までも横領した。と罵倒したことで、茶頭を解かれ追放されている。
宗二は、流浪の身となり徳川家康や佐々成政を頼り、各地を放浪し、天正十六年に北条氏政の招きで、小田原城に赴いていた。
天正十八年、小田原攻めの本陣がある「早雲寺」に、千利休が滞在していることを知らされた宗二は、密かに早雲寺を訪れて利休と再会。
この時、利休の取り成しで秀吉の勘気を解かれた宗二は、茶会の席で暴言を吐いた。
「鶴を得て、更に楢柴を得るため、民の苦しみを顧みず兵を興した。こたびは関八州と云う名物を得るため、幼主を掲げて下向してきた」

罵詈雑言に慣れている秀吉も、国土から争いを無くし、民の安寧を願い、天下の仕置きを理解しない宗二を生かしては置けなかった。
・・小田原御陣の時、秀吉公にさへ、御耳にあたる事申し、その罪に、耳鼻そがせ給せし・・と、長闇堂記は伝えている。

愛弟子を残酷な刑で処刑された千利休は、嘆きを抑えて仕候しており、秀吉は利休の立場を思いやって、笠懸山での茶会を催したという。


「長興山の紹太寺」は、箱根登山鉄道、湯本駅一つ手前の「入生田駅」に近い、稲葉正則が形見に植えた「しだれ桜」で知られている寺。
宗派 禅宗、開山 鉄牛和尚ー大慈普応禅師、本尊 釈迦如来、開基 稲葉美濃守正則、本山 京都万福寺。



小田原藩主、稲葉氏一族菩提寺、小田原城内にあったが二代目正則が1669年移建させ、父母祖母「春日局」の霊を弔った。
その当時は、東西14町70間、南北10町16間の広大な寺域に7堂と云う。

  

稲葉正則の「春を忘れぬ形見・しだれ桜」は、樹齢340年樹高13m、4月上旬開花する。

「春日局」1578-1643 明智光秀の重臣斉藤利光の娘、徳川三代将軍家光の乳母、山崎の合戦で父討死し辛い少女時代を過ごす
稲葉正成に嫁ぎ4男をも受け離婚、26歳で乳母に、家光の信任を受け大奥の実力者に、実子稲葉正勝は、春日局で老中に。

  

重要文化財ー稲葉一族と春日局の墓、鉄牛和尚の寿塔、しだれ桜、であるが、鉄牛和尚の血書(自らの血で書いたという大乗経10余巻と
釈迦如来像を製作している。
                            春を待つしだれ桜
  

稲葉一族の墓所は、長興山(標高209m)の中腹にある。東西約20m、南北約9mの長方形で、三面を低い石垣で山際を区切り、堂々とした8基の墓石が横に並んでいる。
墓石は、正面向かって左から、稲葉美濃守正則、稲葉丹後守正勝の正室、稲葉丹後守正勝、春日局(正勝の母)、稲葉美濃守正則の正室、
稲葉丹後守正通の後室、稲葉美濃守正則の長兄、塚田木工助正家の墓および供養塔となっている。
塚田正家は、丹後守正勝の近臣で、正勝の一周忌に殉死し、忠節をたたえ藩主の墓地に葬られたという。

稲葉氏は、1632年から1685年まで、正勝・正則・正通の三代約50年間、小田原城主。

  

鉄牛和尚は、長興山紹太寺の開山第一祖で、臨済宗の京都大徳寺の大龍和尚に参禅し、後に黄檗宗の本山宇治万福寺の隠元禅師に師事したが、1669年 長興山開発のため、稲葉正則に招かれ小田原に来て、紹太寺の開山となる。
1700年に死去しましたが、1712年の13回忌に朝廷から生前の功績をたたえられ、大慈普応禅師の称号を賜わった高僧。

寿塔は、貞享4年(1687)に鉄牛和尚の長寿を祝福して、その門人で紹太寺二世であった超宗和尚が建立した。

    

小田原は、中世の平安時代末期から鎌倉時代にかけて、平将門を討伐したことで有名な「藤原秀郷」の子孫、「佐伯経範」が1030年頃に秦野に移り住んで波多野氏を名乗っていた。
後に支流として、松田氏・渋沢氏・河村氏・栢山氏・大友氏・沼田氏などが出て、相模西北部にその一族の勢力を伸ばす。現在の秦野市内、足柄上郡松田町・山北町、南足柄市、小田原市の一部。
波多野城は一族の居館である。波多野城のあった田原の、その支城として「小田原」が設置された。
平安時代の末期1180年に、蛭ヶ小島(伊豆国)で挙兵した源頼朝と平家方の大庭景親らとの、石橋山の戦いが行われた。
戦国時代に入り、伊勢平氏流を称する「北条早雲」が小田原城を奪取し、その子孫である後北条氏は小田原城を中心に関東一円に台頭し、
鎌倉府足利氏、関東管領上杉氏、常陸国守護佐竹氏、下野国国司宇都宮氏、が。
関東の統治体制を転覆した。下野国守護小山氏は後北条氏により滅亡に追い込まれていく・・・・・。

県西部における中心都市、城下町とかまぼこの街「小田原」。東京から東海道線で1時間半、新宿駅からも小田急ロマンスカーで1時間半という微妙な立地にある小田原の街は、箱根観光の通過点として沢山の観光客が訪れる。
小田急線とJR線は共同の駅舎で改札が隣り合っており近代的な駅である。私は、小田急改札口を出た。

私鉄小田原駅


北条早雲 1432-1519 小田原北条氏初代、京都伊勢氏説。今川氏から下田興国寺城を奪う。後に大森氏の小田原城を、三浦・新井氏を滅ぼし
相模国併合。農民租税は四公六民とした。88歳の長生き。

北条綱成 1515-87 北条氏重臣、氏綱、氏康、氏政の三代に仕えた猛将であった。
北条氏綱 1486-1541 二代目早雲の子 扇谷上杉朝興を破り武蔵国を制圧、今川、里見氏を圧迫して領土拡張する、下総国府台で足利義明を          討つ古河公方足利晴氏に娘を嫁がせ傀儡化を図る。鎌倉鶴岡八幡宮再建。勝って兜の緒を締めよ、の言葉は有名。
北条氏康 1515-1571 三代目氏綱の子 関東南半を支配、税制改革と検地を推進した。
          「河越の夜戦」は、三大夜戦の一つ。綱成が扇谷上杉・山内上杉氏・古河公方8万の連合の囲まれ、氏康は兵8千を何度か          出兵させるがすぐ退去させ、和を乞うて、相手が油断し、気の緩んだところに夜襲を掛けている。上杉は頼りない、再び          武田と同盟せよと遺言して没した。

公園全体図


小田原城は、室町時代、大森氏によって築かれたのが起源と考えられている。この頃の小田原城の位置は、八幡山付近と想定されている。
1498年、北条早雲は伊豆を平定したのち、相模国への進出を目指して大森氏を攻め小田原城を奪い、北条氏は勢力の拡大と合わせて小田原城の規模を拡大していき、1590年に豊臣秀吉が小田原城を包囲した時には、全周9kmもの総構が城下町を包みこむまで発展した。

馬出門


小田原城址公園及び、その近辺が、主要部。石垣を用いた総石垣造りの城である。
佐倉城や川越城などのように、土塁のみの城の多い関東地方においては特殊と言え、関東の入口としての小田原城の重要性が伺える。
現在のような総石垣の城になったのは1632年に始められた大改修後のこと。
本丸を中心に、東に二の丸および三の丸を重ね、本丸西側に屏風岩曲輪、南に小峯曲輪、北に御蔵米曲輪を設け、4方向の守りを固めていた。この他、小峯曲輪と二の丸の間に鷹部曲輪、二の丸南側にお茶壺曲輪および馬屋曲輪、二の丸北側に弁才天曲輪と、計4つの小曲輪が設けられ、馬出として機能した。
建造物としては、本丸に天守および桝形の常磐木門、二の丸には居館、銅門、平櫓がそれぞれ設けられ、小田原城全体では、城門が13棟程、櫓が8基程建てられていたものと考えられている。江戸末期には、海岸に3基の砲台が建設されている。

駅前にある「つちあげ」の碑       蓮池堀           堀
    

二の丸総堀は平地部及び八幡山古郭外周の堀が繋がったものである。
三の丸総堀は近世城郭部の三の丸堀に加え、南側の天神山丘陵の尾根を走る空堀、そして最西端の小峰大堀切によって構成される。
小峰大堀切は中世城郭部最大の遺構である。東側へと伸びる八幡山丘陵、天神山丘陵、谷津丘陵が集まる点にあり、各丘陵と西側の山地部を切断している。
小田原の町全体をとりかこんだ、連続した空堀と水堀である。
山地部の空堀は小峰大堀切よりさらに西の小田原城最高所となるお鐘の台をとりこんでおり、ここから北西部の桜馬場、稲荷森の総構堀は比較的よく残る。平地部の水堀は消滅、あるいは暗渠化したが、南西部の早川口や東部の蓮上院近辺に辛うじて土塁が残る。
中世の城の規模では、驚く。

城前の堀と橋              めがね橋
  

北条幻庵 1493-1589 早雲の三男 幼少で僧籍近江国三井寺で修行し、箱根権現別当金剛王院に、北条軍の一将で国府台の戦い、平井城
           攻めに参加している。僧であり武将で文化人であった。北条五代に仕え、同家滅亡直前で97歳で逝った。
           幻庵の作成した「鞍」、「一余切」尺八は、家康が所望したという。

                                  馬出門から見た天守閣
    

北条氏政 1538-90 四代目、氏康の長男、国府台で里見・大田連合軍を破る、武蔵国制圧し北関東へ勢力を伸ばす。長男氏直の家督を譲るが
           実権を掌握、秀吉の上洛要請に応じなかった為に切腹、首は京の一条戻橋に晒された。汁を飯にかける氏政を見て
           「北条家も終わりだ・・」と、父氏康は、嘆いたという。

北条氏直 1562-91 五代目、氏政の長男、本能寺の変後、上野国信長重臣滝川一益撃破し信濃国へ攻め入り、小県・佐久郡占領、甲斐国
           で、家康と争うが鴻和し、娘督姫を娶る。名胡桃城を攻撃したため、秀吉の怒りを買い征伐され降伏する。
           翌年、秀吉と謁見して、一万石を賜り大阪に住んだが同年30歳で没している。

                            城跡内の梅並木(3分咲き)
   

北条氏規 1545-1600 氏康の五男 伊豆国韮山城主 秀吉との和睦に尽力、家康の竹馬の友、北条氏と徳川家の対立時は、氏規が講和に
           奔走している。家康を信じて開城し降伏を勧告したが、約束は守られず、氏直は高野山へ追放され、兄の氏政と
           氏照の介錯を命じられている。一度自殺するが失敗、高野山に幽居後、河内国7千石を賜っている。

城内から見た堀          井戸・ 馬屋曲輪付近に                 雁木
    

三国同盟は、1545年、今川、武田の連合軍が富士川を越えて北条が守備していた富士市に乱入。
北条軍は各地で惨敗し小田原に撤退した。氏康はこの地をばんかいするため今川義元が三河に出兵した時、駿河の留守を狙って乱入したが、武田晴信(信玄)が南下してきたため、あっけなく敗戦また相州に撤退した。
撤退して間もなく、今川義元の軍師から小田原城の氏康に和睦の申し入れがあった。
相・駿・甲の三国同盟の提案である。寝首を掻かれることも心配したが、同盟が成立すれば有利になることもあろうと同盟を結んだ。
婚姻を交わす。義元は正室に信玄の姉を迎え、義元は信玄の正室に公家の三条殿をめあわせ、その後、義元の長女は信玄の嫡男義信に嫁ぎ、北条氏政には信玄の長女黄院が嫁いだ。
今川義元が桶狭間の戦いで戦死してからは三国同盟も亀裂を生じ、女性三人はそれぞれ国元に帰っている。

昔の銅門
    

二の丸御殿                      城内には古木が
    

小田原北条氏時代の小田原城は、全国でも稀に見る規模の大きな縄張りを持った城郭であり、現在は鉄道、道路が、中央を分断されている。

            銅門の土台石              壁の内臓            
  

堅城の小田原城,栄華を誇った北条時代も、平家時代と同じ諸行無常の運命にあった。

武田軍に、小田原城包囲、1569年1月に北条氏政は駿河薩埵峠へ着陣し、興津において武田勢と対峙している。
同年8月に武田信玄は2万の軍勢を率いて甲府を出立、滝山城などの北条方の拠点を攻撃したのち10月には北条氏康の小田原城を囲んだ。
当時の小田原城は有名な惣構えが着工前であったが、かつて上杉謙信が10万以上の兵力で落とせなかった堅城である。
篭城策は手堅く、武田軍は包囲を開始して4日後に城下に火を放ち軍勢を引き上げている。

「三増峠の戦い」は、1569年、神奈川県愛甲郡愛川町三増周辺、結果は、武田軍の勝利、武田信玄対北条氏照、氏邦で、武田軍勝利している。

    

「関東の雄」と呼ばれた北条氏は、戦国時代随一の実力と勢力を誇る大名であった。
関東圏は独立した存在として考えられ、後に豊臣秀吉が北条氏を攻めたのは、北条氏の関東における存在感の大きさを無視できなかったためと考えられている。
北条市初代の北条早雲は、叔母が嫁いでいた今川氏の家督争いの解決を足がかりに関東を平定した下克上の見本といえる人物でした。
早雲の孫である北条氏康は、北条氏を最も栄えさせた大名であったといわれている。
税制をはじめとする行政の改革など、武力のみならず国力の強化にも努め、「領民含めて一枚岩の北条」を構築した名君であった。

本丸に一番近い堀跡      二の丸から本丸へ      石垣山方面     
  

北条氏康は1545年の扇谷上杉家の上杉朝定・関東管領の上杉憲政・古河公方の足利晴氏・今川義元の「北条包囲網」を切り崩して、朝定を討死させて晴氏に古河公方を引退させたが、上杉憲政(1523-1579)は越後の上杉謙信に支援を求めて落ち延びた1552年。
1550年代初頭、東国の有力武将として武田信玄・今川義元・北条氏康が突出した実力を蓄えて領土を拡大していくが、それぞれの軍事的計画を実現するために「甲・相・駿」の三国同盟を政略結婚を通して結ぶことに。
1552年には、今川義元の娘が信玄の嫡男・義信に嫁ぐことになり、1554年には北条氏康の娘が義元の嫡男・氏真に嫁ぎ、その12月に、武田信玄の娘が氏康の嫡男・氏政に嫁ぐことになる。
三者が相互不可侵の誓約を守る暫時的な同盟関係が成立した。(三国同盟)

                             珍しい「銅門」
    

1546年、武蔵国河越城の戦い、北条軍の勝利、北条軍・山内上杉家、 扇谷上杉家、 足利古河公方。北条氏康、綱成、 多目元忠
上杉憲政、朝定、 足利晴氏。8万0000。

「河越城の戦い」は、武蔵国の枢要な城であった河越城の争奪を巡って、河越城周辺で争われた一連の戦い。
北条早雲の嫡男、後北条氏の2代目当主北条氏綱は、武蔵国征服のため、武蔵国を支配していた上杉氏の居城・河越城に侵攻、1524年から4度にわたる争奪戦が展開された。
有名なのが、関東の政局を決定した大きな戦いとなった5度目の 1546年の戦いで、日本三大奇襲(日本三大夜戦)の一つ「河越夜戦」。
北条氏康軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍が武蔵国の河越城(現在の埼玉県川越市)の付近で戦闘し、北条軍が勝利を収めた戦いである。

           本丸                       城内へ
    

「小田原評定」は、1590年豊臣秀吉連合軍が、北条軍の軍団がこもる小田原城を攻めた際、城中の北条氏家臣団の間で、戦い続けるのか降伏するかなかなか意見がまとまらず、いたずらに日時が過ぎて被害を大きくした。

秀吉連合軍は、箱根山中での持久戦を想定した戦略で、 小田原包囲 戦が始まると秀吉は、余裕を各方面に見せ付けるかのように、石垣山に石垣山一夜城を 築き、千利休や、淀殿ら愛妾を呼んでの大茶会などを連日開いた。
大道寺政繁は、 嫡男を脱出させ自らは激しく抵抗するも、連合軍の猛攻の前に降伏。

相模湾方面                        神社近くの曲輪北堀
    

石垣山は、笠懸山と呼ばれていたが、1590年 豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになる。
この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったためと言われている。
実際にはのべ4万人が動員され、約80日間が費やされたという。

本丸を囲む石垣            駅側は発掘調査中         貴重な資料が
    

箱根外輪山山麓の台地にある小田原城、土肥、小早川、大森、北条、大久保、居城。城下を堀と土塁で囲み総延長10KMの外郭の難攻不落を誇っていた。現在本丸近辺の発掘調査で立ち入り禁止区域もある。

庭園跡から出土したのは、池に水を引き入れるための石組水路や築山、庭石などで、礎石建物跡と石組水路の軸線がほぼ一致していることも分かった。石組水路には地元の風祭石や鎌倉石が使われているほか、五輪塔の火輪部分だけを貼り付けた護岸遺構も見つかっている。

発掘裏に弁財天石像が、           城山競技場方面、間に鉄道道路が
  

「北条氏政・氏照の墓所」市指定史跡。 小田原合戦の責任を取って自害させられた4代氏政と弟氏照 (八王子城主)は、この場所にあった伝心庵に葬られ、後に伝心庵は移転し、墓は放置されてしまい、稲葉氏の時代に、追福のために作り直されました。
しかし、それも関東大震災で埋没し不明となり、翌年地元の有志によって復興された。
墓地内には、五輪塔、笠塔婆型墓碑、石灯籠や、氏政・氏照がこの石上で自害したと伝わる生害石がある。

小田原駅に近い商店街の隅に
    

北条氏の寺がここに
  

「報徳二宮神社」は、明治27年 1894年、二宮尊徳翁の教えを慕う6カ国(伊勢、三河、遠江、駿河、甲斐、相模)の報徳社の総意により、
翁を御祭神として、生誕地である小田原の、小田原城二の丸小峰曲輪の一角に創建された神社。
二宮尊徳翁にあやかり学業成就・五穀豊穣・商売繁盛・経営などに御利益があるとされ、毎年多くの参拝者で賑わう。

城跡公園と隣接にある
    

遺跡の曽我兄弟と梅園

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「酒匂川」
二級河川、静岡県内では鮎沢川と呼ばれる。
富士山の東麓と丹沢山地の西南部を主な源流とし、JR東海の御殿場線と並走するように流れ、丹沢山地と箱根山の間を抜け足柄平野を南下、小田原市で相模湾へと注ぐ。
山間部から平野部に入るときに流れをコントロールし平野の中央を流れ、耕地を潤すように文命堤(岩流瀬堤、大口堤)が建設。
岩流瀬堤は、流れをいったん断崖に導き、大口堤は断崖からの流れを平野中央に、上流の御殿場市付近では、富士山のなだらかな裾野が広がり、流れが穏やかで護岸工事が施され、河川の上流といった雰囲気は乏しい。
中上流域の小山町から山北町にかけての県境付近の方が、谷が深く大きい岩や石が見られ、下流の足柄平野付近では川幅も広がり、周辺には水田や住宅地が多くなる。

「JR御殿場線」
明治22年、東京 - 大阪間を結ぶ「東海道本線」の一部として開業し、複線化も行われていたが、昭和9年、丹那トンネル開通に伴い、東海道本線は熱海駅経由に変更され、国府津駅 - 沼津駅間は支線の御殿場線となった。
鉄道唱歌の歌詞は、丹那トンネル開通前に発表されたため、国府津駅 - 沼津駅間が現在の御殿場線経由となっている。
第二次世界大戦中の昭和19年、不要不急線に指定されて単線化され、レールなどの資材は回収されて他の路線の建設に転用。
しかし現在もなおトンネルや橋脚などに複線時代の面影が残っている。
大幹線である東海道本線から一ローカル線の御殿場線に転じたのちも、1992年に発生した東海道線来宮駅構内列車衝突事故の際などには、不通になった東海道本線のバイパスとしての役割を果たし、寝台列車が当路線経由で運行されたことも。
松田駅 - 御殿場駅間においては、JRの前身である日本国有鉄道の時代から小田急電鉄小田原線新宿駅方面からの優等列車の乗り入れが行われ、東京都心 - 御殿場地区間のアクセスルートのひとつとなっている。
JR化後の1991年、特急に格上げされ、それから2012年までの間は乗り入れ区間が沼津駅まで延長。

「二宮尊徳」 1787-1856 農政家 相模国足柄上郡の農家に生まれる。
16歳で両親を失う、後厳しい労働によって荒廃地を開墾し、それを小作人へ、農政の改革家として名声を得る。
関東の諸藩から招かれ財政改革を推進、56歳で幕臣に登用された。尊徳の少年時代は、重労働に従事し、夜は、「論語」を読み勉学し、灯明の油は、友達から菜種をかりて、夜間の学問に励んだ。百姓にも学問を・・。現在の小田原城内に、報徳二宮神社がある。天守閣南西、1893年建立・尊徳の遺品などが展示。
酒匂川と尊徳
酒匂川は地形的に急な増水が起こりやすく「暴れ川」として地域住民を困らせ ていた。
小学校の銅像で有名な二宮尊徳(金次郎)の生家は、酒匂川の栢山に、1791年の台風で酒匂川が増水し、堤が決壊し、生家も父の田畑も すべて流され
その後、父と母も亡くし、尊徳は親戚の家で苦労する。
元のような農地や家を取り戻すために、努力と工夫して 稼ぐことにより、自分の土地を復興させ、その後も、いろいろな事業で業績を。



私鉄小田急松田駅からJR御殿場線で曽我駅を下車しました。
「曽我」は、小田原の勝福寺・足柄の最乗寺・開成町・大井町・中井町・二宮町に囲まれた真ん中の村。

駅北東「曽我梅林」が、大磯丘陵の西・約2万本の「梅」が植栽されている。広さ20hã(2月から)




「最明寺史跡公園」花見見物
池の前の広場にはソメイヨシノとカンヒザクラ、池の周りにしだれ桜、山を 登ればオオシマザクラと一度にいろいろな種類を楽しめる。






                           JR下曽我駅舎


「傘焼祭」  5月の中旬
「曽我兄弟の仇討ち」で有名な曽我十郎と五郎の傘焼きまつり。
曽我兄弟が仇討の際、闇夜の中を松明代わりに傘を燃やして見事討ち取った物語に由来する祭りで、
松明行列、曽我物語の浮世絵の展示、傘焼きと竹燈篭、武者行列(歌舞伎役者参加)や子ども相撲等で2日間行われる。
(両日とも浮世絵の展示や傘焼きが行われると云う)













                        一月下旬の梅


「宗我神社」
曽我祐信が再興したとされる曽我郷六ヶ村(上曽我、曽我大沢、曽我谷津、曽我岸、曽我原、曽我別所)の総鎮守。
江戸時代には小沢明神と呼ばれていた。
1028年、曽我播磨守保慶の建立で、曽我氏の祖先を祀った神社。
明治に入り、六ヶ村それぞれの鎮守をこの社に合祀し「宗我神社」となる。
現在の社殿は、大正12年、関東大震災後に復興した。

宗我神社の神主の家に生まれた「尾崎一雄(1899~1983)」小説家。
昭和12年、第5回芥川賞を受賞し、昭和53年には文化勲章を受章。
作品の舞台は生まれ育った下曽我を中心とするものが多く、昭和の代表的私小説家として独自の境地を開いた。

   宗我神社の大鳥居付近に建立された尾崎一雄文学碑ー富士の姿を記した「虫のいろいろ」の一節が刻まれている。


 宗我神社-1028年宗我保慶が創立・1088年源義家奥州下向の際参詣・1416年小田原城主大森頼明鬼門鎮護、再建・1636年稲葉氏再建
      1869年「宗我神社」と定まる。
      「スガスガしく砂の上に吾等が祀り、農耕を豊かに」祭神ー宗我都比古命・女命






                       社殿




「五郎沓石」
曽我十郎祐成と五郎時致の兄弟は、
源頼朝が富士の裾野で巻狩りを行うので、この機会に日頃から親の敵と狙っている「工藤祐経」を討つ決心を。
五郎の沓石 城前寺近く. 曽我五郎がある時、足を患ったが、治癒した際、自分の体力が衰えていないかと心配になり、ためしにこの石の上で踏ん張ったところ、石が足形に窪んでしまったといわれ、その足形が石の真ん中あたりに残っていると云う。
この沓石には以前は足を病んだ人たちが祈願して治ったお礼に草履や草鞋などのお供え物が絶えなかったという。


「工藤裕経」 1147-1193 父宇佐美の工藤裕継・妻は伊東氏から、官位 左衛門尉
平重盛から源頼朝。
源範頼率いる平氏討伐軍に加わり、山陽道を遠征し豊後国へ渡る。
1186年、静御前が鶴岡八幡宮で舞を舞った際に鼓を打っている。
1190年、頼朝が上洛した際、右近衛大将拝賀の布衣侍7人の内に選ばれて参院の供奉をした。
1192年、頼朝の征夷大将軍就任の辞令をもたらした勅使に引き出物の馬を渡す名誉な役を担った。
祐経は武功を立てた記録はなく、都に仕えた経験と能力によって頼朝に重用されたと云う。
1190年、大倉御所で双六の会が催され、遅れてやって来た祐経が、座る場所がなかったので先に伺候していた
15歳の加地信実を抱え上げて傍らに座らせ、その跡に座った。
信実は激怒して座を立つと、石礫を持ってきて祐経の額にたたきつけ、祐経は額を割って流血、頼朝は怒り、信実の父・佐々木盛綱に逐電した息子の身柄を引き渡して祐経に謝罪するよう求めたが、盛綱は既に信実を義絶したとして謝罪を拒否。
祐経は頼朝の仲裁に対し、信実に道理があったとして佐々木親子に怨みを持たないと述べている
祐経の信実に対する振る舞いには、頼朝の寵臣として奢りがあった事を伺わせる。
「曾我兄弟の仇討ち」
建久4年の1193年、頼朝は富士の裾野で大規模な巻狩りを行い、祐経も参加、巻狩りの最終日の5月の深夜、遊女らと共に宿舎で休んでいた所を、
「曾我祐成・時致兄弟」が押し入り、
工藤祐経は、兄弟の父・「河津祐泰」の仇として討たれた。
祐経が仲介して御家人となっていた備前国吉備津神社の神官・王藤内も一緒に討たれている。
騒動の後、詮議を行った頼朝は、曾我時致の助命を考えたが、祐経の子の犬房丸(のちの伊東祐時)が泣いて訴えたため、時致の身柄は引き渡され、梟首されたとある。(吾妻鏡より)



「曽我兄弟」 兄祐成 1172-93 武士
       弟時致 1174-93 武士
伊豆の「伊東祐親の子河津祐泰」は、遺領争いが原因で、一族である「工藤祐経」に殺された。
河津祐泰の妻は、二児を連れて「曽我祐信」と結婚する。
兄祐成5歳・弟時致3歳・・・17年後、源頼朝が富士(富士宮)の裾野で巻狩りを行った夜、(白糸の滝)から宿舎に祐経を襲って父の仇を討つ。



兄祐成は、その場で、新田忠常に討たれる。
弟時致は捕らわれ、事情を述べたので、頼朝は許そうとしたとある。
しかし、工藤裕経の子が訴え殺されている。  頼朝は、兄弟の孝心に感動し、義父の「曽我裕信」に、兄弟の追善供養料として曽我荘の年貢を免除している。



「曽我物語」は、室町時代広く民衆に親しまれたと云う。



「城前寺」 曽我兄弟の菩提寺
寺は、1193年の建久4年、創建。
曽我兄弟の叔父宇佐美禅師が兄弟の菩提を弔うために庵を結んだのがはじまりとされる。
曽我城の大手門がこの辺りだったことから、城前寺となった。

                       寺の境内から海岸方面


                       城前寺の本殿


                       曽我兄弟の墓






               

頼朝を追い込んだ大庭氏の城址と真鶴・湯河原

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東海道53次の6番目の宿場「藤沢宿」
遊行寺の門前町として栄え、後北条時代は小田原城と支城の江戸城の桜田門、八王子城、玉縄城をつなぐ小田原街道の分岐点が藤沢。
清浄光寺(遊行寺)の東側に「江戸側の見附(江戸方見附)」
現在の小田急江ノ島線を越えた西側あたりに「京都側の見附(上方見附)」があった。この範囲が「藤沢宿」である。
境川に架かる大鋸橋(現遊行寺橋)を境に、江戸側(東岸)の大鋸町・後に西村が分立)は相模国鎌倉郡、
京都側(西岸)の大久保町、坂戸町は同国高座郡に属したと云う。
清浄光寺・通称ー遊行寺、が近くにあり、手前の大鋸橋の京都側南東には江島神社の一の鳥居があり、ここから、江の島道が約1里(約4km)の距離で
「江の島」に通じている。
八王子道(現・国道467号)のわきには源義経が祀られている「白旗神社」がある。幕末には70軒以上の旅籠でさかえた。
「藤沢御殿」-徳川将軍家の宿泊施設は、現在の藤沢公民館と藤沢市民病院の間にあったと云う。
慶長元年頃東西106間、南北62間の広さの御殿が建てられ、表御門は南側、裏御門は東側に、徳川家康、秀忠、家光と利用されている。
1682年、まで設置。現在では御殿橋、陣屋小路、陣屋橋などの地名がある。本陣は、1745年、までは堀内本陣、その後は蒔田本陣があった。

「藤沢・大庭城址公園」へ
城は、12世紀、平氏の「大庭氏」の拠を、15世紀に入り「太田道灌」が本格的に築造した城跡。
その後、小田原北条氏が改修したと伝えられている。
周辺に、駒寄、裏門、二番構などの地名が残っていと云う。雄大な城が偲ばれます。
引地川と小糸川に挟まれ、掘りの役割をしたと思われる。
                            全体の公園地図


                            現在の周囲

「大庭景義(景能)」 鎌倉景正の曾孫にあたり桓武平氏支流・相模国の武将・兄弟に景義・豊田・「景親」・子に景兼(跡を継ぐ)
源義朝に忠誠を誓う。保元元年の1156年、「保元の乱」においては義朝に従軍して出陣、敵方の源為朝の矢に当たり負傷。これ以降歩行困難の身となり、家督を弟の「大庭景親」に任せ、第一線を退いて懐島郷に隠棲した。
1180年、「源頼朝」が挙兵すると、
弟の「景親」と袂を分かち。
頼朝の麾下に参加。後に景親が頼朝に敗れ囚われの身となると、頼朝から「助命嘆願をするか」と打診されるが、これを断り全てを頼朝の裁断に任せたという。その後も、草創期の鎌倉幕府において、長老格として重きをなした。
「藤原泰衡」を征伐する際、頼朝は、後白河法皇の院宣を得られず苦慮していた。しかし「景義」が、奥州藤原氏は源氏の家人であるので誅罰に勅許は不要なこと、戦陣では現地の将軍の命令が朝廷の意向より優先されることを主張。その意見が採用されたと云う。
後に「景義」は出家している。嫡男の大庭景兼が跡を継いだ。
1193年、大庭景義は、同じ相模の有力武士の「岡崎義実」とともに、老齢を理由に出家したことになっている。
しかし、わずか2年後に「景義」は、「頼朝公の旗揚げより大功ある身ながら疑いをかけられ鎌倉を追われ、愁鬱のまま3年を過ごして参りました」と
書面を奉じ、許されたとある。
                            公園前の道路


「大庭景親」 1180年前後  石橋山の戦いで、源頼朝を破った武将。
鎌倉景政の曽孫で、兄「大庭景義」と「源義朝」と共に白河殿攻撃に加わって、後白河天皇方に勝利をもたらしている。が
頼朝挙兵は、平家の恩に報いるため、兄「景能」と敵味方に。3000騎を率いて「石橋山」へ・頼朝軍を破っている。
頼朝が再び勢力を振るい再戦、平家軍と合流したが敗戦に、途中で頼朝軍と遭遇し捕らえられた。兄景能は助命を嘆願しているが景親は片瀬川で斬られている。兄景能は、鶴岡八幡宮奉行などで長老として仰雅れたとある。



「大庭城址」
平安時代の末期、この地は大庭御厨と呼ばれる伊勢神宮の荘園であった。この荘園は、桓武平氏の流れをくむ鎌倉景正(権五郎、景政とも表記)によって開拓され、伊勢神宮に寄進されたもので、のち子孫は大庭氏に改姓し、代々治めていた。

城を築城したのは大庭景親の父にあたる大庭景宗と言われている。「大庭の舘(たて)」とも呼ばれ、景親らの軍事拠点として重要な役割を果たしたと想定される。石橋山の戦いで源頼朝に勝ったものの、一族のほとんどは筑前(現在の福岡県)に渡ってしまうが景親は最後まで抵抗し、捕らえられ斬首される。その後兄の大庭景義の子である大庭景兼(小次郎景兼)が和田合戦にまきこまれ大庭氏は滅亡したとされていたが、現在では、筑後(現在の福岡)に逃れたという説が有力とされている。

大庭氏の子孫および一族の存続を示す具体的な記録の一つとして、相模国の大庭三郎景連が備後の新庄本郷に地頭として任命され、建保元年(1213年)、当地で築城した事例がみえる。のち大場氏と称した。なおこれも大庭城(または大場山城、本郷城などの別称あり)との呼称が残っている。

                             公園入口


「扇谷上杉氏の時代」
扇谷上杉氏の家臣であり江戸城を築城した築城の名手「太田道灌」が鎌倉と糟屋館の中間地点のこの地に最新の技術と取り入れ築城工事をおこなったと云われている。
しかし、この後、相模を侵攻してきた「北条早雲」によって大庭城は落城し、この戦の「舟地蔵伝説」が残っている。

                            公園内から


「後北条氏の時代」
東相模を制圧した早雲は、大庭城を大改修したが、「玉縄城」を築城し、利用価値は低くくなる。
後北条氏が滅ぶと廃城に。
                         散歩道(誰もいない静かな公園)


戦国時代の大規模な空堀や土塁などがところどころに残っている。
公園として保存・周辺は湘南ライフタウンが開発。
                            緑に覆われた公園内


                  園内には、桜・藤棚・バラ園・紫陽花(6月)などが。


「原始・古代遺跡の集落跡」
原始・古代の集落遺跡
台地上に、縄文・弥生・古墳・奈良・平安時代など各時代の遺物が広く散布しており、大庭城が築かれる以前から、人々の生活舞台となっている。
数回におよぶ部分的な発掘調査でも、縄文時代の集石遺構をはじめ、弥生時代後期から古墳時代にかけての竪穴住居や方形周溝墓・奈良・平安時代の
住居跡などが出土。
                     大庭城址公園 面積 11.8H2 


                 原始・古代集落跡が発掘された。(大昔からここで生活を)   


                         園内広場


                        城址説明板


                         空堀案内石


                       山斜面の「空堀あと」

          


                      掘立柱建物城址


                      井戸跡であったのでは?

                        
                        南口の山道


「舟地蔵」伝説。
台座が舟の形をしていることから「舟地蔵」と。
「北条早雲」が、大庭城を攻めたとき、沼地で攻め入ることができず、近くに住む老婆に「引地川の堤を切れば、沼地が干上がる」とを聞き出し、北条軍はそのとおりにして大庭城を攻め落とした。
しかし、 老婆から、秘密が漏れるのを防ぐため、城を攻めるのに先立って斬り殺されてしまったという。
一説には、その老婆を供養するために建てられたのがこの「舟地蔵」なのだと伝えられている。

                        舟地蔵

                     


             舟地蔵板ー北条早雲が攻めたときはこの一帯 沼地とある。


                         引地川水路


                   、公園外にも小さい遊園地があると云う(この範囲は城跡に)


湘南ベットタウン
藤沢市、西部土地区画整理事業と茅ヶ崎市、茅ヶ崎都市計画事業堤地区土地区画整理事業により誕生。
総面積は340.74H2、計画人口は45,000人とされているが居住人口は32,085人と云う。
昭和30年代の高度経済成長の下で神奈川県内は首都圏のベッドタウンとして開発が進んでいったが、それに伴って都市のスプロール化も進んでいった。
それを防止する目的で誕生したのがこの区画整理事業と云う。
1992年に完了し、(かながわのまちなみ100選に選定)
太い幹線道路に平行して生活道路・開発地内の農家をそのまま残していることが特徴で、(設計は黒川紀章)
子供たちの安全のためか、住宅街を車が通り抜けできないように、工夫して道路を配置している。
南の藤沢・辻堂方面、西の茅ヶ崎・寒川方面、北の湘南台・御所見方面、東の六会・善行方面のどこへいくのも長い坂が、そのため、競争がないため、ライフタウン内の物価は比較的高い傾向にあり、車とバイクが生活必需品と云う。
                       


「石橋山」ーJR早川駅海の向かって右の山。
源頼朝は300騎をもって石橋山に陣を構え、「以仁王」の令旨を御旗に高く掲げさせた。
谷ひとつ隔てて景親の軍も布陣。さらに伊豆国の豪族伊東祐親も300騎を率いて石橋山の後山まで進出して頼朝の背後を塞いだ。
この日は大雨となった。そのため、増援の三浦軍は酒匂川の増水によって足止めされ、頼朝軍への合流ができなかった。



「大庭 景親」生誕不詳ー1180。
平安時代末期の相模国の武将。平良文の末裔である鎌倉景政の流れを汲む大庭氏の一族(景親は景政の曾孫にあたる)。
平治の乱後に平家の忠実な家人になり、治承4年の1180年、に義朝の遺児・源頼朝が挙兵すると平家方の武士を率いて石橋山の戦いで頼朝を撃破。
安房国へ逃れた頼朝が再挙して多くの東国武士に迎えられて鎌倉へ入ると抗する術を失う。
頼朝が富士川の戦いで平氏に大勝した後に降伏し、処刑された。
大庭城は、大庭景親の居城・本格的な築城は、扇谷上杉家の定正に仕えた太田道灌が行ったとされている。その後、北条早雲によって攻略され小田原北条氏の支配下に置かれた。小田原北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされると廃城。現在は、大庭城址公園として整備されている。
大庭御厨・鎌倉権五郎景政が開発し、伊勢神宮に寄進した荘園。この辺りから茅ヶ崎へ至る平地は、当時の一等地であったと云う。
古くより大きな集落があったものと考えられている

「伊東祐親」生誕不詳ー1182。
治承4年の1180年、頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、大庭景親らと協力して石橋山の戦いにてこれを撃破する。
しかし頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられる。
頼朝の妻・北条政子が懐妊した機会を得て、義澄による助命嘆願が功を奏し、一時は一命を赦されたが、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」と言い、自害して果てた。



「源頼朝と伊東祐親」
東国における親平家方豪族として平清盛からの信頼を受け、平治元年の1159年、平治の乱に敗れて伊豆に配流されてきた源頼朝の監視を任される。
伊東祐親が大番役で上洛している間に、娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸を儲けるまでの仲になってしまう。
祐親はこれを知って激怒し、1175年、平家の怒りを恐れ千鶴丸を松川に沈めて殺害、さらに頼朝自身の殺害を図ったが。
頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた次男の祐清が頼朝に知らせ、頼朝は夜間馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込み、北条時政の館に匿われて事なきを得たという。祐親はこの前後に出家していると云う。

石橋山の戦いは、平家軍3000騎・源氏300騎(北条宗時・佐奈田義忠など討死している)


「源頼朝股肱の臣 土肥実平」
10世紀頃から関東に勢力を伸ばした平氏の一族の出で、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)に住んで土肥を名字とした。
源頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると嫡男遠平とともに参画し、以後数々の合戦に出陣、頼朝の信任篤い将となり、富士川の合戦後に頼朝・義経兄弟が対面した際にはその取次ぎをしたことで知られている。
平家追討の戦いでは義経を補佐して功を立て、備前・備中・備後の守護職が、嫡男遠平に安芸国内の地頭職が与えられ、土肥氏と西国との関わりはここに始まる。平家滅亡後も、かつて補佐していた義経追討や、奥州征伐などの合戦にも加わり、頼朝股肱の臣として常に第一線で活躍を。

「小早川家の祖」
湯河原町のJR湯河原駅周辺は、かつて実平が屋敷を構えた地で、今でも「土肥」の地名が残され、土肥氏の領地はこの近辺だけでなく、小田原市内にも及び、実平の嫡男・遠平は、現在の小田原市内にあった早川荘からとった小早川を名字とし、また小田原に城を築いている。
遠平の嫡流は相模の領地を継いで「土肥」を名乗り、庶流は安芸の領地を継いで「小早川」を氏とし、土肥家は鎌倉時代に勢力を失いますが、小早川家は西国で勢力を固め、山陽を代表する武家となる。
土肥一族が備前の地の領主に返り咲くのは、1600年の「関が原合戦」後のことで、宇喜多秀家に変わって小早川秀秋が備前・美作に封じられ、しかし秀秋は2年足らずで病没、鎌倉以来の名門小早川家は断絶する。

「安達盛長」1135-1200 13人合議制の一人、三浦義明の弟、平塚・伊勢原、千葉常胤(下総介)を味方に付けた。


「真鶴・荒井城址公園」
源頼朝の挙兵以来活躍した「土肥実平」の祖父を「荒井刑部・実継」とする説がある。「城願寺縁起」。
荒井氏はこの付近に関係があったと思われ、城地の西の山裾にある福浦は、江戸初期まで「荒井村」と称していた。
頼朝らが「箱根権現」からこの真鶴・岩海岸で漁舟で千葉・房総へ向かっている。

1186年、当時の推定年齢、源頼朝(39)、土肥実平(61)、土肥遠平(36)、 土屋宗遠(58)、岡崎義実(74)、足立盛長(51)、新開忠氏(57)、(田代信綱(41)。
    

                   湯河原駅前    「土肥氏像」






















敗れた頼朝一行は、真鶴の岩海岸から千葉県房総へ。

遺跡の多い逗子 披露山、持田遺跡 名越の切通し

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古代律令時代の官道で都から東へ向かう道は、中部の山地を通るものが東山道と呼ばれた。
日本海沿岸を北上を北陸道・南の太平洋沿岸を進むものが東海道。
東海道といえば安藤広重の浮世絵で知られる東海道五十三次のルートを思い浮かべるが、東海道という道の語源は遙か奈良時代の昔からのものであって、その当時の東国(関東)へ向かう太平洋沿岸の幹線路を江戸時代の道と区別するために「古東海道」と呼んだ。
「古東海道」は、足柄峠から関東へ入り、相模灘に沿って東行し鎌倉へ入っていたと想定されています。鎌倉からは小坪坂を通り、現在の逗子市を抜けて走水(横須賀市)の海岸へと進み、そこから東京湾を渡り房総半島へ。

逗子市は、遺跡が多い。
縄文時代の「披露山遺跡」市の披露山公園の西側。逗子披露山公園住宅という高級住宅地、有名人の住宅もあると云う。
弥生時代の「持田遺跡と長柄桜山古墳群」逗子湾西側の披露山に残る「古東海道」の続きとも想像され興味深い古墳群と東に1000m行けば前出の
持田遺跡、さらに、さらに半島を横切って横須賀の走水に残るヤマトタケル東征伝説との関連にまで言及する見方もあり、桜山、長柄境は一躍考古学上の重要ポイントに。一帯は、平成14年「国指定史跡・長柄桜山古墳群」に指定。
古墳時代の「新宿横穴群」横穴墓は逗子海岸近くの岸壁に、大正12年の関東大地震によって横穴墓が開口し、その存在が。
これまでの発掘調査で22基の横穴墓が確認されている。
横穴墓群隣にはは新宿稲荷神社がある。横穴墓からは4体の人骨の他に青銅製の鈴釧、首飾りに使用された玉類多数、圭頭柄頭が出土した。
現在は土取りや開発によって破壊されてしまったと云う。

「五輪塔」五解脱輪・仏塔の一種。密教で説く五大を方(地),円(水),三角(火),半円(風),宝珠(空)で象徴した。

逗子と云えば池子に海軍の弾薬庫(昭和12年~)が、池子弾薬庫は市の15%を占めていたという。
逗子海岸は、遠浅で家族ずれの海水浴場で人気がある。海岸に徳富蘆花「不如帰」の碑がある。

逗子の地名は逗子大師と呼ばれている「延命寺」、行基作の延命地蔵尊を安置する「厨子」にちなむと伝えられている。
浪子の浪子不動、ヨットハーバー、レストラン、保養地、観光、住宅都市と発展。

               

弘法大師(空海774-835)讃岐国生まれ、上京し大学に、その後仏教に転じ、四国で修行出家、入唐し、
帰国後嵯峨帝より、高野山を賜る。
空海の足跡は各地にあるが四国が多い、「四国遍路」88ヶ所巡礼は今でも盛ん。

延命寺(逗子駅東口徒歩5分)                           逗子大師(弘法大師)                               
              

奈良時代「行基」開基、自作の「延命地蔵菩薩像」を安置し本尊とされた。
平安時代に入り弘法大師空海が下野の国(栃木)に来た折立ち寄り、地蔵尊「厨子」を安置する。
以来住民尊信、逗子の地名の起源と成った。

延命寺 本殿                       拝殿
  

高野山真言宗は、仏教の真髄を説き密教の宗派で、弘法大師によって全国に伝わる。(816年高野山開創し835年高野山入山)御宝号 南無大師遍照金剛

鐘楼                            延命地蔵尊
            

「延命寺の言葉」
春の優しい光りも 夏の明るい日差しも 秋の寂しい影や 冬の厳しい風でさえも
全てを受け入れ包み込んでくれる 空間がここに。

逗子市と鎌倉市の市境に「浅間山」がある。武士の都として栄えた鎌倉は、中世の武士達が放った一瞬の光りが消えて、その残照に長い間埋もれるように
衰退して行ったのだという。

現在中世の残照は山間に残っている、逗子・鎌倉の山に「やぐら」と呼ばれる山肌をくり抜いた横穴式の墳墓が数ある。ここ浅間山にも昔の風情をとどめる「名越切通し」が抜けている、滅ぼし、滅亡していった中世武士達の栄枯盛衰、その記憶が山路に残っていた。

「名越切通し」鎌倉七切り通しの一つ、ここは、三浦半島に抜ける要路、三浦一族に備えた。要塞の鎌倉への騎馬の進入を防ぐ為のもので、岩壁には、手彫りのノミの跡が残っている。

               

日蓮上人は、鎌倉へ来て法性寺の岩穴に住んだが、食べる物が無く困っていると、この山に住む猿が畑にある。食べ物を持ってきたりして助けられたという、そこから寺の名も「猿畠山法性寺」となっている、猿と関係深い寺。仏殿の脇に小さい岩山があり石段を登ると山頂の見晴台に出るが、そこが「お猿畠」。法性寺は、日蓮の弟子 日朗が開山、鎌倉時代の古刹。逗子市久木の横須賀線踏み切りを渡ると黒門の大きな山門があり「猿畠山」の山号が架かっている。岩肌を露出した山路を登っていくと山の中腹に仏殿が現れる、人影は無く静か。

法性寺 山門                          拝殿
  

徳道上人 656年播磨の国で誕生。伝説によると仮死状態の上人が、あの世の閻魔大王に会い、大王から衆生済度の為33の観音霊場を広めよと宝印を授かり息を吹き返したとある。これが坂東33観音霊場と言われ、国巡礼の創始者とも言われている。

 「岩殿寺」坂東33ヶ所観音霊場第2番 曹洞宗 山号「海雲山」 本尊十一面観音通称岩殿観音 逗子八景の一つ。
寺伝によれば「長谷寺」の開基徳道上人が、ここで熊野権現の化身である老翁に逢い、霊地たるを知り、
数年の後に僧行基が訪れ十一面観音石像を安置したとある。

詠歌 「たちよりて 天の岩戸をおし開き 仏をたのむ身こそ たのしき」

岩殿寺 山門                         納経所
           

行基(668-749)奈良時代の百済系渡来氏族での高僧、広く諸国を巡り、橋、池や道路を開き社会事業によって多くの人を救った。
「行基年譜」によると、僧院34、尼院15、橋6、池15、堀川4・・・など。
いろいろ弾圧も受けているが、最後は朝廷側に取り込まれた。

泉鏡花(1873-1939)小説家、俳句、金沢生まれ、尾崎紅葉の「二人比丘尼懺悔」を読んで文学の道、紅葉の門下に入り書生生活。
処女作「冠弥左ヱ門」京都日出新聞連載「夜行巡査」「外科医」など。

逗子に滞在していた泉鏡花が岩殿寺を恋人としばしば訪れている。明治35年の37歳頃、境内に瓢箪池があるが鏡花が寄進している。

情緒ある100余段の階段                           拝殿
           

鎌倉時代には、源頼朝によって寺領が寄進されている、「吾妻鏡」にも源実朝らが、よく参詣していたことが記してある。
その後衰退したが1591年徳川家康によって再興した。

渡り廊下                                  仏像の祀られたやぐら
           

小雨混じりの古寺、人は一人もなく苔と新緑と石像、小鳥の囀りと泉鏡花が恋人としばしば訪れていたのが判る様だ。

奥の院への参道                                鐘楼
                  

鎌倉鶴岡八幡宮へ。

鎌倉は歴史の町、寺の町

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「鎌倉府」
後醍醐天皇が建武の新政の一環として、関東統治を目的に皇子・成良親王を鎌倉へ下向させて創設した鎌倉将軍府が起源。
実権は幼い親王を奉じた足利直義にあった。
観応の擾乱が発生すると、足利尊氏は子である足利基氏を鎌倉へ派遣し、以来、長官の鎌倉公方は基氏とその子孫、これを補佐する関東管領は上杉氏が世襲する鎌倉府となった。
管国は関東10か国(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐)で、1392年に陸奥・出羽が追加された(ただし、1400年に奥州探題の設置によって陸奥・出羽両国に対する鎌倉府の権限が事実上削減される)。
鎌倉公方・足利氏と関東管領・上杉氏はやがて対立し、1439年の「永享の乱」では、関東管領・上杉憲実、幕府・足利義教と戦った第4代鎌倉公方・足利持氏が敗死し、鎌倉府は長官が一時不在となった。
その後、持氏の遺児・足利成氏が鎌倉公方となるが、享徳の乱で室町幕府・上杉氏と再び対立。上杉氏援軍の今川範忠勢に鎌倉を占領されると、本拠を下総・古河城にあらため、鎌倉府は古河公方・成氏の古河府へ継承された。幕府は新たな鎌倉公方として足利政知(義教の子)を派遣したが、上杉氏との確執から伊豆の堀越御所に根拠を定め(堀越公方)、源頼朝の時代から東国政治の中心だった鎌倉には入れなかった。

「日蓮宗長勝寺」
長勝寺の近くに1253年の創建の「安国論寺」(日蓮は北条時頼宛てに「立正安国論」を提示)がある。長勝寺は山号石井山、本尊大曼茶羅、大本山本圀寺の旧末寺、日蓮が草庵を結んだひとつで1263年創建「石井長勝」開基、長勝はこの地の領主で、日蓮に帰依し名がついた。

                                       山門
            

日蓮(1222-1292)鎌倉時代の僧、論号立正大師、千葉安房小湊、12歳で仏門に入る。
諸宗を学び「法華経」のみ末世の国家の平安もあり得ることを悟り1253年日蓮宗を開く、

各地辻説法で他宗を激しく攻撃し論破した。
1260年「立正安国論」を幕府に献じ、国難を予言した、「南無妙法蓮華経」の唱題による成仏を説いた。鎌倉、佐渡に流され、甲斐の身延山、最後が大田区の池上で没している。
               四天王に囲まれた日蓮上人
               

本堂前にある日蓮像は、高村光太郎の父光雲作、周りにはそれを守るように等身大の四天王像が立っている。
本堂左手の祖師堂は、法華三昧堂とも言われ室町時代の唐様建築で県の重要文化財に指定。

石仏                                     鐘楼
               

境内は自由に入れる。赤木圭一郎の供養碑がある。

祖師堂                                    新緑の本堂
               

坂東33観音3番札 「安養院」                          山門
             

北条政子(1159-1225)尼将軍源頼朝の妻、伊豆の土豪北条時政の娘、頼朝流人時代結婚、頼朝亡き後、長男頼家が将軍。
政子は尼に、父時政、弟義時等と北条の権力拡大を図る。
次男の実朝を将軍にして、その後見役として幕政に参画、弟の義時を二代執権とした。公家政権が弱り武家政権が確立、頼朝の恩義を説いた演説は有名。
安養院は笹目ヶ谷の真言律宗「長楽寺」が前身で、政子が頼朝の菩提を弔うため1225年建立、後に寺名を政子の法名「安養院如実妙観大禅士」にちなんで改めたという。政子が頼朝と結ばれたことで、恋愛成就の御利益があるともいわれている。

境内には樹齢700年の巨木、ツツジと見所多く、別名ツツジ寺とも呼ばれている。鎌倉最古の石塔と、政子の供養塔がある。 拝観料有料。

本殿                                           境内
             

日蓮宗 「上行寺」     寺号法久山1313年創建 山門の龍の彫刻は左甚五郎作・井伊直弼を討った水戸藩浪士広木松之助のゆかりの寺、通善和尚が匿った、2年後切腹。
法華堂は、妙法寺から移築されたもの、七福神が祀られている。瘡守稲荷は、政子が頼朝のため参拝している。                                               
                 日蓮宗 上行寺
                 

源義光(1045-1127)頼義の三男 常陸佐竹氏、甲斐武田氏の祖。後三年の役で、兄が苦戦と聞き朝廷の許可を得ずに奥州へ赴いた為左衛門尉を解任されている。
八雲神社は、石鳥居の鎌倉最古の「己除開運」の神社と言われ、寛文10年鎌倉で疫病が大流行、多くの人々が苦しむ様子を見た源義光が、京都祇園社の祭神をここに勧請したのが始まりと伝わる。
地元では「八雲さん」「お天王さん」と呼ばれ親しまれている、鎌倉駅徒歩約7分。

八雲神社 鳥居
             

鎌倉の市名の由来は諸説あるが「かま」洞窟、「くら」岩の意味が定説。前後の起伏に富んだ丘陵に三方囲まれ、一方は海、現在は盆地に住宅が密集。
道路は京都の制度を取り入れ東西、南北に大路が広がっている。

「本覚寺」山号妙巌山 本尊釈迦三尊像 日蓮宗 鎌倉駅東口に近い。足利持氏が、鎌倉の夷堂があった場所に寺を建てて日出上人に寄進したとある、鎌倉時代の刀匠岡崎五郎正宗の墓もある。
久遠寺にあった日蓮の遺骨を分骨している、東身延とも呼ばれている寺。鎌倉七福神夷様駅に近いのか近隣の住人、学生、主婦などが境内を通り抜ける姿もあり、オープンな寺。

本堂でドラのようなゴーンと言う音はかなり大きい音、山門を潜ると右手に八角の堂がありこれが夷神堂。源頼朝が裏鬼門として夷神を守り神として祀った。

「本覚寺」                               山門
             

鎌倉七福神はこの本覚寺が夷さま、鶴岡八幡宮が弁天様、長谷寺が大黒天、浄智寺が布袋、宝戒寺が毘沙門天,妙隆寺が寿老人、御霊神社が福禄寿。
本覚寺には樹齢100年のサルスベリの巨木が2本ある、しだれ桜も見事。

本堂                                  鐘楼
             

大巧寺は「おんめさま」の呼称で親しまれている日蓮宗の寺。頼朝の作戦の祈願所が12箇所あり「大行寺」といった。
特に平家に大勝した作戦が成功したので大巧寺として、1320年現在地にまとめた。
安産祈願でも有名、若宮大路に面し漆塗りの門、境内には季節の花が楽しめる寺。

「大巧寺」                                 境内    
  

小町通りは、鎌倉駅東口から鶴岡八幡宮へ、若宮大路と平行して約600mの通り、通り沿いや裏路地に約200軒以上のショップ、
レストラン、和、洋菓子店、陶器屋、などバラヱテイに富んだ店が連なっている。

鶴岡八幡宮 三の鳥居                  小町通り


鎌倉府ー京都扶持衆・幕府との対立激化、上杉禅秀の乱で禅秀に与した関東武士は、鎌倉公方・足利持氏からの弾圧から逃れるために、幕府との結び付きを強め、京都扶持衆と呼ばれる集団を形成した。
一旦確立した鎌倉府管轄国の内部に、幕府があからさまに干渉を始め、持氏は危機感を強める。
持氏は鎌倉府管轄外だった越後、信濃、駿河に干渉して、逆に「鎌倉扶持衆(関東扶持衆)」と呼ぶべき集団を形成し、鎌倉府と幕府との対立が深まっていった。
「永享の乱~享徳の乱・鎌倉府崩壊」に、1428年、将軍・足利義持が後継者不在のまま亡くなり、1429年、くじ引きで選ばれた「足利義教」が新たな将軍となる。
鎌倉公方・足利持氏は、自らが将軍になる野心を持っていたため、京都の幕府・義教との関係はさらに悪化。
1438年、持氏は京都との調停役となっていた関東管領・上杉憲実討伐を始めた(永享の乱 )。
しかし幕府が軍事介入すると、持氏から離反するものが相次ぎ、憲実討伐に失敗して降伏。
さらに義教は憲実の助命嘆願も無視し、1439年、持氏と嫡子・義久を攻め滅ぼす。
このとき持氏に対して厳しい姿勢を示した義教も、鎌倉府そのものは否定しなかったと云う。
新たな鎌倉公方として、自らの子息を鎌倉に下向させ、鎌倉府を再興させようとする。
この構想は、1441年、義教暗殺(嘉吉の乱)により白紙化されるが、1447年、鎌倉府は持氏の遺児・足利成氏のもとで再興。
「永享の乱」とその後の「結城合戦」を経て、上杉氏と伝統的豪族層・国人層との対立が顕在化すると、両者ともにそれぞれの思惑から新たな鎌倉公方を必要としたのである。
しかし、対立は解消されないまま、成氏は、幕府および関東管領・上杉氏と対立し、享徳3年の1454年、に始まった「享徳の乱」にて、鎌倉を離れ下総・古河に移座した。崩壊した「鎌倉府」古河公方・古河府に継承された。

頼朝が眠る古都鎌倉へ 八幡宮から

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鎌倉には縄文時代から弥生時代にかけての遺跡もあり、杉本寺、長谷寺、甘縄神明神社のように創建を奈良時代と伝える社寺も存在する。
万葉集にも登場し、三浦半島から房総半島へ抜ける古代の東海道が通っていた。律令体制下、相模国鎌倉郡の行政の中心となった。
蘇我入鹿打倒を祈願するために常陸国の鹿島神宮を訪れた藤原鎌足が、帰途に霊夢によって鎌を埋めた土地であることから「鎌倉」と命名されたとする伝説がある。
これは鎌足の末裔である藤原頼経が将軍の地位に就いた鎌倉時代中期以後に成立した伝説とみられ史実ではないが、中世から近世にかけて多くの地誌に採録されて広く信じられていた。平安時代末期には平直方が居館を構え、平忠常の乱鎮圧を源頼信に委ねて以来、河内源氏ゆかりの地となった。
しかし、鎌倉が歴史の表舞台に登場するのは源頼朝の登場以降である。
奈良時代から平安時代中期にかけての鎌倉の実情については、資料が乏しく、あまり明確ではないと云う。
1063年、源頼義は由比郷鶴岡(鎌倉市材木座)に「鶴岡若宮」として、河内源氏の氏神である河内国石川郡壷井の壷井八幡宮を勧請した。
この年は、頼義が陸奥の安倍貞任を討ち、前九年の役が終結した翌年である。
頼義は、氏神として信仰する八幡神に戦勝を祈願していた。
そして、戦いの後、京都郊外の石清水八幡宮に勝利を感謝し、本拠地の河内国壷井に壷井八幡宮を勧請し、河内源氏の東国進出の拠点である鎌倉に八幡神の分霊を祀った。
これが今も鎌倉の中心である「鶴岡八幡宮」の起源。
それから1世紀以上経た治承4年の1180年、頼義の玄孫である「源頼朝」が鎌倉入りした。
頼朝の父・義朝は、頼義以来ゆかりのある鎌倉の亀ヶ谷に館を構え、頼朝の異母兄・義平の大蔵合戦での活躍もあり関東に強い基盤を持っていたが、
「平治の乱・1159年」で平清盛との戦いに敗れ、関東へ落ち延びる途中尾張国で殺害された。
これが初陣であった若き頼朝も殺されるはずであったが、清盛の継母にあたる「池禅尼」の助命嘆願で許され、摂津源氏の源頼政一族の知行国でもある
伊豆の「蛭ヶ小島」へ流された。
それから20年後の1180年、以仁王が頼政の嫡子の「前伊豆守」源仲綱を通じて全国の源氏に発した令旨を奉じた頼朝は、流刑先の伊豆で平氏打倒の兵を挙げる。
頼朝の軍は石橋山の戦い(神奈川県小田原市)では敗北して、いったん安房(千葉県南部)へ引き下がるが、ここで軍勢を整えて、続く富士川の戦いでは平維盛らの軍勢を圧倒する。
関東を平定した頼朝は父祖ゆかりの地であり、天然の要害である鎌倉に入り、大倉(大蔵)という場所に館を設ける。
現在の鶴岡八幡宮の東方、清泉女学院小学校のあたりがその館跡で、ここは後に「大蔵(倉)幕府」と呼ばれるようになる。
同じ1180年、頼朝は八幡宮(鶴岡若宮・由比若宮)を由比郷鶴岡から小林郷へ移す。小林郷は現在の鶴岡八幡宮の所在地。

源氏の守護神として崇拝された八幡宮は、当初は簡素で鶴岡若宮のみであったが、次第に山門、鐘楼、経蔵などが立ち並び、神仏混合の寺として伽藍配置が整っていった。1868年神仏分離令により仏教関係は取り壊され現在の形になった。

「段 葛」だんかずらー鎌倉の中心を南北に貫く若宮大路の中央、二の鳥居と三の鳥居を結ぶ土盛された歩道は、源頼朝が1182年妻政子の安産を祈願し、鎌倉の都市整備として造営、昔は一の鳥居から三の鳥居まで続いていた。

段葛の歩道                                    三の鳥居
                 

「源平池」太鼓橋の両側に広がる瓢箪池東が源氏池三つの島がある、西が平家池四つの島がある。三は産、四は死に通じ源氏の繁栄と平家の衰亡を祈ったと伝わる。源氏池の中島の旗上弁財天社は、幕府軍がここで旗揚げ戦勝祈願したところ。

源氏池                                    平家池
  

若宮「下宮」は、国の重要文化財、頼朝が鎌倉入りした時の若宮で八幡宮の起源、現在の朱塗りの流権現造の若宮は、
1624年三大将軍徳川家光が着工を命じたもの。

本宮「上宮」は、源氏の氏祖神である八幡大菩薩を主祭神とするもの。現在の社殿は1828年11代将軍家斉が造営したもの、国指定重要文化財
 入館料¥100。

下宮                                     本宮
  

国宝館は昭和3年開館、八幡宮の弁財天像、円応寺の初江王像、建長寺の北条時頼像など約3500点の文化財が保存されている、入館料¥150。

神苑牡丹庭園は、源氏池の畔に1万㎡の広大な庭園、約2000株の春牡丹が見られる。

鎌倉国宝館                                 ぼたん庭園入り口
  

鎌倉観光の中心鶴岡八満宮を参拝して、静かな住宅街をのんびり歩いていくと、源頼朝の墓のある白旗神社の前に出た。
源頼朝の墓は源氏ゆかりの地、大蔵山の中腹にある。高さ2m程の石塔。

1199年53歳で亡くなった。ここは生前に持仏を祀る法華堂があった場所に遺体を安置したと言われ、1779年薩摩藩主島津重豪によって整備され現在の姿になった。(国指定史跡)

この階段を昇ると正面に頼朝の墓                      頼朝の墓
            

中国地方の毛利家の祖 毛利孝光、薩摩の島津家の祖 島津忠久、京で実務官僚頼朝に招かれた実務官、大江広元「やぐら」の墓があると聞いていたが見つけることができなかった。

九州の太宰府天満宮、京都の北野天満宮と並ぶ日本三天満宮の荏柄天神社、創建は1140年と伝わる。鎌倉時代大蔵幕府の鬼門の鎮守として崇拝された。

祭神は菅原道真。境内には道真が愛した梅が、約100本植えられている。拝殿の右手に大きい絵筆塚があり、鳥居の近くに神木の銀杏があった。

                                    荏柄天神社 本殿
            

横山隆一など漫画家154人の絵筆塚                      神木としての銀杏
               

明治2年明治天皇の勅命で創建された官幣中社、後醍醐天皇の第一皇子「大塔宮護良親王」の祭神、大塔宮とも呼ばれている。
幕倒として大将軍になるが、後足利尊氏と対立28歳で殺害され、親王の首が棄てられた場所が今でも残っている。

10月境内で鎌倉薪能がある、市民の間で人気。
                                    鎌倉宮 社殿
                 

永福寺跡は奥州征伐の際、奥州藤原氏の中尊寺、毛越寺などの荘厳さに感動した頼朝が、義経、藤原泰衝らの冥福を祈ると共に、幕府の権勢を示す目的で1191年永福寺を創建。頼朝の三大寺院の一つ、1405年炎上。現在発掘調査中。

            

96代「後醍醐天皇」(1288-1339)親政を試みた最後の天皇で、足利尊氏が幕府を開き97代光明天皇を即位させ、その後南北朝が成立抗争、上皇は京都には入れず吉野で没した。公家政権の復活は以降無い。

「護良親王墓」
160段の急な階段を上り詰めると玉垣に囲まれ、印塔がある。後醍醐天皇の皇子父と共に倒幕運動征夷大将軍となり、1335年幽閉翌年足利直義の令で暗殺、首は草むらに投げ捨てられていたと言う。「理智光寺」の僧が手厚く葬った。

            

「瑞泉寺」
北条高時(1303-1333)執権北条貞時の嫡男、14歳で執権、24歳で降りたが権威は持った。新田義貞に鎌倉攻略され自害、870余人が死出の旅路を共にしたとある。政務に興味なく闘犬に明け暮れた。
第九代執権北条貞時の夫人や、第14代高時に深く帰依された「夢窓疎石」が、1327年臨済宗の寺として創建。

その後足利基氏が中興、本堂には徳川光圀寄進の先手観音が祭られている、地蔵堂には「どこも苦地蔵」が安置、どこに逃げても苦は同じと夢に出てお告げが有ったと言う。本堂裏には、天女洞、池、中島と鎌倉禅宗様式の古寺。豊かな自然に囲まれ、人は疎らで、ゆっくり見て回れた。

            

境内の踏み石                                絵のような山門
            

吉田松陰 留跡石碑                             書院
            

庭の約束事を全て備えた池泉式庭園、かつては草木に埋もれていたが、昭和44年に古図面を基に復元された。

             

禅の思想を伝える石庭 天女洞                        岩盤を巧みに削り造られた貯清池                            
             

「覚園寺」
1218年第二代執権北条義時が大倉薬師堂を建立。1296年貞時が元寇の難を逃れる祈願の為智海真慧を招いて建立し覚園寺と称したと伝わる古寺。

北条の後足利氏の祈願所として栄えた。足利尊氏の直筆の文字も堂宇に残っている。本尊は阿弥陀三尊「国の重要文化財に指定。堂内には、三尊像を取り巻くように12体の神将像が安置されている。

覚園寺 山門                                   印塔                                
             

北条義時の伝説が残っている。
源実朝が暗殺された右大臣拝賀の儀式で、義時は、白い犬の姿を見て気分が悪くなり、一人屋敷に戻った。
戌神将が白い犬に姿を替え、義時に暗殺の危機を告げたと「吾妻鏡」は記している。

本堂                                    新緑の境内
  

太平記の悲劇を思いながら歩く古寺は、やはり趣き深いものがある。瑞泉寺は花の寺として有名だが、今回は新緑が美しい。花まではまだ間がある。

「杉本寺」は、坂東札所第一番鎌倉最仏地「大蔵山」鎌倉二十四地蔵霊場四番・六番。鎌倉駅北東の二階堂にある天台宗の寺 山号「大蔵山」、開山行基、中興開山円仁と伝わる。743年創建、鎌倉で最も古い寺、大蔵観音、杉本観音とも言われている。

本尊 木造十一面観音像2体(伝円仁、源信作)。

文治5年燐家火災類焼の際、本尊庭内の大杉の下へ火を避けた。それにより杉の木観音と呼ばれるようになったと言う。「吾妻鏡」。

                  杉本寺 山門
                  

光明皇后が、大臣藤原房前と僧行基に命じて建立、行基自ら十一面観世音を安置とある。
851年僧円仁(慈覚大師)も十一面観世音を刻み安置し坂東第一番の札所と定めた。

仁王像
            

建久2年源頼朝公が再興立像七尺の十一面観世音を寄進している。
言い伝えによると信心なくして御堂の前を馬にて乗り打ちする者は、必ず落馬すると言うので下馬観音とも言われた。

光明皇后(701-760)夫聖武天皇、藤原不比等の三女、仏教興隆に尽くし病人孤児を救う。
藤原房前(681-737)天皇の側近官僚、和歌、漢詩多く残す。世渡り上手といわれた。

丘陵から見る雪ノ下町方面                      本殿
  

大蔵山30m比高、寺の背後裏山に杉本城跡があったと聞いていたが判らず残念であった。
ここは1337年北畠顕家、新田義興等の鎌倉攻めの軍勢が攻めて、朝比奈方面の守りとして斯波三郎家長以下300名が、
ここで激戦全員討死、落城した。

℡0467-22-3463   拝観料¥300

11面観音上り旗                                      数多い石仏と苔むした五輪塔
                    

大蔵幕府跡は、1180年頼朝が鎌倉に入り、まず最初に居を構え幕府を開いた、武家社会の発祥の地。源氏の頼朝、頼家、実朝の三代と尼将軍政子が幕府を治めた(46年間)。度々大火で焼失、石碑のみになった。

大蔵幕府跡                                        幕府跡石碑
            

杉本城跡地があるが。

北条政子の墓から江ノ電極楽寺へ

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「北条時政」 土豪から幕府初代執権 1138-1215 娘北条政子 頼朝の挙兵に加わる。頼朝死後13人合議制で二代将軍頼家を廃して次男実朝を
三代将軍とした。有力御家人「梶原・比企・畠山・・」を謀殺し、後妻の娘婿「平賀朝雅」を将軍にしようと企てた。
陰謀が発覚、突如出家退隠・朝雅は殺されている。

「北条義時」 二代執権 時政の次男 1163-1224 13人合議制、「和田合戦」で和田氏を倒し実権を御家人支配した。
京都「九条頼経」四代将軍に迎え「承久の乱」で武家政権を確立させた。「六波維探題・公家政権監視」を設けた。

「源 実朝」 1192-1219 三代将軍 北条時政、義時父子が実権を。和歌や蹴鞠に熱中、子供が無く源氏断絶・右大臣に。
家集「金槐和歌集」を残す。頼家の子「公暁」の殺される。 

「北条政子」 1156-1225 尼将軍 流人頼朝と結婚 2男2女 頼家将軍で尼に、北条氏の権力拡大にを図る。
次男実朝を将軍し、その後見役として幕政に参画し、二代執権に義時に。三大執権に長男の「泰時」を据えた。

         JR横須賀線踏切を渡ると、住宅別荘地に、「川喜多映画記念館」が。


               鎌倉を愛した川喜多氏の別荘(現在、市が管理)


「川喜多長政」
明治36年、生まれ、東京府立四中を卒業後、大正10年中国に渡り北京大学に学ぶ。
ドイツに留学し、ヨーロッパの文化に接し、国際交流の重要性を実感、帰国してすぐ昭和3年東洋と西洋の和合を願って「東和商事」を設立し、
ヨーロッパ映画を日本に紹介する仕事を始めた。
数々の名作を輸入・配給し、「自由を我等に」「巴里祭」「会議は踊る」「女だけの都」「望郷」「民族の祭典」など、映画史上不朽の名作がある。
昭和12年、ドイツとの初めての合作映画「新しき土」を制作し、昭和14年、日中戦争のさなかに上海に日中合弁の中華電影公司が設立されると、
その最高責任者に就任している。
中国側スタッフに自由な映画制作を許し、軍部からの圧力に抵抗・戦後、昭和26年、社名を「東和映画」。
外国映画の輸入・ヴェネチア映画祭に、黒澤明監督の「羅生門」を出品することに協力など、映画産業に大きく貢献している。



                     小路が続いている。


「東慶寺」  鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺院、山号は松岡山ー寺号は東慶総持禅寺。

寺伝では開基は北条貞時、開山は覚山尼と伝える。現在は円覚寺末の男僧の寺であるが、開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺で、室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した特殊な格式のある寺であった[注 1]。また江戸時代には群馬県の満徳寺と共に幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていた

                           山門


「禅寺・伽藍配置」
建長寺は、正面南から中心線上に惣門・三門・仏殿・法堂・玄関・方丈と並び、
三門から仏殿には回廊が巡らされて、この回廊に接して東西に庫院と僧堂がある。
僧堂北には衆寮が建ち、三門の南方東西には浴室と西浄が配される。
一般に他の禅宗寺院でも伽藍の方位は南面を原則としている。

                           門


                北条政子・源実朝の墓は、本堂の裏のやぐら


                          本堂


                 墓石が並ぶ奥源氏山斜面にやぐらが


                        北条政子の墓


                          やぐら


                          やぐら


                         源実朝の墓


                         古い石塔


                東慶寺に並んで「八坂大神」(創建・建久3年)           


                           神木


                           社殿


                       商店街の「小町通り」


江ノ電で稲村ヶ崎へ。

「真言律宗」
奈良市の西大寺は、鎌倉時代に「叡尊」によって再興され、南都七大寺の寺格をもち奈良仏教の伝統を受継ぎ、一方で鎌倉時代に「叡尊」が興起した
密教と戒律の融合一致を説く新たな教旨をその法統としている。
鎌倉仏教の寺院ということができ、その法統は、後世「真言律宗」と呼称され、西大寺はその総本山。
「叡尊」が各地に新建・修造・寄附した数千の寺院がその末寺となって、西大寺を頂点とする「真言律宗」の一大教団が形成される。
その後の歴史推移の中で、当初の教団規模は縮小を余儀なくされましたが、
現代でも北は福島県いわき市から南は熊本県玉名市にいたるまで90数ヶ寺の末寺を擁する宗団として存続し、奈良市内・近郊の「般若寺、元興寺、
福智院、不空院、白毫寺、海龍王寺、不退寺、浄瑠璃寺・岩船寺、宝山寺、長弓寺」等々の由緒ある名刹も、西大寺の末寺であり真言律宗一門の寺院。
その教旨「叡尊上人」の「真言律」の法燈においては奈良の地に隠然たる地脈を築いているという。

「叡尊」 1201ー90  鎌倉時代中期の真言律宗の僧。
謚号ー「興正菩薩」興福寺の学僧で「慶玄」の子。
大和国添上郡箕田里(現・奈良県大和郡山市)の生まれ。廃れかけていた戒律を復興し、衰退していた奈良西大寺を再興した僧として知られる。

                        江ノ電 極楽寺駅


「極楽寺」  真言律宗の寺、山号 霊鷲山

                    開山 忍性     1259年創建


「北条 重時」 1198-1261 鎌倉時代前期の北条氏の一門・武将・政治家、極楽寺 重時とも呼ばれた。
鎌倉幕府2代執権・北条義時の3男で、母は、正室で比企朝宗の娘・姫の前。北条時政の孫。尼将軍・尼御前と呼ばれた北条政子の甥。
極楽寺流の祖、「六波羅探題」北方・鎌倉幕府連署など幕府の要職を歴任し、第3代執権の異母兄・北条泰時から娘婿の第5代執権・北条時頼を補佐して幕政を主導しながら鎌倉幕府政治の安定に大きく寄与した。
「六波羅殿御家訓・極楽寺殿御消息」等の家訓の作者でも知られる。駿河守・相模守・陸奥守・・。

                   本殿       開基 北条重時


                   七堂伽藍と十三層塔・四季の花の寺で知られている。


                      重文 木造釈迦如来立像・坐像


                             地蔵堂


                             極楽洞


「江ノ電」
日清戦争の勝利により日本経済は隆盛を極めていた。
明治の中期、鉄道事業者の成功を目の当たりに見た多くの資本家たちが鉄道の建設を計画し、湘南地区に通じる鉄道の計画も10路線を超えていたと云う。
間と湘南は、古くから庶民の招福祈願と大山参りの精進落しの場として定着していた「江の島」。
風光明媚な湘南地区の、史跡と観光価値・・で、これら計画された鉄道の中で、唯一開業にこぎ着けたのが、「江之島電気鉄道が建設と江ノ電」
神奈川県会議員の要職にあった「福井直吉」ほか4名の有志が発起した鉄道会社。
明治31年、鉄道敷設特許状を取得後、33年、設立、35年、藤沢~片瀬(現江ノ島)間を開業され、延長鎌倉へ現在に至っている。



        「江ノ電」 鎌倉ー和田塚ー由比ヶ浜ー長谷ー「極楽寺」-稲村ヶ崎ー七里ケ浜・・・・。


「新田氏」ー清和源氏、家紋、大中黒・新田一つ引・本姓は、清和源氏(河内源氏)義国流 ・家祖は新田義重・上野国新田郡新田荘 。
主な根拠地、越前国・越後国・人物、新田義貞・脇屋義助・支流、分家ー山名氏(武家 → 華族)・里見氏(武家)・世良田氏(武家)など。
上野国発祥の豪族、清和源氏の一流河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源義家の三男義国の長男新田義重を祖とする。
義国流足利氏と同族である。
上野国(群馬県)を本貫とした。

「義国と義重」は、渡良瀬川対岸の浅間山噴火で荒廃していた上野国新田郡(群馬県太田市)を開発。
1157年、平家方の藤原忠雅に開発地を寄進し、新田荘が立荘され、本家は鳥羽院御願寺の金剛心院、領家は藤原氏北家花山院流となる。
荘官ー任ぜられた義重は新田氏を称し、新田荘と八幡荘を中心に息子たちを配して支配体制を確立するとともに、東山道・利根川という水陸交通路や凝灰岩石材の産地であった天神山一帯を掌握して経済的な基盤を固める。

                       市指定 十一人塚


義重は、源頼朝から参陣の遅さを叱責・その後の平家との合戦や奥州合戦にも義重が参陣したとの記録がなく、1221年の「承久の乱」においても惣領は参陣せず、代官として庶家の世良田氏が参陣している。そればかりか、義平の未亡人となっていた義重の娘祥寿姫を頼朝が側室にしようとしたところ、
義重がそれを拒否したため頼朝から勘気を蒙ったと伝えられている
(吾妻鏡)ーこれらの経緯により、鎌倉に東国政権として成立した鎌倉幕府において、新田氏本宗家の地位は低いものとなった。
新田氏本宗家は頼朝から御門葉と認められず、公式の場での源姓を称することが許されず、官位も比較的低く、受領官に推挙されることもなかった。
早期に頼朝の下に参陣した山名氏と里見氏はそれぞれ独立した御家人とされ、新田氏本宗家の支配から独立して行動するようになる。
その後も新田氏の所領が増えることはなく、世良田氏や岩松氏の創立などの分割相続と所領の沽却により弱体化する。
以後、新田一族は堀口・里見・桃井・大館・一色の5家に分かれている。

                          供養塚 


足利高義の時代に元服した「新田義貞」、「氏」ではなく「義」の字が入っている事がこの事実を裏付けと云う。
後に、新田義貞が討幕の兵を挙げた時の事を
「源義貞ト云者アリ。高氏ガ一族也」(神皇正統記)・「尊氏の末の一族新田小四郎義貞といふ物」(増鏡)と記しているのは、実は婚姻関係と烏帽子親を通じた擬制的親子関係の結果、足利氏庶流と化していた新田氏本宗家の実態を的確に表した。

鎌倉時代後期には、新田義貞が後醍醐天皇の倒幕運動に従い挙兵、源義国流の同族にして北条氏と重代の姻戚の最有力御家人足利高氏(後の尊氏)の嫡男千寿王(後の足利義詮)を加えて鎌倉を攻め、幕府を滅亡させる。
当初、鎌倉幕府の冷遇によって建武政権での新田氏本宗家の権威は同族である足利氏惣領よりも格下に見られていたが、後に政権内部の政争により、
義貞は長年の足利氏との関係を断ち切って反足利氏派・反武家派の首班として尊氏と対立した。
新田一族中でも義貞とともに上京した者と鎌倉や新田荘に残った者にわかれ、前者は主に義貞に従い、後者や山名時氏や岩松氏・大舘氏・里見氏・世良田氏・大島氏などは主として足利氏に従い北朝方となった。
以後、新田氏一族は南朝方の中核を担うが楠木正成とともに戦った「湊川の戦い」で敗戦。
比叡山での戦いの後、長男の新田義顕と共に後醍醐天皇の皇子・恒良親王を奉じて北国に拠点を移した。
しかし越前国金ヶ崎城で足利方の「斯波高経・高師泰」らに敗れ、義顕は自決し、義貞自身も同国藤島で戦死する。

          1333年「極楽寺切通し」で新田軍の兵士の人骨が多数出土、


「稲村ケ崎海岸」
新田貞義が鎌倉攻略の為、ここ稲村ケ崎で兵を進めることが出来なかった。
そこで、義貞が「潮を万里の外に退け給え」と竜神に祈って太刀を海中に投げ入れると。海は、干潟となって、幕府軍を攻略できた。
それも空しく、貞義の子「義顕・義興」も南朝方に尽くしたが、悲劇てな最期を遂げている。

                         稲村ケ崎


                      正面に江の島が


                  新田貞義が竜神にいのった稲村ヶ崎


         鎌倉由比ヶ浜ー江の島七里ケ浜の間、江ノ電もここから海岸線に入る。


江ノ電は、ここから源義経ゆかりの寺・江の島・藤沢駅へ。
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