Quantcast
Channel: syuの日記・気まま旅
Viewing all 683 articles
Browse latest View live

千葉駅の改装中と 古代からの蓮池

$
0
0

1800年伊能忠敬、蝦夷地測量に出発・1873年千葉県成立・東京―成田間往復乗合馬車開通・利根川、江戸川運河開通・本所(両国)~佐倉間鉄道開通
1921年千葉市政施行・1949年国立千葉大学開学・1953年川崎製鉄溶鉱炉火入れ・・・・。
江戸時代なかばで100万都市近世末で140万人に膨らみ、千葉県は、江戸への生活物資・労働力の供給地で、特に台所の性格を持つ、「醤油」・佐原の
「酒」・流山の「味醂」など利根川水運を交通路として利用することで発達した。
農水産では、全国的にも高いネギ・トマト・カブ・サトイモは、全国一位の生産高、東京市場でも野菜類は、千葉県が上位を独占している。
過疎地域でも、徐々に変わりつつあるが、まだ伝統的農村社会の生活習慣が残っていと云う。
鉄道も、JR総武本線・京葉線海浜幕張・千葉みらい・内房線・外房線・私鉄京成・千葉都市モノレール線と伸び続けている。
道路も、湾岸・京葉・館山・東金と結ばれつつある。
工業開発も川崎製鉄・東京電力千葉火力発電・重化学工業・・国際ビジネス都市に。それに伴い稲毛団地はじめ人口が年々増加傾向、東京ベットタウン
また、人口海浜・緑に囲まれた自然公園が市民の憩いの場として誕生している。

                     新装になった。JR東日本「千葉駅構内」


すべて、中央口に直結「コンコース」は、
大きく3つのエリアに分かれており、生鮮三品・お弁当やお惣菜のエリア「新千葉Local eats」、和洋菓子、グローサリーや雑貨のエリア「アーバンDining Style」、コンコースに面した路面ゾーン「チバラーStand」となっていると云う。
生活の生鮮三品・お弁当やお惣菜のエリアは通勤・通学時の利用を意識、忙しい世代も短い時間で食事ができるようなサポート機能を強化。
「千産千消」とともに、「時短」もテーマとし、カット野菜やフルーツ、鍋のセットなど、電子レンジで温めればすぐに味わえるメニューが揃っている。
和洋菓子、グローサリーや雑貨のエリアでは、千葉県の洋菓子が味わえ、ここならではのデザインのお土産なども手に入る。
コンコースに面した路面ゾーンはコンビニエンスストアやドラッグストアをはじめとする機能型商品構成とショップ、付加価値型のデイリーニーズに応えるベーカリーなどのショップの2構成となっている。なお、今回は3階のみで、4階は2017年オープンし、駅ビルがオープン。
2018年夏以降にグランドオープン予定と段階的な開発となると云う。

JR千葉駅の中央改札を入るとすぐに「ペリエ千葉エキナカ」が広がり、吹き抜けがあり、天井4m、最大幅15mの開放的な空間に。


                千葉都市モノレールに直結通路に




                 エスカレーターでホームへ


                   千葉駅モノレールホーム


                    モノレール各駅名


               ワンマンモノレール「千城台」行で「千葉公園」へ


「千葉公園」
公園の辺りは、江戸の昔、佐倉・堀田藩領(千葉寺・寒川村)と旗本・中山勘解由の領地(作草部村)との入会地(共同作業地)に。
その頃は、アシなどが生えた沼地同然のところだったと云う。
明治41年、旧陸軍は、ここに鉄道連隊を設け、その後、大正7年、津田沼に鉄道第二連隊ができると共に、名称も鉄道第一連隊と変わり、鉄道第一連隊の兵士たちは、この辺一帯の演習作業場で、鉄道の保守、新設、修理をはじめ、敵地での鉄道の破壊訓練も行っている。
現在でもそのなごりが公園事務所脇のコンクリートのトンネルや綿打池脇のそばに橋脚として残っていると云う。
終戦後の混乱期には、園内にある樹木のほとんどは切り倒されて燃料になってしまったり、敷地の一部は食糧難を補うための菜園にまでされたという。
その後、市民の憩いの場、県都にふさわしい公園とするため、戦災復興都市計画事業の一環として昭和24年、公園整備にとりかかり、順次、施設を整えてきた結果、今日のような市内でもっとも身近な公園に。

                        公園マップ






「蓮華亭」 市の花である「オオガハス」がより多くの市民に親しまれるよう建てられたオオガハスの展示資料館。

平成5年、「オオガハス」は、千葉市の花に選ばれた。大賀ハスは、6~7月上旬




                     蓮池の広さは、約900㎡












「栄町・繁華街」
その名が示す通り、千葉市の栄町は、市内有数の繁華街。
1950年代後半まで国鉄千葉駅と京成千葉駅に近い位置に。
栄町通り(現在はハミングロード パルサ)一帯は両駅を結ぶ通りとして繁盛していたが、今は、昔の面影は消えていた。
1958年に京成千葉駅、1963年にJR千葉駅がそれぞれ移転する。この地で営業していた飲食店も移動したのか。







「千葉神社」所在地ー市中央区。主祭神ー天之御中主大神・経津主命・日本武尊。県社。創建ー1000年の長保2年。別名、北斗山 金剛授寺 尊光院
例祭ー8月16日から1週間 妙見大祭。主な神事ーお酉さま(毎年11月酉の日。

千葉氏の守護神「妙見菩薩」を本尊とする寺院(千葉妙見宮)として建立。
千葉氏の祖平忠常の子覚算大僧正によって伽藍が整備されたと伝えられる。以降千葉宗家のみならず千葉氏一族の信仰が篤く、千葉氏宗家の元服は代々この寺で行われた。また、千葉常胤の案内で同寺を参拝した事で知られる源頼朝からも手厚く保護されていた。

千葉妙見宮には本来、妙見菩薩とともに1181年、千葉常胤によって鶴岡八幡宮から勧請された八幡神が祀られていた。
当初は八幡神が弓箭神とし、妙見菩薩は、鎮守・産土神・農耕神的な役割を担っていたが、千葉氏の一族が多数連座した宝治合戦で一族が動揺した時期(13世紀中期)に一族の団結を維持するために従来の八幡神に代えて、千葉氏を含めた房総平氏において独自の篤い信仰を受けていた妙見菩薩に弓箭神の要素を加えて、千葉氏が妙見菩薩を庇護された存在であることを強調する「妙見説話」が形成された。
その集大成が、源平闘諍録。後世に千葉妙見宮(千葉神社)を描いた縁起絵巻にも反映されていると云う。
(現在も末社の1つに八幡神社があるのはその名残である)
1591年、徳川家康が関東に入部し、この寺を参詣して寺領安堵ならびに太刀一振を寄進したとされ、同時に朱印地200石と十万石の格式が与えられたある。江戸時代には、北斗山金剛授寺尊光院と称する真言宗の寺院であったが、明治初年の神仏分離によって神社となり、本尊も祭神に改められた。



                          狛犬




                          社殿




「千葉氏の妙見信仰」
千葉氏の先祖「平良文」が上野国染谷川で平国香と戦った際に、群馬県の七星山息災寺に祀られている「羊妙見菩薩」の加護を受けて勝利を得たとされる言い伝えから「妙見」を信仰された。千葉氏が移住すると「羊妙見」をここに祀った。それが民衆からも信仰されていく。
妙見は、アジア遊牧民に信仰され中国に伝わり道教・仏教と交じり我が国に伝わってきた。(北極星や北斗七星を神としたもの)





次回は、JR京葉線「千葉みらい」駅・東京湾千葉港へ。

千葉みなとへ空中モノレールとみなと散策

$
0
0
「JR京葉線」
東京ー八丁堀ー越中島ー潮見ー新木場ー葛西臨海公園ー舞浜ー新浦安ー市川塩浜ー二俣新町ー南船橋ー新習志野ー海浜幕張ー検見川浜ー稲毛海岸
ー千葉港・千葉みなとー蘇我。

新都市ヘリボート・幕張メッセ・幕張海浜公園・花見川・検見川の浜、ヨットハーバー・稲毛の浜・わんぱくランド・千葉湾・千葉ボートパーク
川崎製鉄・蘇我駅・東京電力。
                モノレールで千葉駅から千葉みなとへ空中散歩


                      緑多い千葉市


                     JR千葉みなと駅ホーム


            駅前 JR千葉みなと駅とモノレール千葉みなと駅が並行している。


                      駅付近のマップ


                        千葉港


「観光船」
中央ふ頭コンテナターミナル・成田国際空港ジェット燃料送油基地・コンビナート・JFE東日本製鉄所などを船上から眺める船旅「約40分」
幕張メッセ沖合遊覧と港めぐりのコースがある。





                     正面が「ポートタワー」地上113m


「県美術館」
                      駅から南約600m


              講演会・浅井忠(農婦)、東山魁夷(秋深)など収録。












「千葉ポートタワー」
                   展望塔(有料)「恋人の聖地」デートコースが


                     1986年昭和61年完成


                         幕張方面


                         県庁方面


                     「日本夜景遺産」認定


                           港


千葉市内は、終わります。

市原市 八幡宿「飯香岡八幡宮」の歴史と夫婦銀杏 

$
0
0
「JR内房線」
千葉駅 - 君津駅間は複線区間となっており、列車の本数も比較的多く東京方面からの快速列車も乗り入れている。
一方で君津駅以南は、未だ、単線区間で、列車本数は少なくなる。

蘇我駅・浜野駅・「八幡宿駅」・「五井駅、小湊鉄道」・姉ケ崎駅・長浦駅・袖ケ浦駅・巌根駅・木更津駅・・・・安房鴨川(30駅)。

「八幡宿」ー市原市八幡ー
江戸時代は、海と陸の交通要衝として発展した宿場町、市内の内陸部や房総海岸から運ばれてくる年貢米の中継基地で、八幡海岸から「五大力船」と呼ばれた中型帆船が海路9里 (およそ36km) 年貢米を江戸。
浜本地区は、五大力船の船問屋の拠点で年貢米を納める蔵が立ち並び、南北に走る旧房総往還は、参勤交代路で、休泊のための本陣や問屋場が置かれた。
久留里黒田藩など7大名が伴揃いを整えて通行し、 幕府の街道保護政策で八幡から海路による直接の江戸入りが認められなかった一般の旅人たちも
ここから徒歩で江戸をめざした。
明治維新後は、船持ちや船乗りたちを除く一般の人たちはわずかばかりの田んぼで農業のかたわら、のりや貝を拾って生活であったと云う。
昭和戦前から戦後30年代にかけての八幡は、観光地で、遠浅の海岸は海水浴場、潮干狩りで賑わったと云う。

                      JR内房線の一部マップ


千葉街道から国道357号線で埠頭には、三井造船・昭和電工・古河電工・石油コンビナート・養老川公園等が、高速では京葉道路から館山道路が横断している。
                 かっては砂洲上、1957年埋め立て 京葉工業地域


                国道14号・357号・16号線と幹線道路が海寄りに。


「飯香岡八幡宮」 主祭神ー誉田別尊・息長帯姫尊・玉依姫尊他、県社の上総国総社。創建ー伝・白鳳年間(675年)。

               江戸時代大久保氏の陣屋が置かれた。 海陸路の宿場


飯香岡八幡宮として鎮座する以前は、「六所御影神社」と称したといわれ、一国一社の八幡宮として勧請されたことに起源をもつと云う。
天平宝字3年の759年、全国放生の地に鎮座する国府八幡宮と定められ、国府司祭の放生会を現在に伝える上総の国の古社の一つ。
中世以降上総総社としての機能を持ち、その名残から、国府総社と尊称されている。
1158年、山城国の石清水八幡宮「諸国荘園官符」・「上総国市原別宮」と記載され、石清水八幡宮別宮の市原八幡宮として中世以降、源氏・千葉氏・足利氏・徳川氏の崇敬を集めた。
徳川家康により、所領150石を安堵され、10万石の格式を与えられ明治に到る。



                 秋の大祭柳盾神事は県重要無形民俗文化財


「武運・海上守護神」特に武士の信仰が厚かったと云う。
879年、 朝廷により社殿が造営される。940年、 社殿を造営。1008年、 鎮守府将軍源頼光により社殿が造営される。1064年、 鎮守府将軍源頼義が造営料として米1000石寄進する。1065年、 源頼義の寄進により、社殿を造営する。1091年、 源義家が鉄製矢筒一箇と矢鏃二本を寄進する。
保元3年の1158年、10月 - 石清水八幡宮諸国荘園官符中に「上総国市原別宮」の記事あり。
1171年、 千葉常胤、武運長久・家門繁栄を祈願し、社殿の修理を行う。1180年、「源頼朝」太刀一振りを奉納する。・・・・。







「夫婦銀杏」重要文化財に指定。
飯香岡八幡宮本殿の右側にある。地上約2.8mのところから大きく二又に幹が分かれ、相対しているところから夫婦銀杏の名が付けられたものと思われる。木の高さは約16m、幹周りは約7.6m。
社伝によれば、天武天皇・八幡宮を勧請した際に勅使桜町中納言卿によって植えられた記念樹と伝えられているが、社伝には矛盾がある記載もあるので、それをもって樹齢を確定することはできないと云う。
社殿左側には、「源頼朝」が逆に植え根付いたとされ、「倒いちょう」といわれているイチョウがある。
この伝説の真偽はともかく、それほどイチョウの生命力は強い。現在、太い幹が折れている夫婦銀杏である。





















                  飯香岡神社と道路を挟んで「白山神社」がある。


                            社殿

五井 小湊鉄道と全国2位規模の「上総国分寺跡」

$
0
0
小湊鉄道は、戦前陸軍の鉄道であった。
1990年代後半からの10年間で乗客が急減、2000年代では、多少減少幅が緩やかになったがやはり乗客減少傾向であった。
合理化により、2000年以降では、2002年に里見駅、2005年に上総山田駅が無人駅・2004年時点では自動券売機が設置されている駅はなかったが、
曜日・時間を限って営業をしていた上総村上駅・海士有木駅・上総三又駅・馬立駅の各駅が2013年に無人化された際に自動券売機が置かれ、2002年に一度無人駅となった里見駅は、交換設備の使用再開に伴って再び駅員が配置され有人駅に、駅係員の合理化が進む一方で車掌は全列車に乗務しており、無人駅では各駅ごとに検札・集札を行い、無人駅から乗車券を持たずに乗車した旅客には車内で切符を発売、国土交通省関東運輸局の2005年(平成17年)
ワンマン運転を実施された。最近テレビなどに登場し人気鉄道に。
養老渓谷駅 - 上総中野駅間の板谷隧道(トンネル)は千葉県内の鉄道の最高地点になっていると云う。
「千葉県市原市五井町」県西部・市の北西ー養老川河口デルタ地帯に位置している。
昭和63年ー市原・五井・姉ヶ崎・市津など編入し「市原市」に。大部分が上総丘陵と北部に養老川で、台地中央に、縄文・弥生時代の遺跡が多い。
北部の海岸は海岸低地と埋め立てー2148HA-京葉工業地域に。
この地は、文化改新後「上総国」の中心地で、国衙が置かれ、奈良時代は、惣社上総国分寺が建立されている。
鎌倉時代は、三浦半島と房総半島を結ぶ交通の要地として栄えている。江戸時代になると、幕府直轄地・旗本知行地が錯綜し、180余の村々に細分されいたと云う。戦後、半農半漁でノリと貝を採集から埋め立てられ現在は、東京湾岸工業地域形成中心地に変貌している。
丘陵部にはゴルフ場が20か所を超す全国一と云われている。







「上総国分寺跡」
JR蘇我駅から小湊鉄道「上村村上駅」東に1KM-惣社台地にある。
国分寺ー清浄院国分寺ー真言宗の寺。





奈良時代後期創建とされる国分寺の伽藍跡



                寺域約13万M2(武蔵野に次ぐ全国2番目の規模。


            国分寺北東、「祇園原」にー上総国分寺尼寺跡と博物館がある。


















次回は、千葉県市川方面へ。

戦後文豪達が住んでいた本八幡、市川真間

$
0
0

「下総国分寺跡」    市川市国分にある。
天平13年の741年、聖武天皇によって発せられた「国分寺建立の詔」により、「金光明四天王護国之寺」として建立。
下総国分寺跡は、その詔によって建立された下総国分僧寺の跡で、奈良県の法隆寺と同じ配置(法隆寺式伽藍配置)で、
「金堂・塔・講堂・・が建てられた。
昭和40年~41年に、実施された発掘調査では、東西31.5m・南北19mの何層にも土を固めた金堂の基壇が発見されている。
その基壇の中心から北西40mにあたる墓地内に、東西26m・南北18mの講堂の基壇があり、さらに金堂の基壇の中心から西へ39mのところに、
18m四方の方形の塔跡の基壇が判っている。
平成元年から5年の発掘調査、寺の範囲が東西300m、南北350mほどになることや、寺づくりや下働きをしていた人がいた場所などが。
国分寺の屋根瓦を焼いた登窯の跡も、この近くから発見。
瓦にある文様は、当時瓦の文様に多く用いられていた蓮華文ではなく、「宝相華文」と呼ばれるもの。
「宝相華文は中国で考えられた当時の流行文様で、唐草の文様が花のように見えるところからこの名がついている。」

                         JR本八幡


「源頼朝」 1147-99 武家政治の創始者・鎌倉幕府初代将軍(母熱田大宮司藤原季範の娘・源義朝嫡男)
伊豆・蛭ヶ小島に流されていた源頼朝は、
治承4年の1180年、に挙兵したが、その8月「相州石橋山の合戦」で平家との戦いに敗れ、同国土肥郷真名鶴岬(現真鶴岬)から小船で安房国へ逃れた。安房国へ逃れた時に頼朝が上陸した地点については、
伝承をもとに数か所の地名があげられ、安房郡鋸南町竜島と館山市洲崎は、その代表的な地点として有力視されてきたが、
「大森金五郎文学博士」の研究により、「吾妻鏡」の「武衛相具実平、棹扁舟令着于安房国平北郡猟島給」(頼朝、土肥実平を相具して、扁舟棹さして、安房国猟ヶ島に着かしめ給う)という記載などから、現在の竜島付近が上陸地点として認定されたとある。
安房国に着いた頼朝は、
千葉氏・上総介広常、など房総の武将の加勢を得て、安房・上総・下総と順次支配下にした。房総で勢力を蓄え態勢を整えた頼朝は、源氏再興を目指し再び平氏討伐にのりだす。
頼朝は、やがて平氏を倒し鎌倉に幕府を開設して征夷大将軍となった。千葉県では、かなりの働きをしている。

                       本八幡駅周辺マップ


「市川市」 千葉県北西・江戸川を隔てて東京都江戸川区と接している市、地名は、「市」が開かれていた所からと云う。
昭和9年、市川・八幡・中山と下総国分村が合併、その後、行徳・大柏・等が編入して都市化が進んでいった。
北部は「下総台地」・低地は埋め立てと京葉工業地域に、下総台地には古代の遺跡が多い「曽谷貝塚・姥山貝塚(集落遺跡)」、大化の改新の国府台
国府が置かれている。下総地方の政治・文化の中心となっていた。競馬場のある中山は、「日蓮宗五大の一つ、法華寺」で、その門前町であった。
忘れてはならないのが軍の下士官養成機関である教導団があった。そのため桜並木が今でも名所・その跡地に大学が移転している。

                      私鉄京成八幡、踏切から


「葛飾八幡宮」 JR本八幡駅北約500m。

祭神ー息長帯姫命・誉田別命・玉依姫命   創建ー9世紀末・宇多天皇の勅願。

                京都の石清水八幡宮を勧請して建立、大鳥居と参道


武神として「源頼朝・徳川家康・大田道灌」などが崇敬を集めた。

                            楼門


                      中央に神社が描かれている。


                  市川梨の育ての親「川上善六」の記念碑がある。




                            中門


                            社殿


                       千本公孫樹・銀杏(国指定記念物)


                      説明板 一樹(国指定記念物)


                         源頼朝駒どめ石


                           大樹


「真間」
1914年の大正3年、京成電気軌道(京成電鉄)が開通し、宅地化が進み、沿線沿いに高級住宅街が開発された。
国府台里見公園に「北原白秋・旧宅 紫煙草舎」常備展示されている。
大戦中被災者が移転し、その中に、「永井荷風・幸田露伴・井上ひさし・画家の東山魁夷等が移住した。

                        真間文学の道


             「幸田露伴・文」小説家、随筆家 市川の地名は作品にも


                     市川、真間は、東文化の中心


                      万葉集歌枕の地


                     真間の継橋が島と島に


                室町時代の連歌師藤原実長も継橋を詠んでいる。


今の鉄道は、京成本線、真間・八幡駅・北総開発鉄道北国分駅・都営地下鉄新宿線八幡駅・地下鉄東西線行徳駅・JR武蔵野線市川大野
京葉線市川塩浜駅・二俣新町駅・総武本線市川・本八幡。
道路では、京葉道路市川IC・湾岸線市川IC・国道14号線と都心を結んでいる。

                        永井荷風




                         北原白秋


「真間川」
県西部で江戸川から分かれ、東京湾に注ぐ、利根川水系の一級河川。
全長8.5km・流域面積65.6km2、流域市街化率約65%の、典型的な都市河川である。
「万葉集」にも詠われた「真間の手児奈伝説」に登場する「真間の入り江」の跡とされている。

市川市市川四丁目で、江戸川左岸の堤防に作られた水門から分派する。
東に流れ国分川を合わせ、徐々に南東に向きをかえ大柏川を合わせ、南南東や南南西に緩く向きをかえつつ南に流れ、市川市の原木で東京湾に注ぐ。
途中、船橋市が市川市の方向に突き出た所を通り過ぎるが、流路の大半は市川市内。
大柏川・国分川を合流し、江戸川に注いでいたが、海沿いの砂州を横切って直接東京湾に注ぐ放水路が掘削され、流れの方向が逆になったと云う。

    真間川の東京湾に至る放水路は、かつて境川と呼ばれ、川べりの土手には桜並木が植えられ、花見の名所に。


                          江戸川へ


次回も、国府台。

身投げした真間の手児奈 万葉集

$
0
0

「万葉集」  
7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集。
天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を「4500首以上」も集めたもので、成立は、759年の天平宝字3年以後とみられる。
日本文学における第一級の史料、方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な史料とも云う。歌を作った時期により4期に分け、

第1期は、舒明天皇即位(629年)から壬申の乱(672年)までで、皇室の行事や出来事に密着した歌が多い。
代表的な歌人としては額田王がよく知られている。
ほかに舒明天皇・天智天皇・有間皇子・鏡王女・藤原鎌足らの歌もある。

第2期は、遷都(710年)までで、代表は、柿本人麻呂・高市黒人・長意貴麻呂である。
他には天武天皇・持統天皇・大津皇子・大伯皇女・志貴皇子などである。

第3期は、733年(天平5)までで、個性的な歌が生み出された時期である。
代表的歌人は、自然の風景を描き出すような叙景歌に優れた山部赤人・風流で叙情にあふれる長歌を詠んだ大伴旅人、人生の苦悩と下層階級への暖かいまなざしをそそいだ山上憶良、伝説のなかに本来の姿を見出す高橋虫麻呂、女性の哀感を歌にした坂上郎女などである。

第4期は、759年(天平宝字3)までで、代表歌人は大伴家持・笠郎女・大伴坂上郎女・橘諸兄・中臣宅守・狭野弟上娘子・湯原王などである。

歌の作者層を見てみると、皇族や貴族から中・下級官人などに波及していき、作者不明の歌は畿内の下級官人や庶民の歌と見られ、また東歌や防人歌などに見られるように庶民にまで広がっていったことが分かる。
さらに、地域的には、宮廷周辺から京や畿内、東国というふうに範囲が時代と共に拡大されていったと考えられると云う。

                         真間稲荷神社

京都の伏見稲荷大社を総本宮とする稲荷神社は、全国でもっとも多い神社で32000社あると
言われています。稲荷神は五穀豊穣(穀物が豊かに実る)を守護神としますが、今では産業
全般の神として工場の敷地内などにも祀られているようです。真間稲荷神社の祭神は豊受姫
命(トヨウケヒメノミコト)で、天照大神の食事の世話をしたと伝えられ、食物や穀物を司
る女神です。伊勢神宮外宮の豊受大神宮に、祀られていることでも知られています。神像は、
老農夫が鍬をかついでいる御姿です。

真間稲荷神社の例祭は4月8日の五穀豊穣祈願祭、10月8~9日の秋の実りに感謝するお祭り
があります。秋のお祭りには、大御輿・女御輿・子供御輿などが町内を盛大にねり歩きます。
皆さんもご一緒に威勢よく「ワッショイ、ワッショイ」しませんか?

       “真間”は崖のような斜面を表す言葉ですが、今から6000年前の縄文時代の海面は現在より8m前後高く、
        このあたりは海になっており北側の真間山とは崖で接していたことでしょう。

                       祭神ー豊受姫




「真間の手児奈」
手児奈・てこなは、万葉集に歌われた美女で、多くの男性に慕われつつも、だれに寄り添うこともなく、真間の入り江に身を投げたと伝えられる伝説のヒロイン。「葛飾(勝鹿)の真間」と詠まれたように、東国一帯に広く知られただけでなく、市川にあった下総国府を訪れた都びとにも慕われた存在。
手児奈は、日本最古の歌集である万葉集に詠まれ、市川の文化芸術のシンボルと云う。




手児奈は舒明天皇の時代の国造の娘で、近隣の国へ嫁いだが、勝鹿の国府と嫁ぎ先の国との間に争いが起こった為に逆恨みされ、苦難の末、再び真間へ戻った。しかし、嫁ぎ先より帰った運命を恥じて実家に戻れぬままとなり、我が子を育てつつ静かに暮らした。だが、男達は手児奈を巡り再び争いを起こし、これを厭って真間の入り江に入水したと伝えられている。古くから語られていた伝説が、この地に国府がおかれた後、都にも伝播し、万葉集の歌人たち(山部赤人・高橋虫麻呂)の想像力をかきたてたとされている。

737年に行基がその故事を聞き、手児奈の霊を慰めるために弘法寺を開いた。現在は手児奈霊神堂に祀られている。また、亀井院には手児奈が水汲みをしていたとされる井戸が現存している。


今から1300年ほど前、真間の井(亀井院)に水を汲みに行く一人の女性がいた。名前は手児奈。身なりはそまつだったが、とても美しいと評された。多くの男性から結婚を求められたが、「私の心はいくつでも分けることはできます。でも、私の体は一つしかありません。もし、私が誰かのお嫁さんになれば、ほかの人を不幸にしてしまいます。」となやみ、海に行く(当時は真間山の下は海だった)。そのころ、日没になろうとしていた。「そうだ、あの太陽のように。」と思って海に身投げしてしまった。これを悲しんだ人たちは、手児奈霊神堂を建てて祀った。

文化財

葛飾の 真間の井見れば 立ち平し 水汲ましけむ(ん) 手児奈し思ほゆ(おもうゆ)

{訳}葛飾の真間の井を見れば、水を汲む手児奈を思い出す

山部赤人「吾も見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児奈が奥津城処」堂正面。

                      「手児奈霊堂」




                       真間の継橋


万葉の時代、この地域にはたくさんの州があり、その州から州へのかけ橋が「継橋」だったと考えられている。
継橋は後世多くの歌人の題材に。
                     弘法寺参道前にある。


「弘法寺」
奈良時代の737年、「行基菩薩」がこの地に立ち寄られた折に里の娘が身を投げた哀話を知り、その霊を弔うためにこの地に「求法寺」を建立。
平安時代の822年、「弘法大師空海」が布教のためにお出でになり、七堂伽藍を再建されて「弘法寺」と改称。
鎌倉時代、 関東天台の了性法印信尊と日蓮大聖人の弟子富木常忍公との間に「真間問答」がおこり、富木常忍公が法論において勝利をおさめ、これを機に日蓮宗の法華経道場として発展した。(人間道場の由来)
1323年(鎌倉時代)、地元の有力武将千葉胤貞公より寺領地の寄進を受ける。1591年(江戸時代) 徳川家康公より御朱印状を賜る。
1888年(明治時代) 大火災により全山灰燼に帰したと云う。
2010年、記念行事として新祖師堂建設されている。



亀井院、弘法寺には、1916年、「北原白秋」が住んだ。 「葛飾の真間の継橋夏近し二人わたれれりその継橋を」などの歌を残している。





                          仁王門






                         弘法寺の伏姫桜


「下総国・葛飾郡」
古代に、渡良瀬川の下流「太日川(おおいがわ又はふといがわ・太日河」の流域の両岸をカバーする地域が「葛飾郡」と定められた。
中世以前の常陸川と利根川の下流とに東西を挟まれ、南限は東京湾で、南北に細長かった。
渡良瀬川はその後の利根川東遷事業によって、江戸川(古くは、太日川(おおいがわ又はふといがわ・太日河))となったので、現在の江戸川(及びその後に成立した中川)のほぼ流域に当たる。
現在の行政区域では、北は渡良瀬川と利根川の合流地点である茨城県古河市、江戸川の西の流域である埼玉県幸手市・吉川市・三郷市、東京都葛飾区・墨田区・江東区・江戸川区、千葉県浦安市、江戸川の東の流域である千葉県野田市・流山市・柏市・松戸市・市川市・船橋市にまたがる広大な郡であった。
葛飾郡総社は、船橋市の「葛飾神社」。
明治11年、郡区町村編制法の制定により、同年に一部が東葛飾郡・西葛飾郡・南葛飾郡に、
翌12年に、残部が北葛飾郡・中葛飾郡となり消滅している。



                          葛飾早稲で知られている。


次回も、江戸川方面へ。

哲学の江戸川 江戸時代から今に伝わる土木工事 

$
0
0

「江戸川」
徳川家康が江戸に入府する前には渡良瀬川の下流の「太井川」と呼ばれる川で、入府後、江戸に流れる当時の利根川を太井川に流れるようにつけかえる
治水工事が行われ、太井川は利根川と呼ばれるようになり、さらにその後の治水工事で利根川が銚子の方を流れるようになり、利根川の支流となって江戸川とよばれるようになった。
今上落を介しての水田へ水の供給、そして水運に利用され、流山橋の少し上流の川の中に旧流山橋の橋脚基礎を見ることができる。
旧流山橋ができる以前は松戸と金町を結ぶ「矢切の渡し」と同様な「丹後の渡し」といわれる渡し船が運行されていた。
川の水位が低くなると昔の船着き場の杭と思われるものが顔をのぞかせ、江戸川による水害を防ぐために現在の江戸川の堤防が建設され、流山広小路の
今上落沿いにあった水運によってできあがった街並みは大きくかわったと云う。
現在の南流山も区画整備事業が行われる前は新川耕地と同様に一面、水田地帯に。

                兵舎の跡地の「千葉商科大学」が。桜並木が見事な校庭


陸軍教導団と野砲兵部隊がおかれた国府台・市川市の国府台には、明治時代に大学をつくろうという構想があった。
用地買収など、ある程度具体的な動きになっていたのだが、それは、通勤、通学の便などの理由から中止となったと云う。
国は、その用地に目をつけた陸軍が、当時東京市内に分散していた陸軍教導団(明治期の陸軍下士官養成機関)を国府台に移し、病院を併設した。
1885年の明治18年、のことで、明治18年、歩兵大隊が配備されたのを皮切りに、兵舎などの施設も建設されていった。
教導団病室も真間山弘法寺内に仮設され、同じ年、教導団病院が現在の里見公園内に建設されるが、その教導団病院は現在の国立精神・神経センター
国府台病院である。

明治5年・ 東京教導団兵学寮病室として創設。明治32年、国府台衛戊病院と改称。昭和11年、 国府台陸軍病院が。昭和20年、厚生省に移管して、
国立国府台病院発足。昭和28年、 附属高等看護学院を設置され、 昭和34年に、市川市立伝染病棟を併設。
一時教導団病院のあった「里見公園」
                 千葉商大90周年の旗が        


教導団が廃止になった後、跡地に野砲兵第十六連隊が開設され、この連隊は、1904~1905年(明治37~38年)の日露戦争に出陣し、旅順の要塞攻撃や奉天大会戦に参加して目覚ましい活躍を行ったとある。
1908年の明治41年、野砲兵第十五連隊が国府台に置かれ、大正8年、野砲兵第十四連隊も世田谷から国府台に移された。
野砲兵第二旅団司令部も設けられ、国府台一帯は、まさに「砲兵の街」となったと云う。
砲兵隊の機械化に伴い、野砲兵から野戦重砲兵と改編される部隊が出てくるが、日露戦争時の独立野戦重砲兵連隊が、旅順、奉天会戦に参加後改編され、大正7年、初めて野戦重砲兵第一連隊と称し、大正11年、国府台に駐営するなど、大正期の終わりから昭和にかけて国府台には野戦重砲兵第一・第七連隊、高射砲第二連隊が配備、これだけ、多くの陸軍部隊が配備されながら、実際に残っている遺構はわずかである。
松戸街道から里見公園方面へ向う道路は、通称「裏門通り」と呼ばれ、野砲兵第十六連隊(後に野戦重砲兵第七連隊が同じ場所に入った)の裏門があった。その裏門跡に、わずかに裏門関連の遺構と考えられるレンガ塀の一部が残っていると云う。
旧軍関係の施設、設備の残欠で残っているのは、旧千葉県血清研究所となった武器庫の建物を除けば、それくらいか。
日清、日露両戦役とその後の権益獲得は、日本帝国主義のアジア侵略の大きな布石となったが、その武力発動の一つの基地に、国府台はなっている。
真間山弘法寺には伏姫桜という大きな枝垂れ桜の木があるが、その根元に近い場所に、小さな「国府台砲兵之碑」が建っている。
一方、国府台にあった国府や古墳群、国府台城などの遺跡は、戦後の学校建設や住宅開発などによる影響もあるが、明治期から陸軍が駐留してきて、兵舎などの施設の建設、錬兵場の整備などで、土地が掘り返されたために、かなり破壊されと云う。
特に国府台城の土塁、空堀といった地表面にある遺構は、明治期からの陸軍教導団、野砲兵連隊の駐留、戦時中の高射砲陣地敷設等による改変を受け、江戸期に書かれた絵図と比較しても、原形を留めていない部分が多々ある。
明治期以来、陸軍の下士官養成を行ってきた教導団の廃止とそのあとを受けた陸軍野砲兵連隊の開設、大正8年以降も変遷があったが、昭和20年、の敗戦になるまで、国府台界隈の松戸街道沿いは「軍隊の町」として栄えていたのだ。

                         校舎


昭和2、文学博士「遠藤隆吉」が、金45万余円を出資して財団法人巣鴨学園を創設するとともに、巣鴨高等商業学校設立の認可を申請。昭和3、文部省告示第51・52号をもって巣鴨高等商業学校を東京府下西巣鴨町に設立する。
昭和5、高等学校高等科若しくは大学予科と同等以上と指定される。昭和19年、認可され巣鴨経済専門学校と改称する。
昭和20年、戦災により、校舎及び全施設焼失のため、千葉県津田沼町鷺沼 に位置変更。
昭和21年、市川市国府台、現在地に移転 。昭和25年、商学部商学科を開設。・・・・。単科大学として伸びている。

                          校舎 


                         球技場 

 
                        中央並木通り


                 全国大学対抗簿記大会で団体戦トップ4位独占・5連覇。 


「国府台神社」
下総台地の最西端、江戸川を隔てて都に向かい合うこの地域は、市川市でも古い歴史をもつ。
国府台には法皇塚古墳が現存し、国府台の地名は、下総国府が置かれたところから付けられた。
国府台と並んだ国分の台地には、聖武天皇の国分建立の詔によって国分僧寺と尼寺が建立し、市川市の西部地域は、下総国における政治と文化の中心地。
平安時代の中ごろには、平将門の乱をはじめ、平忠常の乱などによって国守の力が衰退していき、「源頼朝」は、治承4年源氏の再興を願って下総国府に入り千葉常胤、平広常などの援助のもと兵を集めて鎌倉に向かいます。国府台は、源氏再興の出発点となったところ。
戦国時代、太田道灌が国府台に城を築き、その後、この城は里見、北条両氏の古戦場として知られる所「里見公園」。

                      歴史を感じる「国府台神社」




                           拝殿


「江戸川」は、
茨城県五霞町・千葉県野田市で利根川から分かれ、茨城県・千葉県・埼玉県・東京都の境を南下して東京湾に注ぐ、流路延長約60kmの川。
流域面積約200km2の一級河川ー左岸、千葉県市川市、松戸市、流山市、野田市、右岸には、都江戸川区、葛飾区、埼玉県三郷市、吉川市、松伏町、春日部市(旧庄和町)、杉戸町、幸手市、茨城県五霞町をかかえ、首都圏の洪水防御、生活用水の水源の安定的な確保、都市に残された貴重なオープンスペースとしての河川空間など重大な使命を担っている。
現在の江戸川の流れは、利根川水系の河川改修工事に伴い江戸時代初期に誕生したもので、当時から「江戸の運河」として舟運に盛んに利用され、主要な水上交通ルートとして栄えてきた。
                    私は、江戸川を「哲学の川」と呼んでいる。


         なぜが、塩・万葉集・食料・文人・画家・人生・野菊・渡し・関所・鎌倉幕府・・・・・・。










                    途切れることなく江戸川は、東京湾に向かって。


「水神宮」




「胡録神社」
行徳の街の鎮守様である「胡録神社」。行徳は製塩が盛んな地域であったため、天候に恵まれ塩が多くとれたことを神に感謝するため江戸時代より祭礼が盛大に行われていたようだ。今でもその伝統が残り、3年に一度の盛大な祭礼が行われている。雄と雌の獅子頭が町内を練り歩き、樽神輿・大人神輿・子供神輿の渡御も行われるなど、盛大なものだ。





「極楽寺」-真言宗豊山派の寺。
                        神社と隣り合わせている。




これで千葉県は終わります。

富士山 北口浅間神社 石灯籠が続く長い参道 

$
0
0
「伝説」ー葛飾北斎の北斎漫画より、前鬼・後鬼を従えた「役小角」
鬼神を使役できるほどの法力を持っていたという。
左右に前鬼と後鬼を従えた図像が有名である。
ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。
こうして、架橋は沙汰やみになったという。
役行者は、流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったとも言われている。
富士山麓の御殿場市にある青龍寺は役行者の建立といわれている。
また、ある時、日本から中国へ留学した道昭が、行く途中の新羅の山中で五百の虎を相手に法華経の講義を行っていると、聴衆の中に役行者がいて、道昭に質問したと言う。
続日本紀ー小角の生涯は伝承によるところが大きいが、史料としては、続日本紀・巻第一文武天皇三年五月丁丑条の記述がある。
日本の公式な歴史書にある唯一のものであるが、執筆の時期は役小角が亡くなってから約100年も後の頃と考えられていると云う。

「長谷川角行」-人穴富士講遺跡(静岡県富士宮市人穴)。角行はここで修行。
1541ー1646年・江戸時代に富士講を結成した人びとが信仰上の開祖として崇拝した人物。大職冠藤原鎌足の子孫。長崎の武士の左近大輔原久光の子として生まれ、俗名、長谷川左近藤原邦武。

「伝記」ー角行の伝記には数種あり、それぞれが内容を異にすると云う。
応仁以来の戦乱の終息と治国安民を待望する父母が北斗星(または北辰妙見菩薩)に祈願して授かった子だとする点や、7歳で北斗星のお告げをうけて己の宿命を自覚し、18歳で廻国修行に出たとする点などは共通して記されたと云う。
当初修験道の行者であった角行は、常陸国(一説には水戸藤柄町)での修行を終えて陸奥国達谷窟(悪路王伝説で著名)に至り、その岩窟で修行中に役行者よりお告げを受けて富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)に辿り着く。この穴で4寸5分角の角材の上に爪立ちして一千日間の苦行を実践し、1560年、
「角行」という行名を与えられる。その後、角行は富士登拝や水垢離を繰り返しつつ廻国し、修行成果をあげるたびに仙元大日神より「フセギ」や「御身抜」という独特の呪符や曼荼羅を授かった。「フセギ」は、特に病気平癒に効力を発揮する呪符であったらしく、江戸で疫病が万延した際にはこれを数万の人びとに配して救済したという。
後継者は、日行日玥、赤葉玥心、、前野月玥、村上月心と続いた。
村上月心の死後は、月心の二男、村上光清(1682年 - 1759年)の光清派と、月行劊忡から食行身禄・1671年 - 1733年)への身禄派がある。
そこからさらに清康派、伊勢派、出雲派など、俗に「八百八講」と呼ばれる多数の派を生んだと云う。
その中から、食行の女花子に連なるとする小谷三志が神仏混合を拝して神道の一派として不二道を成し、明治維新のころ、そこからさらに分かれて、
柴田花守率いる實行教と穴野半率いる扶桑教が生まれた。角行を開祖とする富士講諸派の母体は、教派神道の實行教と扶桑教へとつながっていったと云う。

「冨士教」-角行から村上光清に連なる系統(御法家)から、角行直系を称する冨士教が生まれ、冨士教は角行及びその直系の8代までが教えを記した「御巻き」という文書(御法家としての秘宝であるという)を保管しており、角行の直系の教えを教義としている。
「富士山」と「藤」(角行の姓にちなむ)が組み合わされた紋にも角行の直系と云う。

「金鳥居・かなどりい」-古くは「唐銅鳥居」と称し、唐から製法が伝わった金属ということで青銅のこと。
「唐銅鳥居」が訛って金鳥居となたっとされている。
金鳥居は「一の鳥居」という別称があり、金鳥居をくぐった先に続く吉田口登山道を登っていくと富士山頂に至るのですが、その道中の一番初めにある鳥居という。富士山の信仰登山者を迎え入れる「門」として、又俗界と富士山の信仰世界とを分かつ「境界」として建立し、金鳥居を歩いてくぐると、富士山の信仰の世界と考えられ、神聖な存在と云う。
記録によると、1788年に初めて建立され、幾度と暴風雨などの影響で倒壊と建立が繰り返され、現在の金鳥居は昭和32年に建立。

中心高は 9.88m、 明(柱と柱の間)7.9m、笠木巾 13.4m 柱の太さ0.88m・扁額には「冨士山」の文字が。


「御師」-平安時代の御師には、石清水・賀茂・日吉などのものがあるが、代表的なのは熊野三山の熊野御師である。
熊野詣では平安時代末期に貴族の間で流行したが、その際の祈祷や宿泊の世話、山内の案内をしたのが熊野御師であった。
熊野では当初参詣のつど両者間で契約していたが、次第に御師を「師」とし「先達」が率いてきた参詣者(道者)を「檀那」とする恒常的な関係(師檀関係)を形成していった。
鎌倉時代には武士にも広まり、室町時代には農民などの庶民まで檀那とするようになった。鎌倉時代から室町時代初期にかけては、伊勢神宮[1]・富士講・松尾・三嶋・白山・大山などの御師も活躍した。特に出雲大社が源頼朝の御師を行った事は「吾妻鏡」という鎌倉幕府の記録を示したものに記されている[2][信頼性要検証]。
明治に入ると、政府主導の神祇制度が整備されたため、急速に御師は衰退、1869年、に明治政府は神職の葬儀は神葬祭に改めるように命じるとともに御師は百姓が兼帯しているもので正規の神職では無いため神葬祭を行う事が禁じられた。
御師側はこうした動きに抗議したものの、1871年、御師職そのものが廃止されてしまい、ほとんどの御師は平民に編入、百姓や宿屋経営などに転じていくことになるが、富士講の御師を結集して「扶桑教」を結成するなど、宗教的な活動を維持しようと動きが。

                           御師・旧外川宿坊


富士山駅から南約350mの金鳥居から国道139号線に沿って御師の家・富士山登拝する人々の宿泊請負や登山指導をする神職で、建物は、「北口本宮
富士、浅間神社」に所属し、御師の住宅形態を残している。1861年頃の建築で、現在数十軒あるが、観光の一つに。

                             浅間坊


白衣を着け、鈴と金剛杖を手に集団登拝する人も。
                             番城屋


                            山神社碑


「北口本宮富士浅間神社」
139号線沿いで、富士駅から南約1.5kmに鎮座。
日本武尊が、現在地のやや南の「大塚丘」に創建したと伝わる。788年、「甲斐守 紀 豊庭」が現在地に造営したとある。

                        石灯篭が続く参道


                           鳥居




                           門楼


東宮本殿前には、老杉巨木の神木が。
                           社殿


                           舞殿


                           神木


                           狛犬


                           献上樽酒


                       富士山湧き水・橋を渡した水路が、




                          角行の立行石


「吉田の火祭」は、夏の富士山の山じまいのお祭りとして毎年8月26日、27日におこなわれる。
北口本宮冨士浅間神社と諏訪神社の両社のお祭り、元来、火祭は、浅間神社ではなく、諏訪神社の祭礼であり、「甲斐国志」においては、上吉田村諏訪明神の7月22日の例祭として町中で篝火を焚くとあり、上吉田の産土神であると記され、火祭は、諏訪神社の神主である佐藤家を中心とした諏訪神社の祭りで、浅間神社の社司や御師が関わるべき祭りでもあったと伝たわる。
26日午後、本殿祭、諏訪神社祭が催行され、大神輿、御影は、参拝者で賑わう参道を下って表通りに出て、氏子町内を一円し、暮れ方に御旅所に奉安されると、時同じくして、高さ3メートルの筍形に結い上げられた大松明70余本、家毎に井桁に積まれた松明に一斉に点火されると、街中は火の海と化し、祭りは夜遅くまで賑う。27日午後7時頃、2基の神輿は氏子中を渡御し夕闇迫る頃、浅間神社に還御。氏子崇敬者が「すすきの玉串」を持ち、二基の神輿のあとに従って高天原を廻ると祭りは最高潮に。
27日を「すすき祭り」ともよんで、神輿と見物客とが一体になって、夕闇の境内を廻る。

      吉田の火祭り・島田市の大井神社帯祭・稲沢市国府宮はだか祭り「日本三奇祭」。


本州中央部・太平洋側に位置し我が国最高峰3776m。均整の取れた典型的な成層火山で世界遺産の「富士山」。
次回も下吉田方面へ。

織物で栄えた下吉田・月江寺へ

$
0
0
富士吉田は、県南東部に位置し、人口5万人の都市、「吉田うどん」で知られているが、絹屋町であった。
織物で栄えた下吉田の中でも、本町通り(国道139号)の東側には絹織物問屋が軒を連ね「絹屋町」と呼ばれていました。毎月1と6のつく日に市が開催されると、全国から商人が集まって軒先で取引を行い、夜は西裏のまちを楽しんだと言われています。現在でもこの絹屋町界隈は“商人の町”という情緒ある街並みの雰囲気を感じることができます。

「富士山」
北半分をとりまくように位置する「富士5湖」-噴火で流出した溶岩が谷を堰き止めてできた云われている。
湖には、富士山の伏流水が湧出する。富士5湖の不思議な現象に、山麓に訪れる寒気と共に、山中湖と精進湖には、氷が張る。
西湖・本栖湖(精進湖とほぼ同じ高さ)氷結しない。湖面の温度差が要因か。

                       月江寺から見た富士山


富士山を一周すると、静岡県田子の浦・富士市・富士宮・人穴・朝霧高原・田貫湖・山梨県の本栖湖・精進湖・青木ヶ原・西湖・河口湖・富士吉田
忍野八海・山中湖・陸上自衛隊(須走)・静岡県の御殿場へ。


                      6月上旬、富士山は、雪が。


「月江寺」ー富士吉田・山号ー水上山。

       臨済宗妙心寺派 の寺・本尊ー地蔵菩薩・札所ー甲斐百八霊場第二十九番。


市域を流れる「宮川の北西岸」に立地。
「甲斐国志」によれば、かつては下宮浅間神社(現在の小室浅間神社)の祈祷所であった天台宗寺院で、称光院と呼ばれており、後に廃絶したという。
甲斐国では中世に臨済宗向嶽寺派の本山である塩山向嶽寺(甲州市塩山)が開かれ各地に臨済宗を布教させていたが、開祖抜隊得勝の法嗣である絶学祖能は都留郡下和田(大月市)で花井寺を開いた後、上吉田において祥春庵を開き、富士道者から勧進して称光院を再興したと云う。
「称光院」は、臨済宗寺院として月江庵と改め、向嶽寺に属し富士北麓における拠点として富士道者に旅宿と神符を提供する御師的役割を果たした。
甲斐国社記・寺記・では日本武尊以来の霊場であったとする伝承を伝えつつ、再興を室町時代の1395年、であるとしており、富士北麓の年代記である「勝山記」では、戦国期の享禄2年の1529年、月江寺住職が向嶽寺の輪番を務めた記録を記している。
寺領の寄進や安堵の書状は残されていないものの、1591年、には加藤光吉から下吉田に2石を寄進した加藤氏判物状の写があり、
「国志」によれば小林尾張守の孫某から田8石余を寄進され、1649年、将軍家光から寺領16石を安堵する朱印状を得たという。
江戸時代には下吉田の現在地へ移転する。寛永年間には江戸の海禅寺から禅心聖悦が入寺し、臨済宗妙心寺派に転派した。
祥春院や正覚寺など市域をはじめ各地に20か寺の末寺があり、10数軒の門前町を形成したと云う。
江戸期には、国学において廃仏論が主張され、月江寺では宝永3年の1706年、鎮守社としていた下宮浅間神社との鎮守争論が発生し、江戸後期には収束するものの明治初期に再燃し、県内では類例の少な廃仏毀釈の事例となっている。
江戸期、1726年、1836年、数次の火災により伽藍を焼失・江戸後期には伽藍が再建され、この際に造られた多くの「仏像」を有していると云う。



                        山門


                      本殿ー2010年再建


                       富士火山石が


                       六道地蔵尊


「六道地蔵尊」
浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するようになった。姿は出家僧の姿が多く、地獄・餓鬼・修羅など六道をめぐりながら、人々の苦難を身代わりとなり受け救う、代受苦の菩薩とされた。
際立って子供の守護尊とされ、「子安地蔵」と呼ばれる子供を抱く地蔵菩薩もあり、また小僧姿も多い。
賽の河原で、獄卒に責められる子供を、地蔵菩薩が守る姿は、中世より仏教歌謡「西院河原地蔵和讃」を通じて広く知られるようになり、子供や水子の供養において地蔵信仰を集めた。
関西では地蔵盆は子供の祭りとして扱われ、また道祖神(岐の神)と習合した為、日本全国の路傍で石像が数多く祀られた。



                        富士山湧き水


                          池


「新倉山 (1180m)」
「御殿 (1184m)」・「 霜山 (1307m)」・「三角点峰「木山」 (1582m)」・「木無山 (1732m)」
「三つ峠山荘・ 四季楽園 (1730m)・ 三ッ峠山 (1785m)・ 屏風岩・ 八十八大師 (1590m). 馬返し (1310m)・ 股覗き・ 大曲り (1085m)
達磨石 (950m)・ 憩いの森公園・ 神鈴の滝・ 山祇神社・ 三ツ峠グリーンセンター (650m)ー富士急「三つ峠駅」。

                   屏風岩ルート 前方新倉山。


「大正寺」ー寶松山と号し、浄土真宗本願寺派(西本願寺)に属する寺院。

約750年前(文永年間)に祖門六老僧の随一源誓上人に創設・宗祖親鸞聖人御真筆の無碍光如来の画像を安置した草庵。

                        宮の下にあった。


文安年間の1440年、本願寺中興の祖の「第8世蓮如上人」が当地を御巡錫した際、藤原氏の末裔であった当国城山(本郡福地村字新屋の南にあり
城主の「遠山伊豆守重正」が蓮如上人に帰依し法名乗欽を賜り、その後、草庵に入り、ここを念仏道場として水石山新念寺と称したとある。

                文安3丙寅年(西暦1446年、約560年前)


第三代住職正念の時、寺号を新福寺と改悟号・1627年、本堂と庫裏を焼失し、1644年、寺基を現在地へ移転。
第五代住職正意の時、1668年、
                    号を大正寺と改めた。


                     山門・鐘楼


                      親鸞像


     初代より約560年、前身の草庵も含めれば約750年の歴史を誇る(現住職、第17代正尊)

 
          十二代住職正観の時(文化・文政年間)に鐘楼と庭園を建立


次回も浅間公園へ。

新倉山 外国の旅行者にも有名な桜の名所

$
0
0
「親鸞」 1173-1262年     貧しい貴族の子
9歳で「慈円」出家・20年間比叡山で修行し、山を下りて「法然」の門に入る。法然、弾圧で、土佐へ流され、親鸞は、越後へ流された。
親鸞越後で結婚、以降布教、赦免され関東で布教後、寺でなく道場にて在家として、「教行信証・歎異抄」を残す。
遺骨を納めた堂が、後の「本願寺」。
鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧で、「浄土真宗」宗祖。法然は、浄土教の僧。
親鸞は、法然を師と仰いでからの生涯に渡り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。
独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。
親鸞の念仏集団の隆盛が、仏教教団や浄土宗他派からの攻撃を受けるなどする中での要出典と云う。
宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。これが、「浄土真宗の立教開宗」・「顕浄土真実教行証文類・教行信証」が完成。-寛元5年の1247年、とされるが、定められたのは親鸞の没後である。

「稲田の草庵跡」- 西念寺本堂・1214年、(流罪を赦免より3年後)、東国(関東)での布教活動のため、家族や性信などの門弟と共に越後を出発し、信濃国の善光寺から上野国佐貫庄を経て、常陸国に向かう。寺伝などの文献によると滞在した時期・期間に諸説あるが、建保2年に「小島の草庵」(茨城県下妻市小島)を結び、1216年「大山の草庵」(茨城県城里町)を結んだと伝えられる。
笠間郡稲田郷の領主である稲田頼重に招かれ、同所の吹雪谷という地に「稲田の草庵」を結び、この地を拠点に精力的な布教活動を行う。
親鸞の主著『教行信証』は、「稲田の草庵」において4年の歳月をかけ、1224年、草稿本を撰述したと伝えられる。
東国における布教活動を、これらの草庵を拠点に約20年間行う。
西念寺 (笠間市)(稲田御坊)の寺伝では、妻の恵信尼は、京には同行せずに「稲田の草庵」に残った。1272年、この地で没したとある。
関東布教時代の高弟は、後に「関東二十四輩」と呼ばれ、その24人の高弟たちが、常陸や下野などで開山する。
それらの寺院は、現在43ヶ寺あり「二十四輩寺院」と呼ばれ存続していると云う。

                           親鸞像


「如来寺」  下吉田新倉  浄土真宗本願寺派、本山ー西本願寺。

本尊 阿弥陀如来(寺宝等ー古本尊、金剛大日如来 他)

               本堂・ 経 堂、庫裡、山門、鐘楼、1804年創建


如来寺は、「扶桑風土記」によると、
堂ヶ尾(堂顔)の地にあった観音堂を、709年、救願寺と改号し、菩薩戒を修する道場としたのが始めである。
弘法大師来麓の折、金剛界大日如来を賜り、真言宗として栄えたが、その後荒廃した時期があった。
1228年、時の住職浄円が聖徳太子旧跡巡拝中の親鸞聖人に帰依し、浄土真宗に改めたと云う。

   河口湖・浅川地区の外川弥兵衛も帰依し、法名浄心を賜る。1544年万蔵寺と改号、1718年如来寺と改め現在に至る。


「正福寺」 浄土真宗の寺。
                       正面


                       本堂


                       説明板


                         堂                     


                      親鸞布教の像


                       山門と鐘楼


                       入山川(宮川)


「新倉山浅間公園・神社」

三つ峠山は、御坂山地東端・山頂は河口湖と西桂町の境にある。南東は都留市の桂川渓流になる。中でも、屏風岩は岩登りで知られている。
三つ峠は、富士山の眺望が特に良い峠で「三つ峠の富士」としても知られている。
山頂は、開運山(1785m)御巣鷹山(1770m)毛無山(1740m)の3峰に分かれ三峰山とも云う。

                         マップ           


 山梨県富士吉田市は富士山麓の標高約650mから850mに位置する富士山北側の玄関口で、間近にそびえる霊峰は町中のどこからも望むことができます。 富士五湖エリアで随一を誇る富士山ビュースポット「新倉山浅間公園(忠霊塔)」は、その壮観な風景で国内外から訪れる人を魅了します。 特に春には、桜、富士山、五重塔という日本のシンボリックな風景を一枚の写真に収めることができるスポットとして訪れる人が絶えない。
 
                         富士山と桜

.
「忠霊塔」-山梨県富士吉田市の新倉山中腹にある戦没者の慰霊塔が。

              公園内650本余りのソメイヨシノ・富士山と富士吉田市内が


                      咲くや姫階段ー388段ある。


「新倉山浅間神社」
                        境内


                        社殿

                        

 
                   2.5mから分岐している「子育て神木」


「富士急行線 下吉田ー月江寺間」
古くから富士登山の拠点となっていた大月と吉田(現在の富士吉田市富士駅)は、八王子から大月まで延びて来た中央東線(中央本線)を結び、東京からの登山客らを運ぶために敷設された富士馬車鉄道と都留馬車鉄道による馬車鉄道を前身とする。両社は軌間が異なっていたため、途中で乗り換えが必要で、これを解消するため1921年に両社が合併し、大月 - 金鳥居上(後の富士吉田)間の軌間を統一・電化して電気運転を開始した鉄道。
馬車鉄道時代からの併用軌道では所要時間もかかり、急増する旅客をさばききれなくなったため、1926年に設立された富士山麓電気鉄道へ1928年に全線を譲渡し、1929年に新設の鉄道線に切り替えられ、馬車鉄道以来の軌道は廃止された。
これにより2時間かかっていた大月 - 富士吉田間の所要時間は1時間以下にと短縮され、富士山麓は東京からの日帰り観光圏内となった。
都留馬車鉄道は一時籠坂峠に至るまでの路線を有しており、明治から大正期まではそこから東海道本線(今の御殿場線)御殿場駅前までを結んでいた御殿場馬車鉄道と連絡していたこともあったと云う。

                          単線の富士急 

 
これで富士吉田は終わります。

掛川城 静岡東海道名城の一つ

$
0
0
「今川氏真」 1538-1614 領国を失った没落大名、今川義元の長男。
駿河・遠江国大名・母武田信虎の娘ー信玄と家康に領地を蚕食され、、家臣団の離反、家康の攻撃で領地を捨て「小田原北条氏」逃げ込んでいる。
父死後7年で領地を失っている。だが、和歌・蹴鞠・芸能に才能を発揮し、北条氏に放着された後は、京都公家衆と交わり、また一説に父の仇である信長
の御伽衆などと蹴鞠の技を披露して得意がったと云う。四条河原で家康に拾われたともある。子孫は「品川氏」で高家となっている。

「掛川城の戦い」
甲斐国の武田氏に攻められ、薩捶峠・今川館と敗戦を喫した今川氏当主氏真は、重臣・朝比奈泰朝の守る遠江国掛川(懸川)城へと逃げ込んだ。
ところが、今度は三河国の徳川家康が掛川城を攻め始めた。
家康は三河と遠江の国境付近に位置する遠江国引佐郡の菅沼忠久・久藤康用・鈴木重時を取り込み、彼らを案内役として1568年、遠江国に侵攻を開始し、その行軍において井伊谷、刑部、白須賀などの城や砦を陥れつつ進み、西遠江の要衝に位置する引馬城を開城させている。
この徳川勢の破竹の進軍により、それまで今川氏に従っていた遠江国の土豪や武将たちにも徳川氏に鞍替えする者も少なくなく、遠江国経略の要ともいうべき高天神城の城主・小笠原長忠、馬塚伏城主・小笠原氏興らは戦わずして徳川氏に降った。
これは今川義元の死後に跡を継いだ氏真の凡庸さを見限った動きともいえると云う。
徳川勢が掛川城の包囲を始めたのが12月27日のこと、その翌日には兵を出して城下に火を放ったがすぐに見附まで退くなど、はじめのうちは大きな動きもなかったが、年が明けて1569年1月17日、総攻撃が開始された。
しかし掛川城は堅城であるうえに朝比奈泰朝がよく守り、戦いは長期戦の様相を見せる。
この間の2月には家康は、付城を築かせて攻撃態勢を固めて、兵糧攻めに切り替えた。
そして3月になると家康自身が出馬して大手南町口・西町口・松尾曲輪・天王小路などを攻めたが、落とすことができず、城下の西宿と天王山下で激しい攻防戦が繰り広げられた。
徳川・今川両軍に相当の死傷者が出たという。
武田信玄の手が遠江国にまで伸びて、これ以上戦いを長引かせては武田勢に蚕食されてしまうと判断した家康は、和睦を協議する。
この協議には今川氏と同盟関係にあった北条氏政も参画し、その、5月に、和睦が成立、開城となった。
ここに、かつては駿河・遠江・三河を領した守護大吊・今川氏は滅亡したのである。
領国を失った氏真は、妻の実家である北条氏を頼り、北条領の伊豆国へと落ちていったと云う。

                    掛川城付近のマップ


1469年、「今川義忠」の命を受け「朝比奈泰照」が築城・のちに「山内一豊・松平定勝・井伊直好等が城主になり整備され、東海道の名城の一つになる。が、安政の大地震で大半を失っている。平成6年「正保城絵図」(幕府が管理し絵図)を元に復元された。
隣接する「御殿」は、藩式典場と藩主の居室、国文化財指定。

                       大手門


「山内一豊」 1546-1605 初代土佐藩主、信長・秀吉・家康の仕えて、内助の功で功名をたて、近江国長浜5千・若狭国高浜1万9千・ここ遠州
掛川で5万石・関が原の戦いで家康から土佐一国20万石を与えられた。

「井伊 直好」 上野安中藩の第2代藩主、のち三河西尾藩主、遠江掛川藩の初代藩主。直勝系井伊家2代。
1618年、安中藩初代藩主・井伊直勝の長男として安中にて生まれ、父の隠居で安中藩3万石を継いだが、1645年、5000石加増の上で西尾藩へ加増移封され、1659年、正月28日に掛川藩に移封、1672年、正月6日、掛川にて死去。享年55。跡を長男の直武が継いでいる。

                    瓦葺3層・内部4層・床面積92.25坪


「松平定勝」 1560-1624  久松俊勝の 4男。母は家康公の生母・於大の方・、康元・勝俊の同母弟。
尾張国阿久居城で生まれ、生後まもなく家康公より松平氏の称号と葵紋を賜っている。
元服後は家康公に従い1575年、長篠合戦、1582年の武田氏討滅戦などに従軍した。
定勝24歳の時、小牧・長久手合戦があり、羽柴(豊臣)秀吉が家康公と和議を結ぶために、家康公の親族のうち誰かを秀吉の養子とすることを求めた。
そこで、定勝が選ばれたのであるが、定勝の兄・勝俊が長い人質生活を送り、悲惨な体験をしたこと心を痛めた母・於大の方が、定勝を手元に置いておき、そのような目に遭わせたくないという一心でそれを阻んだといわれる。
家康公も母の願いを無視する訳にもいかず、結局、定勝を人質として秀吉のもとに送ることは諦め、自分の 2男の於義丸(秀康)を送る。

                      本丸・天守閣へ


資料「正保城絵図」から、徳川幕府は、1644年全国の城郭調査した。
掛川城は、天守丸と本丸の周囲を「三日月堀・十露磐堀・松尾池」囲まれている。堀の外は、2.3丸廓が配置。外堀の役目を逆川が囲んでいる。
家康は、1614年「大坂冬の陣」駿府城からここ掛川城で泊まっている。又1617年第二代将軍秀忠が上洛時泊っている。1634年家光・1634年家茂が
長州征伐の途中に宿泊とある。
                      入口(有料)


「霧噴き井戸」
1568年~1569年徳川家康は、今川氏真が立て籠もる掛川城を攻めていた。この時、井戸から立ち込めた霧が城を包み、家康軍の攻撃から城を守ったという伝説が残っている。
                       霧噴き井戸


                      天守閣マップ


        外容は、京都聚楽第の建物に黒塗りの廻縁と高欄は大阪城天守閣にならったと。


                        


             


                                                 


玄関ー御談の間ー文庫ー足軽目付ー大目付ー書院・・・。
床の間、城主の対面所(畳が)障子窓・・・で江戸時代後期の建物「城郭御殿」は貴重で、全国に、4か所(京都二条城など)。
御殿は、駿府城の勤番所と学問所野も使われた。
                                                  


                        


                       


                   


「掛川城御殿」は、二の丸に立っている。ここのは、藩政時代の貴重な遺構が残されている。
建物は、木造瓦葺平屋建築で947m2・20余室が残る。再建は、1855年頃。





                        甲冑等が


                        各座敷


                      御殿から見た庭園





掛川宿 山内一豊と城下町 

$
0
0
「夜泣き石の伝説」
旧東海道の金谷宿と日坂宿の間にあり、急峻な坂のつづく難所。
曲亭馬琴の「石言遺響・1805年」によれば、その昔、お石という身重の女が小夜の中山に住んで、ある日お石がふもとの菊川の里(現・静岡県菊川市菊川)で仕事をして帰る途中、中山の丸石の松の根元で陣痛に見舞われ苦しんでいた。そこを通りがかった轟業右衛門という男がしばらく介抱していたのだが、お石が金を持っていることを知ると斬り殺して金を奪い逃げ去った。
その時お石の傷口から子供が生まれた。
そばにあった丸石にお石の霊が乗り移って夜毎に泣いたため、里の者はその石を「夜泣き石」と呼んでおそれた。
生まれた子は夜泣き石のおかげで近くにある久延寺の和尚に発見され、音八と名付けられて飴で育てられた。
音八は成長すると、大和の国の刀研師の弟子となり、すぐに評判の刀研師となった。
そんなある日、音八は客の持ってきた刀を見て「いい刀だが、刃こぼれしているのが実に残念だ」というと、客は「去る十数年前、小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったため、音八はこの客が母の仇と知り、名乗りをあげて恨みをはらしたという。
その後、この話を聞き同情した弘法大師が、石に仏号をきざんでいったという。なお、ほぼ同様な伝説は、1773年、刊行の随筆「煙霞綺談」(遠州の人・西村白鳥 著)にも記載されていると云う。

現在夜泣き石と伝えられている石は2つ存在で、国道1号小夜の中山トンネルの手前(東京側)の道路脇と「夜泣き石」を東京で見せ物にする興行が失敗し、焼津に置き去りになっていたものを地元の人々が運んだと云う。

東京から220.9k


静岡県中西部・大田川支流逆川流域で、東経138度線が通る。日本列島の真ん中に位置する。鎌倉時代に東海道の「懸川宿」として名がみえる。
東隣の金谷町との間の峠、「小夜ノ中山」は、歌枕で知られている。
江戸時代は、五十三次の一宿で掛川藩が置かれている城下町・お茶の生産も盛ん、掛川と云うと「二宮尊徳」の報徳運動が盛んで1979年
「生涯学習都市宣言」をしている。

掛川宿・ 旅籠ー大3、中11、小16


「宗 長」1448ー1532年。
室町時代後期の連歌師である宗長は、駿河国島田に鍛冶職人の五条義助の三男として生まれ、当初は、柴屋軒とも号し、1465年、18歳で出家し
今川家に仕える。
書記役のようなことを務め、合戦などにもたびたび従軍していた。
義忠戦死の後は今川家を離れて上洛し、宗祇に師事して連歌を学び、大徳寺の一休宗純に参禅し、寺の真珠庵の傍らに居を構えと云う。
宗祇一座の多くの作品に加わり、宗祇門として頭角を現し、1496年、駿河に戻って今川氏親に仕える。
1502年、箱根湯本で宗祇が倒れたとの報を聞き、その最期を看取った。
宗祇没後は連歌界の指導者となる一方で、有力な武将や公家との交際も広く、今川氏の外交顧問であったとも言われ、三条西実隆や細川高国、大内義興、上杉房能とも交流を持っている。 晩年は、斎藤安元の援助により駿河国丸子の泉ケ谷に柴屋軒(現在の吐月峰柴屋寺)を結び、京との間を往還して大徳寺の山門造営にも関与した。1532年、柴屋軒にて85歳没。

代表作・句集「壁草・那智籠・老耳」など、連歌論書に「連歌作例・永文」など、日記紀行に「宗祇終焉記・宗長手記」などがある。


                            歌碑


「東海道本線」
1889年の明治22年、国府津駅 - 静岡駅間(114.81 km)が延伸開業。
国府津駅から沼津駅までは途中現在の御殿場線を経由し箱根を避けるように路線を敷設した。*松田駅・*山北駅・*小山駅(現在の駿河小山駅)・*御殿場駅・*佐野駅(現在の裾野駅)・沼津駅・鈴川駅(現在の吉原駅)・岩淵駅(現在の富士川駅)・興津駅・江尻駅(現在の清水駅)・静岡駅が開業。
その年、静岡駅 - 浜松駅間(76.34 km)が延伸開業。
この時点で、長浜駅 - 大津駅間琵琶湖の水路を用いることで、関東から関西までの輸送路が一応完成し、焼津駅・藤枝駅・島田駅・堀ノ内駅(現在の菊川駅)・掛川駅・袋井駅・中泉駅(現在の磐田駅)が開業した。

                  現在、御殿場線と東海道本線が通っている。

掛川城まで駅から徒歩約7分にある。
               旧東海道が県道37号線ー並行している。


毎月第3土曜日「けっトラ市」が。
生産者が軽トラックの荷台をお店にして、採れたて新鮮野菜や手作り品などを販売する。

                      


 城下町・掛川宿の伝統を色濃く残す「掛川祭」は、
毎年10月上旬に掛川駅北側の市街地を中心に行われ,城をバックに、華やかに装飾された総勢38台の屋台が各町内を練り歩き、威勢のよいお囃子の調子と共に市街地は祭り一色になる。干支の丑、辰、未、戌の年は、大祭の年にあたる。
日本一の大きさを誇る「仁藤の大獅子」など三大余興が披露すると云う。

                    清水銀行掛川支店


                  




                    掛川と山内一豊・案内板


                   市内から見た遠江国掛川城


                      宿場町の市内


                      掛川城大手門付近


                      二の丸付近のマップ


二宮尊徳報徳図書館など
                      掛川城付近のマップ


「逆川」
掛川市を流れる二級河川。太田川水系原野谷川の支流。
蛇行が激しく、たびたび水害をもたらしてきた暴れ川である。
「堤が欠ける・決壊する」ことから「かけがわ」(欠川→掛川)とも呼ばれ、当地域が「掛川」と呼ばれる由縁となったと云う。
掛川城のすぐ南を流れており、天然の濠としても使われていた。

                     川に沿って石垣が


                 掛川城と逆川に架かる「みどり橋」


                 城御殿と庭園・池・美術館などが、


「高天神城の戦い」遠江国掛川市
高天神城は、元は今川氏の支城であったが、桶狭間の戦いから駿河侵攻にかけての今川氏の衰退・滅亡によって城主・小笠原氏興は徳川氏に付いた。
遠江・駿河の国境近くにある高天神城は、徳川氏にとって遠江支配の重要拠点。武田氏は、駿河平定後、三河・遠江方面へ手を伸ばし始め、そのため徳川氏とは小競り合いが続く。
元亀2年には、武田信玄が2万5000といわれる大軍を率いて三河・遠江に侵攻し、その際に高天神城を攻め同日撤退したといわれる。
その翌の元亀3年、西上作戦における遠江侵攻では、高天神城と徳川氏の本拠点・浜松城とを結ぶ遠江の要所・二俣城が陥落し(二俣城の戦い)、
高天神城は孤立することになる。しかし、この時点ではまだ徳川氏の拠点として機能していた。
信玄の死後、後を継いだ武田勝頼も遠江支配強化のために高天神城を狙い、遠江支配の要として武田氏と徳川氏は高天神城を奪い合うこととなる。
高天神城は、かつて武田信玄が大軍を率いてもってしても落とせなかった要塞であった。
甲陽軍鑑によれば武田勝頼はこの時から有頂天になって、家臣の言う事を聞かなくなったという。
この事からこの城を落とした実績から勝頼は自信過剰になり、後の長篠の戦いでの敗戦の原因になったとする説がある。
その一方で、勝頼は偉大なる父が落とせなかった城を落とすことで、父に勝る武略を示したいという意図があり、結果的にそれに成功した事から、その実績をもって家臣統制を強めたという解釈もあると云う。

次回も、掛川(城)へ。

茶畑の金谷町 勝頼の諏訪原城

$
0
0
「金谷町」
鋳物師。鋳造を行う工人。鋳師,鋳造師,鋳造匠とも呼ぶ。
日本では,鋳造技術が弥生時代後期からあった。
奈良時代には官の職制として典鋳司 がおかれ,鋳造師はここに配属されて仏像,梵鐘などの製作にあたった。
平安~鎌倉時代には政権の所在地を中心に集団をなし,末期には座をつくって製作,販売を独占した。室町時代以降は日本の各地に広がり,多くは為政者の独占のもとで武具,鍋釜,農具などの生産を行なった。「金谷・金山」の地名は、全国にある。
ここ静岡県島田市金谷町も、大井川右岸にあり、中世時の郷の名と云う。金山彦命を祀る鋳物師が住んでいたのであろう。
町は、赤石山脈の前山にあたる産地である。
                         牧の原台地茶畑


                     大茶園と製茶 全国一の市場を


「栄西」 1141-1215 日本臨済宗開祖
延暦寺で学び・入宋し仏書を天台宗座主献じている。再び入宋して「臨済宗」を学んだ。北九州で禅宗を広め、「興禅護国論」を書く。
栄西は、延暦寺との対立を避けるて鎌倉へ、北条政子の寺「寿福寺」の住職に。鎌倉幕府二代将軍源頼家が京都に「建仁寺」建立し住職。
この寺を延暦寺の末寺に。「天台・真言・禅」三栄の道場としている。三代将軍実朝のために書いたのが「喫茶養生記」。

「喫茶養生記」鎌倉、寿福寺に伝わる「喫茶養生記」
寿福寺開山の栄西によって書かれた上下二巻からなる茶の効用が書かれた我が国最古の茶書(国重文:鎌倉国宝館に寄託)。
主として上巻は茶について、下巻は桑について書かれ、それぞれ、名称、効用、使用法、製法などについて述べられている。
1214年、栄西は、三代将軍源実朝が二日酔いで苦しんでいる時に、茶の効用を説いて茶をすすめ、この時に「茶徳の誉むるところの書・喫茶養生記」を献上したと伝えられている。
栄西は、宋から茶の種を持ち帰り、それを筑前の霊仙寺に蒔いて茶を栽培した。
京都の建仁寺でも栽培し、栄西から茶の種を譲り受けた明恵は、栂尾の高山寺で茶を育て、宇治に移植し、茶の栽培を行った。「宇治茶のはじまり」
京都東福寺の開山となった円爾は、宋から持ち帰った種を駿河に普及させたという。円爾は栄西の高弟退耕行勇を師としていたと云う。

              中国から、お茶の種をもって広めた 栄西像


                 金谷坂の石畳 島田市指定史跡の説明板


                  武田勝頼築城 諏訪原城址
1561年、川中島で「山本勘助」討死・1573年、武田信玄病死・その年に勝頼は、武田流築城術を駆使し山城「諏訪原城」を築いた。
三日月堀・曲輪をセットにし大きく「丸馬出」が残っている。地形は、後ろを竪固・断崖絶壁、城の眼下に大井川が・街道と密接・縄張り配置武田流
礎石は、中世の石塔などで根固に浸かっている。

                  1573年遠江攻撃の拠点に築城。(国指定史跡)


「諏訪原・牧野城・扇城」、遠江国榛原郡金谷・現在の静岡県島田市金谷。
戦国時代の日本の城(山城)である。諏訪之原城とも書き、甲斐の武田氏が築城。城内に諏訪大明神を祀ったことからこの名が付いたとされる。
徳川氏時代の城名は「牧野城」
家忠日記には牧野城のほか牧野原城とも記載。東照宮御実紀(徳川実紀)に、牧野の城(諏訪原をいふ)と記載ある。
現在は、建築物は残っていないものの、堀・曲輪・馬出などの遺構が残り、戦国時代の武田氏・徳川氏の築城様式を知る上で貴重なものとなっている。
(国の史跡に指定)

遠江国の東端近くの牧之原台地の舌状台地の先端部に立地し、城のすぐ南を東海道が通り、東の金谷坂を下ると大井川をまたいで駿河国に入り、西の菊川坂を下ると「小夜の中山」を経由して掛川(現掛川市中心部)を中心としたやや広めの盆地部に出る。
また、南に牧之原台地を下ると、菊川下流域の平野部に出る。
歴史では、武田軍が遠江(徳川領)攻略の出城として築城し、天正3年の1575年、には武田氏と徳川氏で激しい戦いが繰り広げられたが、同年8月落城、徳川氏の城となる。
           「扇城」とも、築城主馬場信春(1573)武田四天王の一人。


徳川の城になって「牧野城」と呼ばれている。
                   牧野城・諏訪原城


1569年、駿河・遠江を領していた今川氏が武田氏と徳川氏に挟撃され滅亡。
駿河は、武田氏に、遠江は、徳川氏の所領となったが、しかし、間もなく両氏は争うようになり、1571年、武田氏当主・武田信玄は遠江南東部の高天神城を攻撃した。このときは落城させることができず撤退したが、翌年、徳川氏に大攻勢をかけ、二俣城などの諸城を落城させ、さらに本拠地・浜松城から討って出た徳川氏当主・徳川家康を三方ヶ原の戦いで破った。
1573年5月、信玄は病死するものの、跡目を継いだ「武田勝頼」も遠江の獲得を目論んだ。
1573年、諏訪原城の築城もその一環であり、普請奉行馬場信春、その補佐を武田信豊に命じ、東海道沿いの牧之原台地上に城を築かせたという。
ただし、このことを記す史料が「甲陽軍鑑」など後代に成立した史料のため、築城者については確定できないが、この時期の築城は間違いないと考えられている(「武徳編年集成」には永禄12年(1569年)に「金谷城」を築城したとあるが、この城が諏訪原城と同一かどうかは断定できない)と云う。
信玄後期から勝頼期に建設された城郭の特徴である、台地の突端部を利用し戦闘正面を限定させる構造となっている。
甲州流築城術の特徴である丸馬出及び三日月堀が3ないし5箇所あり、枡形虎口などの遺構も残る。
城の三方は台地の断崖となっており、前面の巨大な空堀がこの断崖へと続いている。
小山城と共に、大井川西岸の防衛線及び高天神城への補給線を確保する重要な拠点となった。

                         マップ


「城主」
武田氏の城主・城番は諸説あるが、落城時は武田氏家臣室賀・小泉両氏が城主であったとされる。
徳川家康は諏訪原城を手に入れると、城主ではなく常駐の城番(定番衆と呼ばれた、松平家忠(甚太郎、東条城主)・牧野康成(新次郎、牛久保城主)など)を複数置く一方、別に交替で守備や普請を担当する交代番の人々(牧野番と呼ばれ、西郷家員(孫九郎、西山城主)・松平家忠(又八郎、深溝城主)・戸田康長(新六郎、二連木城主))を定め、交替は西郷氏→松平氏→戸田氏の順でほぼ半年毎に約1か月間勤めたと云う。
この守備体制は、1582年、甲斐武田氏滅亡まで継続。
牧野城に改名の理由は、天正3年8月に諏訪原城が徳川方の手に入ると家康は喜び、古代中国の故事にちなんで牧野城としている。

                         曲輪図


「武田信玄」 1521-73  甲斐の無敵名将・大名、信虎の長男、父を追放し家督を奪取る。
今川氏と北条氏と三国同盟し上杉謙信と川中島で数度対決する。その後、大軍を率いて上洛を目指したが陣中で病死。
「人は城・人は石垣・人は堀・情けは味方・仇は敵なり」-甲陽軍鑑、信玄の言葉。

                         堀・土塁


「武田勝頼」 1546-82 武田の御曹司、信玄の四男・母は諏訪頼重の娘、高遠城にいたが世嗣、信玄死後家督を継ぐ。
信長に攻められ天目山で自害する。慢心・重臣の反対を押し切る・鉄砲隊に大敗、没落の一途をたどる。

                         本丸付近


「徳川家康」 1542-1616 関が原で天下を手中にした江戸幕府の創始者・武田氏滅亡後、勝頼の首を丁重に供養している。
武田の旧臣は家康の態度に感謝し、抜群の働きをする。それに対し信長は、罵詈雑言を浴びせたと云う。

                          堀


「夜泣き石」は、弘法大師が供養したと伝わる。
                        二の丸付近


「夜泣き石」の久延寺伝ー掛川城主山内一豊が、関ケ原の合戦に向かう徳川家康を接待し、茶室を設けたと伝わる。
境内に、茶室跡・家康が手植えの五葉松が残っていると云う。

                         土塁


武田軍の騎馬隊は知られており、「馬出」は、




                       当時の石塔か?


                       一部の石垣が 


                 諏訪原城の奥に金谷坂に石畳がある                         


「小夜の中山峠」            抜けると掛川へ。
東に大井川・西に中山峠・幕府が整備した菊川坂・石畳、中谷峠に差し掛かると、登坂は一段と厳しく、一面茶畑に、「久延寺」が。
ここに、夜泣き石の伝説が
その昔、ある妊婦がこの峠で山賊に殺された。幸いにお腹の子供は助かので久延寺の住職が水飴で育てたが、殺された母の霊が子を思い石にこもって
毎晩泣くのだった・・・・。今でもその石が寺にあると云う。峠に「子育飴の扇屋」があると云う。

       広重の「日坂・佐夜ノ中山」旅人が不思議がって見ている石と急な坂道と富士山が

                         土塁


「芭蕉句碑」金谷坂石畳下り口付近に碑が

「馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり 廿日(二十日)余りの月かすかに見えて山の根際いと暗きに、馬上に鞭をたれて数里いまだ鶏鳴ならす杜牧が早行の残夢小夜の中山に至りて怱驚く」
                 「千里」の前文の碑が


「すべらず地蔵尊」
"安全に・滑らず・転ばず・着実に進めるように" 合格祈願や商売繁盛の名所になっていると云う。
江戸時代、東海道の難所として旅人を悩ませた金谷坂。平成3年、平成の道普請・町民一人一石運動によって蘇った「旧東海道金谷坂石畳」が、
430mつづいている。金谷坂石畳の中腹に、地蔵尊と六角堂があると云う。

                  滑らず地蔵尊へは、この石畳を


「旧東海道金谷坂石畳」
東海道旧街道の面影を今に伝える金谷坂の石畳。
江戸時代、金谷坂は急坂なうえに「あおねば」と呼ばれる粘土層が露出しており、雨が降るとぬかるみ大名行列や旅人は大変苦労しました坂。
そこで江戸時代末期、約400間(約720m)の石畳が「山石」を敷き詰めて造成された。 この時使われた山石は、牧之からと云う。

                          石畳


                        金谷の観光案内板、


牧之原公園から
広大な牧之原大茶園の一角にある公園は、景観がとても美しく、正面には日本最高峰の富士山、右手には日本一深い湾である駿河湾とその向こうの伊豆半島、左手には南アルプスの山々、眼下には雄大に流れる大井川、そして周辺に広がる茶畑と、日本を代表する景観の一つ。
また、牧之原公園からの夜景は「日本夜景遺産」に登録されており、市街地の夜景と大井川や茶畑の明暗が、富士山や駿河湾のシルエットも含め絵画のように広がると云う。
北側の斜面にはカタクリの群生地があり、3月下旬から4月上旬頃が見頃、園内には茶祖・栄西禅師の像がある。

                      牧の原公園から見た大井川


「臨済宗」は、中国・南宗禅(菩提達磨を初祖として、北・南宗禅に分かれ、南宗禅が発展し五家七宗を教え最も栄えた。その印可を得ている栄西上人
(千光国師)が、日本初の禅寺を建立し開宗・禅宗の一派・また、栄西は中国から茶の種を持ち帰り茶を広めた「茶祖」とも称されている。
栄西は、75歳で没し、後夢窓疎石・一休宗純・沢庵宗彭・盤珪永琢・白隠慧鶴等が。
本尊ー釈迦牟尼仏・寺院数約6000・信者約100万強

次回は、大井川へ。

大井川本線と渓谷 吊り橋 見どころいっぱい

$
0
0
暴れ川の大井川は,古文書の記録で確認されるものでも藩政時代から幾度となく大規模な洪水被害に見舞われている。
大宝令時代までには現在の流路をとっているが、出水のたびに旧流路にも洪水は流れ込み、大井川平野は明治末期まで洪水常襲地帯。
急峻な地形と流域形状から洪水流量は短時間の強い雨によって支配される傾向にあり、過去の出水は降雨の集中度の大きい台風を原因とするものが多い。
「昭和54年10月台風20号出水(10月19日)」
10月6日にトラック島の南東海上で台風第20号が発生。
井川観測所では日降水量358mmを観測し、静岡県全県下で被害を受けました。
床上浸水7戸、床下浸水10戸、流失畑0.2ヘクタール、冠水畑13ヘクタール、決壊堤防13個所、橋梁1個所、崖崩5個所の被害が。

「昭和57年8月台風10 号出水(8月3日)」
7月24日に日本の南東海上で台風第10号が発生。
県中部を中心に全県下に被害があり、島田市の被害は全壊3 戸、半壊4戸、床上浸水416戸、床下浸水975戸など。
金谷町では行方不明1人、負傷者1人、床上浸水273戸、床下浸水1,081戸でした。
山間部を中心に日雨量400mm程度の降雨を記録しました。静岡市山間部では橋などが流失し、道路が寸断、数日間にわたり井川地区が孤立する被害が。

「平成3年9月台風18号・秋雨前線出水(9月19日)」
9月19日に台風18号が県全域に大雨を降らせ、水窪町では時間雨量88mmを記録。
本川根町では建設中の長島ダムの「仮締切」が半壊した他、NTTのケーブルの切断により、市外通話が不能になり、床上浸水52戸、床下浸水18戸の被害となる。

「平成12年9月12日洪水(台風、秋雨前線)」
東海地方に東西に伸びた前線が停滞し、この前線に向かって台風14号からの大量の湿った空気が流れ込んだため、大井川流域中上流域を中心に大雨となり、井川観測所では500mmを越える雨量を記録。

         暴れ川に沿って「大井川本線」が、 今でも蒸気機関車SLが。


                     C56型44号機 札幌―千歳間を


大井川水系の発電所建設用専用線の鉄道の歴史から。

                     JR金谷駅から千頭駅(大井川線)


大井本線駅名  「JR金谷駅」ー代官町ー日切ー五和(新東名高速道路)大井川と接近してー神尾ー茶畑の福用ー大和田ー「家山駅」
抜里ー川根温泉笹間渡ー地名ー塩郷ー下泉ー田野口ー駿河徳山ー青部ー崎平ー19番駅大井川本線終点の「千頭駅」

                       以下大井川本線車窓から


          大井川本線全線フリー切符は、2日間でどの駅も乗り降り自由ー3440円
























「家山駅」 SLが停車する有人駅、ここは、桜並木(約1km)で知られている。駅・ホームは映画やテレビドラマによく使われている。

                        家山駅


                   丘陵を生かして大小の茶畑が




温泉が湧出量を誇って、駅から5分の近さ、電車からもよく見える。

                   「川根温泉笹間渡駅」






駿河徳山駅は枝垂れ桜、約50本、150mで圧巻と云う。

                 金谷から13番駅「塩郷駅」


                     塩郷の吊橋


                      吊橋の下を


                 終点一ッ手前の「崎平駅」






                     小長井吊り橋付近


                   千頭駅と接続している「井川線」


「真波アルプスあぷとライン」(井川線)
大井川鐵道が運行する井川線、通称「南アルプスあぷとライン」は、
千頭駅から井川駅間の25.5kmを結び、小さめの赤いトロッコ列車が奥大井の秘境へと。
鉄道日本一の急勾配の山を上り下りする為、途中日本国内唯一のアプト式電気機関車と連結。
そんな作業風景も見所の一つと云う。

                 千頭駅までが大井川本線・その先井川駅までを井川線となる。


                  井川線の奥大井湖上の駅ーレインボーブリッチ(写真から)


次回も、千頭駅周辺散策します。

千頭   大井川上流の景勝地

$
0
0
大正〜昭和 森林輸送鉄道から観光鉄道へ.
大正14年,大井川鐵道は大井川上流部の電源開発と森林資源の輸送を目的として創立し、昭和6年に金谷〜千頭間が全通した。
それまでのイカダと船、峠越えの馬、徒歩以外に交通手段のなかったこの地域の生活を一変させましたと云う。
昭和34年には中部電力所有の専用軌道を移管し井川線(南アルプスあぷとライン)の運行を開始され、昭和51年には全国でいち早くSLの復活運転を実施し、観光鉄道として全国的な知名度を獲得した。

「長島ダム・井川ダム」
静岡県中部地域は、東海道新幹線や東名高速道路の開通に伴って首都圏や名古屋市などへのアクセスが格段に向上。
工場進出や物流の中継拠点として産業整備が活発化、それに伴い急速に人口が増加していった。
このため上水道の需要が増大し新規の水供給が不可欠、大井川は慣行水利権や発電用水利権が既得権として設定されており、新規に取水するのは他の事業者との調整が必要であり、困難が予想された。
このため新たなる水がめが求められた。
大井川に多目的ダムを建設して大井川流域の治水と利水を賄おうとする機運が高まり、1972年、上流部、大井川ダムの直上流部にあたる本川根町梅地地先にダムを建設する計画が。
1974年の昭和49年、「大井川水系工事実施基本計画」の一部改訂を受けて正式なダム事業として事業が開始された。この「大井川総合開発事業」の中核施設となったのが「長島ダム・その奥に井川ダム」である。

「千頭」静岡県川根  県中北部。
江戸時代から木材・お茶の集散地・大井川の上流の景勝地でもある。
寸又峡・南アルプスの登山基地、千頭ダムは、1935年完成している。

                   智者山観音像説明板 (智者山1291m)


                       小さな吊橋


                        山道へ


「智者の丘公園」

千頭の町や大井川を見晴らす小高い丘の公園。
しだれ桜でも、地元の人気公園、智者神社もある。
大井川の流れや千頭駅、SLの姿を眺めも。



                         川沿いの歩道


                         智者の石と鳥居


          智者山から流れ下る沢で、長い歴史「智者」の聖水を浴びてきた「石」。


                          智者神社案内板


                          千頭周辺のマップ


                        ところどころに渓流が


                          大井川へ


                           両国橋




                            吊橋




                          井川線の陸橋


                         井川線のトンネル(単線)


                       千頭駅の次の駅「川根両国駅」


                            千頭橋(車専用道路)


                            歩道橋


「駿遠境目の武田流城郭 小長谷城」(土豪小長谷氏代々の居城であったと言われているがその詳細は不明)
城址の遺構(丸馬出し等)から見れば甲斐武田氏の手に成る城であったことは明らかと云う。
武田家臣となった駿河先方衆三浦右馬助員久が在城していたことも史料的に確認されている。
時期的には、1575年、以降の築城と推測・武田氏が小長谷氏の城を改修して築いたものなのか、あるいは新築したものであるのかは不明。
永禄十一年(1568)、武田信玄による駿河進攻時に駿府の今川館において戦った今川方武士八名の中に小長谷氏の名が記されている(「甲陽軍鑑」)。
小長谷氏は、。今川氏の家臣であったが、今川氏が滅び、武田氏による駿河支配が進むにしたがって、小長谷氏は武田氏に従った。
当主は小長谷長門守という。長門守の屋敷地は小長井(東藤川)集落の中心部に構えられていたといわれる(「本川根町史」)。
この屋敷が平時の居館であり、小長谷城は非常時に立て籠もる詰の城であったと見ることも、
規模的には物見櫓を設けた程度の簡素なものであったかもしれないと云う。
武田の支配下に置かれた小長谷氏の事績は伝えられていないが、1575年、長篠合戦で武田氏が大敗を喫して以降、小長井の地そのものが武田氏の注目するところとなるのである。
この年八月、「諏訪原城(島田市金谷)が徳川家康に落とされ、遠江における武田方の重要拠点高天神城が孤立、徳川勢力は大井川にまで迫った。
翌年には北遠江の犬居城主天野氏も徳川に追われ、小長井の地は武田方の最前線となってしまったのである。
小長井は駿府へ通じる道とともに山伏峠を経て甲斐へ通じる道の起点、武田氏による小長谷城の突貫工事が始まったのはこうした状況に対応したものであったことは間違いないと云う。
当然のことながら小長谷長門守以下集落を挙げてこの工事に関わり、巨大な堀や土塁の構築に目を見張ったに違いないと云われる。

                小長井城のあった「山」。堀・馬出し・曲輪・土塁・社殿などが


「井川湖」静岡県静岡市で県の北部・大井川上流の井川、ダムは、1957年の昭和32年完成している。(人造湖)
当然工事軌道は、井川線・林道は、静岡市と結んでいる。「奥大井県立自然公園・休暇村・昭和の森・・」整備されている。

                            茶畑


「井川線は」・千頭駅ー川根両国ー沢間ー土本ー小山ー「奥泉駅」ーアプトいちしろー長島ダム」ーひらんだー奥大井湖上ー温泉ー尾盛ー閑蔵ー大井駅
寸又峡温泉は、奥泉駅からバス30分(美女づくり湯)で知られている温泉。

次は、隣の「島田宿」へ

日本三奇祭のひとつ島田大祭

$
0
0
「島田髷祭」
毎年9月第3日曜日に、島田市にて行われている島田髷の考案者とされる「虎御前」を偲ぶ祭り。
1933年9月19日に行われた虎御前感謝祭以来、島田髷祭として行われている。
1968年以降から、毎年実施されるようになり、2008年で51回目の開催。数十名の参加者が日本髪を結い、お揃いの浴衣に丸帯、袋帯等を結んで奉納踊りを舞う(島田髷道中)と、虎御前の菩提寺でもある「鵜田寺」にて髷供養感謝祭を行う。
島田髷をはじめとして兵庫髷、勝山髷、笄髷といった多様な日本髪を見ることができると云う。
かつらを使用する者は数名にとどまり、ほとんどの参加者が地毛で日本髪を結う。

神楽坂はん子の「芸者ワルツ」 あなたのリードで 島田も揺れる チークダンスのなやましさ 乱れるすそも恥ずかしうれし・・・・。
島田と言う髪型を結っていた芸子さんをリードしてチークダンスを踊っていたら、踊りが激しいので髪型の島田が揺れた・・・。
その日本髪島田髷・島田宿 「箱根八里は馬でも越すが、越すが越すに越されぬ大井川」ー吾妻鏡にも架橋・渡船・川留め・対岸金谷が。
静岡県中部、大井川下流東岸扇状地で、中洲微高地で、島・洲・新田のつく地名が多い。
江戸に入り、東海道の宿場に、川留になると旅人は数日滞在した。
対岸が「金谷」で、近代以降大井川水系の広大な山林を背景にした木材集散地、又、製材・製紙・木工機械などが発展した。

東海道本線・・・・御殿場ー三島ー沼津ー原ー吉原ー蒲原ー由比ー興津ー江尻ー府中ー鞠子ー岡部ー藤枝ー島田ー金谷ー掛川・・・・。

                          JR島田駅前


日本臨済宗開祖「栄西」 1141-1215 喫茶養成記を書いた。
3代将軍源実朝に、茶の効用を説いた。京都に「延暦寺」は、天台宗・真言宗・禅宗の3宗を兼ねた道場を・2代将軍頼家の「建仁寺」住職、
鎌倉で北条政子の「寿福寺」の住職になっている。
入宋で臨済宗を学び、天台宗復興の為禅宗を取り入れ、茶の種を持ち帰っている。

                            栄西像


「駅前 松尾芭蕉句碑」
駿河路 駿河の国に入りー「するがぢや はなたち花も ちやのにほい   はせを」

    1694年京都に向かう途中大井川の川留め、4泊をーその時の友人にあてた手紙で詠んだ句


川越ー肩車越し・連座越しが一般で、料金はその日の水量と川幅で決まる。
水深が「1.4m」で川留め、最長でで1か月に及ぶことも、宿に落とされる金額莫大に。





「大井神社」

    大井川の神霊を祀る神社で、3年に1度行う島田大祭(帯祭り)で知られる。


祭神は3柱ー弥都波能売神、 水の神・波邇夜須比売神 土の神・天照皇大神 日の神。
(文献上、「大井神」は、大井川の神格化が始まりで、人格神3神は、後世の祭神・特に水神である弥都波能売神に大井川の神格化の名残り)


創建不詳。
国史では、貞観7年の865年、に駿河国の「大井神」の神階が従五位下に昇叙された旨の記事がある。
しかし「延喜式」神名帳には記載がないため、いわゆる国史見在社にあたる(神名帳では志太郡条が欠落する)。
駿河国内神名帳では、志太郡に「大井天神」の神名で正五位下の神階を有する旨とともに記載。
大井神社では、流着伝説が残されており、元は大井川上流の谷畠村の大沢(現・榛原郡川根本町)に祀られていたが、1276年、洪水で流されて島田に漂着し、以後は島田の下島(現在の御旅所の地)に祀られるようになったという。
この元宮伝承地である大沢地区では、現在までに「大井神社旧社跡」碑が建てられ、大井川は農耕に欠かせない一方で洪水も繰り返したことから、流域では大井川に対する信仰が深く、「大井神社」が50社以上も分布することが知られるが、ここが、中心的な存在になる。
江戸時代、1604年、大井川の堤防決壊により野田村の御手水ヶ谷に一時遷座したが、1615年、下島に戻った。
さらに1689年、島田宿の発展に伴い現在地に遷座していると云う。

社領としては、今川氏真から若干の朱印地が寄せられたほか、徳川氏の時に除地5畝9歩があったとある。
明治維新後、明治8年、近代社格制度において郷社に列し、明治41年、県社に昇格し、戦後、昭和41年、神社本庁の別表神社に加えられたと云う。



「島田大祭」(帯まつり)は、元禄8年の1695年、始まると伝えられ、現在は3年に1度(寅年・巳年・申年・亥年)の10月中旬の3日間に行われる。
帯祭りでは、特に最終日の神輿渡御神事の際の大名行列が知られ行列は、元禄絵巻さながらのもので、大奴が安産祈願の帯を木太刀に下げて練り歩く(「帯祭り」の由来)ほか、疫病退散を願う鹿島踊り、子供が長唄に合わせて歌舞伎踊りを披露する屋台等が付く。祭りの間、島田市の中心部は7つの街に分けられ、1-5街では屋台を中心とした長唄祭り、6街では鹿島踊り、7街では大名行列と大奴の練り歩きを行う。

山梨県富士吉田市の吉田の火祭、島田大祭、愛知県稲沢市の国府宮はだか祭りを「日本三奇祭」としている。
大名行列「島田帯祭の大名行列」として、鹿島踊りは「島田鹿島踊」としてそれぞれ県指定無形民俗文化財に指定。










                 福寿の手水鉢ー武州玉川の崇敬者奉納とある


                       神社最古の奉納灯篭                 


                           参道


次回は蓬莱橋へ。

島田市 世界一長い蓬莱橋 武士たちの茶畑

$
0
0

東海道の中ほどに位置する、静岡県「駿河路」
駿河湾がきらめく天下の景勝地、徳川家康が、終の棲家として選んだ地で江戸時代初期の駿河路は、「家康詣で」をする国内外の要人たちで活気にあふれ
広重が描いた絶景・弥次喜多が食べ歩いた名物、そして東海道一の難所は、「大井川」。
江戸時代に東海道を抜けるには、難所と呼ばれるところが2か所、1か所は、「箱根の峠越え」・1か所が「大井川」。
なかでも大井川は、「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と唄われたように、箱根以上の難所であった。
そんな大変な大井川を渡るのに、なぜ橋や渡し船がなかったか。そんな素朴な疑問が。
増水により川止めが2~3日も続くことが、また、大井川を渡るためには、川越人足とよばれる人たちに肩車をしてもらうか、蓮台と呼ばれる梯子のようなものに乗せてもらう以外に方法はありませんでした。
旅に慣れた人の間では「川を越してから宿を取れ、川の手前で宿を取るな」というのが常識となっていたと云う。
旅人がそんな不便な思いをしているにもかかわらず、江戸幕府はどうして大井川に橋をかけなかった。また、なぜ大井川には渡し船がなかったのでしょう
一般的には、江戸を守るための軍事的な理由から、幕府によって大井川には橋を掛けることが許されていなかったと云うが、大井川に橋がかけられていなかった理由は、いくつか考えられ、川の勾配や川幅といった地形的な問題や水量などを考えると、当時の架橋技術では橋を架けることが困難であったということ。確かに明治12年になって大井川に橋がかけられましたが、その長さは900mにもおよび、世界一長い木造橋といわれた。
江戸時代の架橋技術でそれだけの橋を作ることは、実際に難しかった事・しかし、それだけが理由ならば、なぜ渡し船がなかったのかという疑問が。
実は、ここに大井川になぜ橋がかけられなかったのかという本当の理由は、
川越人足の既得権益者を守るためと渡し船を認めてほしいという請願が幕府に対して何度も出されていると云う。
しかし、幕府はそれを頑なに認めようとせず、島田と金谷の両方の宿で、川越人足を束ねる組織がつくられ、その業務を独占的に行うことを幕府から認められていたのが大きいと云われている。
川越人足は、最盛期には1000人程度もいたといわれ、当時においては巨大産業の一つ。現代の日本においても、従業員が1000人規模となるとかなりの大きな企業で、当時では、他に考えられなかったと云う。

「勝海舟」 1823-99 幕臣・江戸無血開城に尽くした。
江戸本所生まれ、咸臨丸艦長、アメリカへ渡る。神戸海軍操練所長を務め、徳川家存続に尽力した。知人に「神戸は早晩必ず繁栄する土地、地所などしっかり買うように」と勧めたと云う。晩年茶畑開墾に・・・。
                         「勝海舟」像が。


勝海舟達は、咸臨丸で渡米したとき、茶の世界的な商品価値を知り、旧幕臣に「牧の原の開拓」をすすめたという。
明治2年、新政府の命を受け幕臣「中條景昭」ら、幕臣達が「牧之原」1425HAの茶畑の開墾し勝海舟は、物心両面で助力を続けた。
明治6年、仕事を失った川越人足達も41HAの茶畑を開墾し、大井川を渡って「島田」と交流を持ち、旧幕臣達も年々増えていったと云う。
当初は、小舟で大井川を渡っていたが、新政府は橋を架ける事を許可した。それが「蓬莱橋」である。
現在は観光用の橋であるが、勝海舟達の存在を抜きに語ることは出来ない。

                   天下に名を轟かせた暴れ大井川


壮大な街道筋の「牧の原茶畑」は、「金谷」。
小夜の中山で牧ノ台地・武田勝頼が1573年再築したと云う諏訪原城がある。
大政奉還後に職を失った幕臣達や川越人足達が開墾した。
武士たちは、紋付き袴に陣笠と鉢巻き姿で、尻もちをつきながらの野良仕事に励んだと云う。その道のりは厳しいものであったと云う。

                    蓬莱橋(明治12年完成)


                    全国でも数少ない「木造賃取橋」


                   長さ約897m-世界一の長さの歩道橋


                        島田駅から約20分


                     大古大井川は、流路移動が


                         蓬莱の島台


                        金谷~島田宿へ


                        恵比寿尊天像




                     島田宿は大名一行で約百両也


「鵜田寺」 虎御前と島田髷 で知られ、島田最古「野田薬師如来」
島田出身の遊女・虎御前が考案したと言い伝えられている<島田髷>を結って、市内を踊りを混ぜながら練り歩く<島田髷まつり>が9月第3日曜日
に行われ、最後に虎御前の菩提寺・鵜田寺で髷供養感謝祭が行われている。
島田髷ー日本髪で最もポピュラーな髪型で、江戸時代初期に島田宿の遊女の間に広まり、種々の型が生まれ一般に広り、その起源が虎御前にあると伝承されている。
虎御前は、<曽我兄弟の仇討ち>の兄・十郎の妾で、一生兄弟の菩提を弔ったといわれて、その虎御前の供養塔が、ここ「鵜田寺」にある。

鵜田寺は、758年開創されたと伝え、眼病にご利益がると信仰を集める薬師如来を本尊とし、野田薬師と呼ばれている。

山号:天正山・真言宗泉涌寺派の寺・開創は、758年・本尊 薬師如来・薬師如来坐像は、県指定文化財 藤原時代 像高52cm


                          弘法大師像が


                            本堂


「島田市バラの丘公園」有料

                    平成4年開園・バラは、市の花


                         香の部屋も


                      大温室ートンネル温室も


                       花博のバラ園




日蓮宗の「正覚寺」  本通り沿いにある。



                               山門


「大善寺」の梵鐘・時の鐘
鐘は、天明4年・1784年、「時の鐘」として備え付けられたという。以後、昼夜六時(2時間おき)に、この鐘によって宿民は刻を知らされ、明け六ツ(日の出時刻)と、暮れ六ツ(日の入り時刻)の鐘の音は、大井川川越の始まりと終わりの合図となっていた。
この鐘は昭和19年、太平洋戦争の際、供出され、現在の鐘は昭和48年に新しく造られた。
毎月1日・15日と大晦日に撞かれていると云う。



                                山門




                                本堂


島田観光出来なかった所ー智満寺「天台宗、千手観音、本堂」・東光寺日吉神社「猿舞」・天徳寺「曹洞宗の山門」・白岩寺・静居寺「惣門」等。
次回は、静岡駅下車。

徳川家康のふるさと駿府城 

$
0
0

東海道の中心として栄えた城下町「静岡市」。初代将軍の徳川家康は幼い時と晩年を過ごし、そして最後の将軍・徳川慶喜も戊辰戦争で破れた後、謹慎中を含めてその生涯の約20年を、ここが、静岡市で過ごした。
徳川慶喜が静岡市へやって来た時は33才で、多くの時間を写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など多くの趣味に没頭する生活を送っている。
写真や狩猟の際には屋外に出かけ、見かけた静岡市民からは「ケイキ様」と呼ばれて、多くの人々から親しまれていたと云う。
徳川慶喜が静岡市で住んでいた場所は、JR静岡駅から徒歩5分の場所にある、静岡随一の名園「浮月楼」一般公開されている。
市の繁華街からすぐ近く、周囲の喧噪とはかけ離れ静けさに包まれた場所に、「浮月楼」はあり、「浮月楼」こそ、徳川慶喜が大政奉還後の明治2年から約20年あまりを過ごした屋敷跡。
浮月楼は、徳川慶喜が平安神宮を手がけた京都の庭師に造らせた回遊式の庭園が元になっていると云う。慶喜はこの美しい庭を眺めながら、静かに過ごしていましたが、近くに東海道線が開通し、汽車の音がうるさいため、別の場所に引っ越しをしている。その後、残念ながら屋敷は火災で焼失し、現在では庭園や一部の建物を残すのみで、現在は、料亭「浮月楼」として約2000坪の庭を眺めながら食事を楽しむことができ、多くの静岡市民にとって憧れの催事場となっていると云う。
1868年に慶喜は退隠・後に養嗣子「田安亀之助ー徳川家達」が藩主となり、「駿府城」に移っている。
その後、「廃藩置県」により静岡藩県知事に家達・1891年明治24年、家達東京へ「駿府城」は静岡市に払い下げられ「中央公園」となる。

                          徳川家康像


「徳川家康」 1542-1616 関が原で天下を、江戸幕府創始者・征夷大将軍・松平広忠の子。
織田信長と同盟、「小牧・長久手」で豊臣秀吉と戦い講和・北条滅亡後、秀吉から「関東250萬石」を与えられ・豊臣5大老の一人に
石田三成、関が原で破り対抗勢力一掃・大阪の役で豊臣氏を滅ぼす。
家康は、6歳で人質    物まねをする珍鳥を貰ったが
「この鳥には自分がの声がない・人も器用な輩は知恵が無いものだ・このように己を持たぬ鳥は、大将の玩具にふさわしくない」と突き返した。
家臣達は、家康の聡明さに感嘆したと云う。
「三方ケ原の戦い」で、信玄の上洛を阻止するか、黙って見過ごし通過させるかの瀬戸際の選択に阻止を選び、寡兵で大軍にたち向かった。
徳川軍惨敗し、家康退却途中で恐怖のあまり脱糞・・。が、のちの勲章となった。
家康は、人徳者で、信長が罵詈雑言を浴びせた武田勝頼の首を丁寧に供養させ「若気の至りでした」慇懃に述べたという、これを知った武田の旧臣は、
家康に感謝し、抜群の働きを塩田と残っている。
遺骨は遺言通り、久能山・日光東照宮へ。晩年は、ここ、駿河城で。

                       朝の静岡駅前


「徳川慶喜」 1837-1913 徳川幕府の幕引き最後の将軍。
徳川15代将軍・常陸国水戸藩主徳川斉昭らの7男、一橋家を相続、家茂を補佐して幕政を担った。積極的幕政改革推進したが慶応3年「大政奉還」を。
慶喜の英明と行動力は、討幕派陣営にも知れ渡っていた。木戸孝允は、「侮れない、家康の再生を見るようである」と評している。

「竹千代時代」
母親とは3歳で生き別れし、父親とは8歳で死別した。
物心ついてから竹千代の苦難が始まったが、駿府に人質として来た竹千代には、じめじめとした暗い人質のイメージは少ない。
今川家軍師の臨済寺雪斉和尚からも勉学指導を受けるなど、通常の人質とは大きく違った。
一般的に人質というと暗い座敷牢の感覚であるが、やせても枯れても竹千代は岡崎のプリンスで、人質と言うよりは岡崎から来た「政務見習い」として
駿府に預けられたという見方を。
竹千代が人質の身分であったことには間違ない、竹千代の駿府生活は、8歳から19歳まで。

                     竹千代時代の家康。


「駿府城」 静岡駅を北に約700m。 徳川家康の居城跡   面積ー約50万M2
                         マップ


               1607年「今川氏・駿府城地」大拡張して築城した。

                         外堀


                    本丸と二の丸の堀はうめられた。

                          石垣


                     三の丸外堀と石垣は再建

                          県庁が


                       駿府城公園内のマップ


                  大手御門  三の丸堀 当時は土橋






                          二の丸堀


                           中堀




                      巽櫓は往時を忍ばせている。




                           未申櫓


















                        発掘が


静岡市は、駿河国府所在地で、「府中・駿河など」呼ばれ、明治維新から「静岡」に。

                     駿府城公園の廻り


さすが徳川家康の城下町、幼少の頃、「今川氏」人質として駿府で過ごしている。名物に篭細工・桑細工・紙絹、紙合羽 、藍鮫細工などで
江戸時代は都会の府として商人が多く集まったという。安倍川餅を食べに、、、。

駿府博物館の家康・勝海舟の書跡 県立美術館の池大雅 片山廃寺跡・・などがあるが又に。

これで静岡は終わります。

静岡 おせんげんさま浅間神社

$
0
0

静岡県の面積は全国13位、北は南アルプス・南は太平洋で温暖・多雨ー東海型気候下にある。みかん畑や茶畑の暖地性植物の栽培条件に適している。
東海道53次のうち22宿が県内にある。そのため、東京と京阪神の」両中心地の経済、文化、政治の接触地域でもある。
1854年のぺりー艦隊が下田に停泊・下田開港・1889年に東海道本線開通・1934年丹那トンネル開通・1968年東名高速路が、地形も相模灘・駿河灘
遠州灘に面して水産業にも恵まれている。焼津のカツオ一本釣り、御前崎漁場は南方へ拡大さ。せ世界の海へ。
静岡市は、県中央部にあり、県庁所在地都市・江戸時代から徳川家康の謁見するために、12万人の人口の一大としであったと「ドン・ロドリゴ」が
松尾芭蕉は、「駿河路や 花たちばなに 茶の香り」幕末開港後製茶が静岡を支える産業になったという。
早くから人が住み着いた静岡は、「登呂遺跡」でも知られるが、旧石器・縄文・弥生・古墳時代の遺跡が多く、646年遠州国・駿河国が成立している。

東海の日光「おせんげんさま・静岡浅間神社」 駿河国総社・富士新宮

神部神社・浅間神社・大歳御祖神社の3社を総称して「静岡浅間神社・おせんげんさま」広く信仰されている。
3社とも鎌倉時代以降歴代幕府の崇敬を受けており、特に江戸時代の徳川氏からは、金額10万両の巨費で現在の社殿群が。

                         赤大鳥居


「山田長政」 ~1630 シャム国王に重用された日本人・駿河国生まれ、慶長16年タイに渡り、9年後、日本町の頭に「日本人部隊」を卒いて
シャム王国に尽くした。
                   山田長政産土神としても知られている。


                主神ー大己貴命・木之花咲耶姫命・大歳御祖命

                           神社マップ


                祭儀 廿日会祭ー春の訪れ告げる祭典が(舞楽)4月1日から5日
                静岡まつりと同時。 
                            楼門(重文)


       宝物ー家康公の太刀・三十六歌仙扁額・今川家、武田家、豊臣家、徳川家などの古文書・・・。

賤機山古墳(国指定史跡)


              末社ー麓山神社・少彦名神社・八千戈神社・玉鉾神社などが

                           本殿


「賤機山古墳」は、山の南端の宮ヶ崎町 古墳時代の円墳が、石室には家形石棺・装身具・馬具・祭祀具・武器などが出土したと云う。

                           大拝殿(重文)


                        麓山神社社殿には、百階段を


                            八千才神社


                            総門(重文)




                           舞殿と回路


                           手水舎


                            神水


・一つ石ー神社の周りの水路の底に面して一段の石が聞かれていると言う。
・叶馬ー左甚五郎作、安永の火災で二頭の木馬逃げたが一頭は、そのまま残ったという。
・水飲み竜ー左甚五郎作 火災時池の下で水をはいて御殿にかけたと伝わる。・・・七不思議として話が残されている。





                            境内


                 神社近くの骨董屋さんで「家康しかみ木彫り」が




                           駿府城外堀


                          駿河から見た富士山


駿府城公園へ。

江戸っ子だってね 寿司食いね~清水港、日本平

$
0
0
「薩った峠の戦い」薩った山の戦いは、南北朝時代の1351年、薩った峠にて、足利尊氏の軍勢と足利直義の軍勢との間で行われた合戦。
「観応の擾乱」により、北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂。

直義派による高師直・高師泰兄弟の謀殺後も対立は止まらず、1351年、直義は、
「桃井直常・斯波高経・山名時氏をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、北陸・信濃を経て鎌倉へ至る」
尊氏は南朝と和睦して後村上天皇から足利直義・足利直冬追討令を得た上で、足利義詮を京都に残し、「仁木頼章・仁木義長・畠山国清らを伴って東海道を東進した」

直義は、上杉憲顕・石塔義房・石塔頼房らの軍勢とともに西進。両軍は、東海道の難所である駿河国薩った峠で合戦となった。
この合戦に勝利した尊氏勢は、その後、相模国早川尻(小田原市)などの戦いでも直義勢を破り1352年、直義は尊氏に降伏した。
浄妙寺境内の延福寺に幽閉された直義は、2月に急死する。病死とされているが、「太平記」は、尊氏による毒殺であると記している。

「甲相駿三国同盟」は、1554年に結ばれた、日本の戦国時代における和平協定のひとつ。
甲相駿はそれぞれ甲斐・相模・駿河を指し、この時それぞれを治めていた武田信玄・北条氏康・今川義元の3者の合意によるもので、締結時に3者が会合した
という伝説から「善徳寺の会盟」とも呼ばれている。

武田氏の信濃侵攻は、5回の川中島の戦いを契機に収束し、武田氏は方針を転換し1568年には同盟を破棄し、駿河今川領国へと侵攻を行う(駿河侵攻)。
武田氏の駿河侵攻は甲相同盟の破綻をも招き、北条氏は上杉氏と越相同盟を締結し、武田氏に対抗した。武田軍は京都を目指した。


海側の下道と、ここ中道の薩った峠      昔の石塔          合戦案内板            
    

薩った峠は、真の宿本陣、西沢一里塚跡、~興津川一里塚跡の国道一号線バイバスを「下道」といい、東海道本線の山よりを「中道」その上の山道一部通行不能を
「上道」で、旧東海道は、「中道」をさすようだ。「薩った峠の合戦」は、狭い道でどのようにして戦ったのか想像する。

東海道旧道          鰻の寝床の街並みが             中道から下道の水路
    

さった峠の名は、海から引き上げられた「地蔵菩薩・薩った」を祀ったことからという。広重が描いた富士の絵は、中道からと思える。
東海道五十三次でもここだけが、今でも感じ取れるという。この道以外は、波打ち際の危険な「下道」を抜けたという。ここでも「親不知、子知らず」の道と呼んでいる。

狭い旧道の中道                 興津川・広重はこの辺から
  

「御穂神社」は、三保の明神さんと親しまれ、奉納の舞いである「羽衣の舞」は雅楽「東遊び駿河舞」にその原形があると言われ、地元の保存会が伝承している。
三保の松原に舞い降りた天女の羽衣伝説で名高い。境内には羽衣の切れ端、白馬の像が安置されている。
樹齢200~300年の松の並木が500mほど続く「神の道」と呼ばれる参道がある。神の道を進むと、天女が羽衣をかけたとされる樹齢650年の老松、羽衣の松に着く。

春になると境内は山桜、かすみ桜など22種220本の桜で満開になる。駿河国三宮、創建は不詳、御廬神社とも記され、「日本三代実録」元慶3年に
「駿河国従五位上の御廬神に正五位下、下総国正六位上の子松神に従五位下を授ける」とあり、879年に正五位下の神階を授けられている。

松原神の道の入り口神社           鳥居               境内
    

重要文化財・ 太刀、 無銘、鎌倉時代の作。鎬造。糸巻太刀拵が付属する(市指定文化財)。本殿、 江戸中期の建立。入母屋造り。
その他・ 羽衣の裂 羽衣の笛 三保古絵図ねど。

神社前                                    本殿
  
 
鬱蒼とした境内内                      三保の松原神の道松並木
    

「神の道」は、御穂神社から羽衣の松までを結ぶ松並木を云う。清水港から駿河湾に突き出した半島が三保。東岸に広がる三保の松原は万葉の昔から知られた景勝地で、
霊峰富士を仰ぎ、松林の緑と打ち寄せる白波、海の青さが織り成す風景は、今も変わらない。

歌碑の立て看板が            並木
    

昔から親しまれている三保半島の南側に広がる松の古木の景勝地。総延長7km、5万4千本の松林が生い茂る海浜と、駿河湾を挟んで望む富士山や伊豆半島の美しい眺めで有名。
 
風雪で曲がりくねった古松が             松並木のトンネルを
    

1980年代から三保の松原の砂浜は、波の浸食により消失の危機に見舞われている。
原因は、1960年代に安倍川により流された土砂を大量に採掘したため、土砂の需給バランスが崩れたことと考えられている。
現在、静岡県は海岸から百メートル程の地点に消波ブロックを点在して設置し、砂を補給するなどの養浜対策を講じている。
また「羽衣の松」を含む多くの松林が徐々に枯死する症状も進行している。静岡県などが対策に乗り出しているが、根本的な解決策が見つけ出せずにいるのが現状。

並木を抜け砂浜海岸へ
  

日本新三景の一つ三保の松原は、天女の羽衣の松が樹齢650年。晴れていれば、老松林越しに見える富士山の姿も絶景。
江戸時代には三保全体が松林に覆われ、清水湊を挟んだ対岸の江尻宿からは、海にぽっかり浮かんだ松林が見れたという。

羽衣伝説の三本松の一本が枯れかけている  自然のバランスが崩れ浸食
  

静岡茶摘み、
         夏も近づく八十八夜
                    野にも山にも若葉が茂る
                         あれに見えるは
                               茶摘ぢやないか
                                  あかねだすきに菅の笠

日本平へ。
清水駅は、貨物の取り扱い駅であった。2002年まで、JR貨物の駅。車扱貨物のみの取り扱いで、武田薬品工業の化学薬品の取り扱いを、新南陽駅から輸送された原料の(PPG) をタンクローリーに詰め替え輸送していた。
2001年まで、現在も駅北東にある東燃ゼネラル石油清水油槽所の荷役設備へ専用線が続いており、潤滑油発送が行われ、発送先は汐見町駅や安善駅、1980年代までは駅南東にある豊年製油静岡工場(現・J-オイルミルズ静岡事業所)へ続く専用線もあり、接着剤などの発送が行われている、国鉄分割民営化前には、駅舎北に複数の有蓋車用貨物ホームが残っている。

現在は、明るい駅舎と駅前にサッカーの像がある。
近代的駅に生まれ変わり、清水市は、"日本のブラジル"といわれ、清水で、定期的な国際交流試合が数多く行なわれている。
その数は国内で開催される外国との年間60の交流試合の4分の1に当たり、サッカー交流している都市もブラジル、韓国、カナダ、台湾、ウルグアイ、アルゼンチン
とアジア、アメリカ大陸にまたがる。
各種大会の招待チームに至っては、ヨーロッパのチームの参加例も多くまさに全世界的な広がりを見ることができる。
組織化、国際化などの点で清水は日本サッカー界あるいは日本のスポーツのパイオニア的な地位を占め、全国大会での優秀な成績がその有効性を裏付けていという。

JR清水駅前ロータリー                  サッカー像が


「清水駅前銀座商店街」は、清水駅前銀座アーケード街で120店舗が並ぶ、「七夕祭り」「鉄火巻日本一に挑戦」などででも知られている。
地元のお客との結びつきを深め賑わいを見せている。店舗は、 食品、衣料など多種にわたり、個性豊かなお店が多い。

商店街通り             店の間に地蔵尊が
  

古代の清水は、1万年以上前であったと言われており、縄文前期にはすでにムラが形成されていたことが庵原の大乗寺平遺跡の出土遺物から立証されている。
5世紀ごろには大集落「イホハラの国」が出現し、律令制が確立する前は、廬原国造廬原氏が治める廬原国の国衙が置かれ、県中部地域の中心であった。
日本書紀には、663年の朝鮮「白村江の戦い」に当地から廬原君臣に率いられた万余の健児(兵士)が出港して行ったことが記述されている。
日本武尊の伝説
につながる草薙神社や三保の松原の美穂神社が、平安時代の延喜式に記載され、江戸時代まで戦国時代に駿河の今川氏領国を経て、甲斐国武田氏によって
駿河が領国化されると、武田氏の水軍基地になり、江戸時代には江尻に東海道江尻宿が置かれる一方、清水港は駿府(現在の静岡駅周辺)の外港として機能し、江戸への中継基地として富士川舟運を通じた信濃・甲斐方面からの廻米輸送で賑わっていた。

「市指定史跡 清水天王山遺跡」有度山東麓の扇状地に立地。
縄文時代から古墳時代にかけて生活が営まれており、そのなかでも縄文時代後期・晩期を主体とする集落跡。
住居跡やお墓の跡・竪穴式住居・平地式住居が3軒見つかる。
(竪穴式住居:地面を一段掘り下げて炉や柱を設置し、そのまわりに周堤を築き、平地式住居、地面を掘り下げず炉や柱を設置し、そのまわりに周堤が、遺物包含層が何重にも存在し、縄文土器の編年研究上、特に重要な遺跡として知られている。
この地域では数少ない縄文時代後期・晩期の貴重な遺跡。

清水と云えば清水港           港から富士山が美しい、今日は薄曇り


清水港は、663年「やまとの国の救将 廬原君臣 健児(兵士)万余を率いて、清水湊を出て、海を越えて百済に至らむ・・・。
これが清水港が史書(日本書紀)に出てくる最初である。
 
いろいろな船の出入りが多い港              清水港


童謡「赤い靴」の歌詞は、赤い靴 履いていた 女の子 異人さんに  連れられて 行っちゃた

歌詞の中に出てくる、「いじんさん」というのは幕末から明治にかけてよく使われた言葉で、異人さん、異邦人つまり外国人のことである。“青い目”と歌われている事から、西洋人と見られる 

「有度丘陵・日本平」は、丘陵は駿河湾沿いにあり、最高地点は有度山の標高308メートル。
広葉樹林が多く、茶畑やミカン畑も広がる。この丘陵は撓曲によってできたもので、過去10万年間で300mも隆起しており、これは日本でも有数の激しい
地殻変動である。丘陵の西から北縁にかけては活断層が走っている。

丘陵は眺望に優れ、1959年には「日本平」として国の名勝に指定された。
1980年の日本観光地百選コンクールでは第1位となった。頂上付近からは富士山や伊豆半島が駿河湾越しに見え、北には赤石山脈も見える。
眼下には清水区の街並みと清水港が広がり、夜景のスポットにもなっている。

赤い靴の歌碑                            母子像


「日本平ロープウェイ」は、名勝「日本平」の山頂と徳川家康ゆかりの史跡「久能山東照宮」を5分間で結んでいる索道である。
ゴンドラから四季折々姿を変える屏風谷、駿河湾から遠く伊豆半島、御前崎を望みながら全長1065mの空中遊覧が楽しめる。

              日本平から下界を               放送アンテナ      


「船越堤公園」は、1988年にできた面積94000㎡の大きな公園です。船越堤には様々な植物があり、中でも約千本の桜(ソメイヨシノ・他)が有名。
船越堤の桜はワシントンのポトマックというところから里帰りした桜で、今でもワシントンのポトマック河畔の桜は毎年咲き乱れ、桜祭りが催され日米親善の
シンボルとなっている。
清水とカナダとの交歓留学記念植樹や平成18年に秋篠宮家の長男として誕生した悠仁親王殿下御誕生奉祝植樹などがされている。
散歩コースとして、地元の人々で多くの人に親しまれている。

公園入口
  

天文台(41cm反射望遠鏡・田阪鏡、旭精光製赤道儀)は、定期的に星を見る会が催されている。せせらぎの小川では夏が近づくとホタルを見ることができる。
散歩やトレーニングをしている人がたくさんいた。車椅子の方や階段が苦手な方は横にスロープが整備されている。
階段を登った所からの景色は、清水市街を眺めることができ、晴れた日は富士山が見えると云う。
紅葉の里の散歩道がある、この脇には戦時中に使われていた防空壕があった。

散歩の伯父さん元気に「おはようございます」と挨拶が
  

奥にはステージがありイベント等も行われ、花見の宴会会場でにぎわいを見せる。8月の清水港花火大会はここから花火を見ることができる。

整備された園内と濃い緑
    

「鉄舟寺」は、市清水区にある臨済宗妙心寺派の寺院、山号は補陀落山、本尊は千手観音菩薩。
飛鳥時代藤原氏の出身である久能忠仁が久能山東照宮付近に建立した。その後奈良時代の僧行基が来山して久能寺と号したという。
平安時代に入って天台宗に改められ、建穂寺と駿河を二分する勢いで栄え、1570年、武田信玄が久能山に城を作る(久能城)ため現在地に移され、
宗旨も変わり新義真言宗(真言宗根来派)に属す。

江戸時代には朱印寺領として200石余りを与えられ、多くの支坊を有したが、江戸時代後期あたりから衰退し、明治に入ると無住になって寺は荒廃してしまった。
旧幕臣で明治以降に静岡藩権大参事も務めたこともある「山岡鉄舟」が、臨済寺から今川貞山を招いて復興し、寺号も鉄舟寺と改められた。
鉄舟の書跡の遺品も多い。

鉄舟寺入口                        楼門
  

「国宝・久能寺経 法華経(久能寺経)19巻」 現存最古の一品経(法華経二十八品を一巻毎に書写したもの)。現在は東京国立博物館に寄託している。
鉄舟寺所蔵品の員数は19巻、そのうち陀羅尼品第二十六と普賢菩薩勧発品第二十八の2巻は補配本と見なされる。 なぜこのように立派な経典が都から遠く離れた地に納められたのか、は不明である。諸説として、京の戦乱を避けるため東国武士によって移された、鳥羽法皇の離宮であった安楽寿院や上皇がしばしば詣でた熊野三山と久能寺との関係性、などが挙げられている。
 
「重要文化財」 錫杖 康治元(1142年)年銘。
「県指定文化財」 木造千手観音像(観音堂)、 木造蘭陵王仮面 伝赤鶴(シャックル)作。
         高塚竹堂銅像など。

仁王像                  楼門の中                 高台にある鐘楼               
    

「山岡鉄舟」1836-88  徳川家存続に尽くした剣術家、槍術の山岡家を継ぐ、新政府軍西郷隆盛と会談し徳川家存続を訴えた。
山岡の「鉄砲突き」で恐れられていた。墓は、谷中全生庵にある。

山岡鉄舟像                              本堂と境内
    

「梅蔭禅寺」は、臨済寺妙心寺派、開山は足利時代と言われる古寺。境内には、清水次郎長と、側近の大政・小政・増川仙右エ門・お蝶夫人の墓がある。
入館料¥300円、
「侠客次郎長の墓」は幕臣から明治政府の郵政大臣を勤めた榎本武揚の書によるもの、侠客としては、全国唯一その半生の功労が認められ銅像が設置されて、
初代の銅像は太平洋戦争で供に出され、現在のものは昭和27年に堤達男氏により製作された。
背後の石垣は、駿府城を、前の池は駿河湾を表し郷里清水に根をおろした次郎長の心意気が感じられる。
次郎長博物館には黒駒の勝蔵から贈られた水晶玉・お守りの毘沙門天道中差・時計・望遠鏡・火縄銃等の遺品が展示されている。
 
                     本殿                   次郎長の墓(有料)
    

「清水次郎長」1820-93  博徒、甲州の黒駒勝蔵らと抗争、旧幕府艦隊の死体を収容し埋葬した。

「浪曲虎造さんの、森の石松」
  旅ゆけば、駿河の国に茶の香り、名題なるかな東海道、 名所古蹟の多いとこ。なかに知られる羽衣の松とならんでその名を残す、
   街道一の 親分は、清水港の次郎長の数多身内のある中で、四天王の一人で乱暴者といわれたる・・・・・・・。

境内                              清水次郎長像
  

「清水次郎長生家」は、新清水駅から歩いて20分位、次郎長生家の前は商店街になって、名前は、「次郎長通り」。
次郎長通りを歩いて行くと、次郎長生家は商店街の中に有る。商店街の一部に同化している。復元された建物ではなく、当時の生家そのままという。
生家内には、次郎長に関する展示物と、奥のほうにはお土産なども売っている。次郎長生家の裏手には巴川が流れていて、海に近い。

                      次郎長通り商店街       朝の街    
    

次回は、東海道「由井宿」方面へ。
Viewing all 683 articles
Browse latest View live