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Channel: syuの日記・気まま旅
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南武線谷保駅から国立 多摩川散歩(30)

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「JR南武線」立川駅ー川崎駅間は、 35.5km
多摩川とは距離は多少離れるが全線で並行し、右岸を走る南側では多摩丘陵東端に沿って多摩川の氾濫原を走る。
多摩川を渡った北側では立川崖線を登り、武蔵野台地上を走る。堤防は稲城市内の高架線や登戸駅付近で見える。
川崎市内では二ヶ領用水とも並行し、その本川および川崎堀とは中野島駅・宿河原駅・久地駅・武蔵小杉駅・平間駅の各駅付近で計5回交差。
大半が地下を通る貨物線(通称「武蔵野貨物線」 新鶴見信号場 - 梶ヶ谷貨物ターミナル駅 - 府中本町駅間)が南武線の南側の多少離れた所を通る。
立川駅では、中央本線や青梅線と接続しており、貨物列車や臨時列車の直通運転で頻繁に使われていたが、本数は激減。
南武線は、私鉄の「南武鉄道」により開業した路線。
上平間で代々名主を務める家の生まれで16代目当主、村会議員の「秋元喜四郎」が発起人総代となり、大正8年、鉄道院に
「多摩川砂利鉄道敷設免許申請書」を出願し、1915年、平間界隈の多摩川の堤防建設を、500名の村人全員が編笠をかぶって県庁に直訴した
「アミガサ事件」を先導した人物である。
申請は川崎駅を起点に橘樹郡の各村を経て東京府南多摩郡稲城村へ達するという蒸気鉄道の運営であり、多摩川の川原で採取した砂利を運搬するのが目的1920年、会社を設立し、社名を「南武鉄道株式会社」に。
終点を立川まで延長、府中町 - 国分寺町間の支線の敷設を追加で申請し、これらは単に砂利を運搬するだけでなく、多摩地域と川崎とを結ぶ
交通路線となることも目指したとも云う。
会社設立の際、資金集めに難航し、地元の発起人は次々と脱退し、後、浅野セメント・現在の太平洋セメントの「浅野総一郎」とその系列企業が
名乗りを上げ、浅野総一郎は既に青梅鉄道(現在の青梅線)を傘下に収めており、セメントの原料の石灰石を青梅鉄道から中央本線・山手線・東海道本線経由で工場のある川崎まで運んでいた。
川崎と立川を結ぶ南武鉄道を傘下にすればすべて自分の系列の路線で運搬することができ、輸送距離も大幅に短くなる。
両者の利害が一致し、南武鉄道は浅野系列となり、浅野総一郎の息子、「浅野泰治郎」が、1923年、南武鉄道の株5000株を入手し、筆頭株主に。
1944年の昭和19年国有化ー昭和62年民営化・貨物営業廃止ー現在に。

川崎ー尻手ー矢向ー鹿島田ー平間ー向河原ー武蔵小杉ー武蔵中原ー武蔵新城ー武蔵溝ノ口ー津田山ー久地ー宿河原ー登戸ー中野島ー稲田堤ー矢野口
稲城長沼ー南多摩ー府中本町ー分倍河原ー西府ー「谷保」-矢川ー西国立ー立川「27駅」。

               立川から3つ目の「谷保」で下車
  

JR南武線・谷保駅の駅名ー「やほ」と言うようになってしまったが、本来の読み方は「やぼ」。
    

「谷保・天満宮」国立市
主祭神ー菅原道真
社格等ー式内小社、府社 ・創建ー903年の延喜3年・例祭ー9月25日

              主な神事は、庭燎祭・うそ替え(11月3日)
    

東日本最古の天満宮で、亀戸天神社・湯島天満宮と合わせて「関東三大天神」。
江戸時代の著名な狂歌師の「大田蜀山人・南畝」が、「神ならば 出雲の国に行くべきに 目白で開帳 やぼのてんじん」と詠み、
ここから「野暮天」または「野暮」の語を生じたと逸話に伝える。
明治41年、有栖川宮威仁親王の運転する「ダラック号」を先頭に、国産ガソリン自動車「タクリー号」3台など11台が隊列を組み、
日本初のドライブツアーであるとされる、甲州街道を立川までの遠乗会(当時の新聞では「自動車遠征隊」と呼ばれた)が行われた。
谷保天満宮の梅林で昼食会が催され、いまも記念碑が。



「天満宮略縁記・谷保天満宮蔵」903年の延喜3年、菅原道真が薨去したとき、子息の菅原道武は、
自ら像を刻み、廟を建てて祀ったのが谷保天満宮の創建だとされる。
延喜21年、に道武が薨去すると、道武も相殿に合祀されたとある。
    

主祭神ー菅原道真・配祀神ー菅原道武。配祀神は、石土毘古神・天之日鷲命・倉稲魂命。

「天満宮略縁記」によると菅原道武は道真の子息であるとしているのだが、道真の子息に道武というものは実在しないという。
    

神社は、多摩川の河岸段丘(立川崖線)に沿って造られ、甲州街道から石段を下って境内に入っていくという天満宮としては珍しい構造。
旧甲州街道は、天満宮の南側を通り本殿より下に位置していたが、多摩川の流路がたびたび変わり渡し場が変遷していった結果、江戸中期以降は、
ほぼ現在と同様に境内の北側に街道が敷かれたとある。
学問の神・菅原道真を祀っており、またその歴史の長さから受験生やその親達がこぞって訪れ、受験シーズンには境内に合格祈願の絵馬が多数掛けられ、混雑する。
甲州街道側にある梅園は梅の名所としても知られ、毎年3月には「梅まつり」が。
稲荷神社・蒼守稲荷神社・淡島神社・第六天社・厳島神社・(五社) 稲荷神社・妙義神社・日吉神社・熊野神社・天照皇大神宮等の末社

重要文化財ー木造扁額(額文「天満宮」)檜材の扁額で、鎌倉時代中期の1275年、作。
サイズは縦68.2cm、横50.0cm。裏面に「建治元年乙亥六月廿六日乙丑書之 正三位藤原朝臣経朝」の銘がある。
木造獅子狛犬針葉樹材の寄木造で鎌倉時代の作。阿吽一対で本殿に安置されていたが、現在は宝物館に収蔵されている。

    

「下谷保古墳・敷石住宅跡・横穴」など古墳の多い所である。
多摩川の河岸段丘 青柳段丘の南側の沖積地上に位置し、崖上の少し下流に国立市の谷保古墳群や府中市の西府古墳群、熊野神社古墳、高倉古墳群など、多摩川左岸の崖上の墓域の一つが、 平成13~14年の調査では、
「四軒在家遺跡」には大小10基の円墳が発掘調査されている。
墓から直刀、小刀、鉄鏃の他に釘が発見、釘は、古墳時代から江戸時代までほとんど形が変わらない。
7世紀前半の家長墓と見られる被葬者は木棺に納められ埋葬されたのだろうと云う。
各古墳はいずれも形ばかりの周溝が見られ、古墳から埴輪がまったく発見されない。
古墳の終焉期か、墓制の違う移住者の集団の墓域。
そのほかの副葬品には、勾玉、切り子玉(水晶)金環(耳環)など。石室や周溝から須恵器土師器(はじき)高杯(たかつき)甕(かめ)瓶(瓶)が出土している。
府中市の平安時代住居跡地の出土品に類似した、時代的に近い物品ではな以下と云う。
これだけの資料では被葬者の推定は難しい。
下流の狛江市は、高麗人の地域であり、府中市高倉(たかくら=高麗)古墳、高麗氏が、1541年、北條氏に追われるまで多摩川中流域に住んでいた。
川原石積横穴石室は、多摩川上流(平井川)瀬戸岡古墳群の石室に似たものを思わせる。
公園・住宅との共存で周溝が半月状に削られたりしていると云う時代か。

    

都水道局ー都の23区および多摩地域26市町を。
1,235km2 の区域、1,288 万人の都民に水道水を供給している。
都の保有する水源量は日量 630 万m3、浄水場の施設能力は日量 686 万m3、配水管の延長は 26,490km 。
谷保浄水所は、水道水の水質検査等が。

    

「多摩川・石田大橋」
平成19年、延伸部分と直結し、都道20号線との立体交差が完成。
橋の開通によって従来は直接行き来のできなかった
日野市と国立市、府中市が直接結ばれ、日野、八王子方面からの国立府中インターチェンジへの交通が改善した。
    

大橋の長さー385m・巾員ー22m。
付近には、中央自動車道、国立府中IC・多摩モノレール万願寺駅・万願寺渡船場・伊東単朴の墓等

「伊藤単朴」1680-1758 
江戸時代中期の戯作者ー延宝8年生まれ。江戸石町にすみ,のち武蔵青柳村で医業をいとなむ。
静観房好阿と交遊し,「教訓雑長持」「銭湯新話」などの談義本をあらわした。
79歳没。通称は半右衛門。別号に青柳散人,売炭翁,山洞。格言ー物は郷を離れて貴く,人は郷を離れて賤し(「教訓雑長持」より)

                 富士山が良く見えた
  

「国立市」
都の中央、武蔵野台地南西部の文教都市。
北・立川段丘ー南・青柳段丘ー南端に多摩川沿いの沖積地で、立川と国分寺の中間になる。
江戸時代、市の中央部を通る「甲州街道」、又農業集落の谷保村で形成された。大正13年「箱根土地会社」が3分1を占める山林地帯を学園都市にし
碁盤の目状に区画され放射状の広い道路が整備され、昭和27年一橋大学を中心に国立音大・都立5商高・国立高・富士見通り・旭通り・大学通りになっている。大正15年国立駅開設された。
現在は、田畑が住宅地に変わって発展を続けている。

           一橋大学通りの桜並木も知られている。
    

「一橋大学」
森有礼が1875年の明治8年、開いた商法講習所を源流とする日本で最も古い社会科学系の大学。
第二次世界大戦前には商学専門の官立大学(旧制東京商科大学)として開設されていた。
森有礼は、幕末期にロンドン大学に学び、のち初代米国代理公使としてワシントンに滞在し、英米両国では実業家が官僚や政治家に劣らず活動し
国家独立の基礎は経済の富強にあって、そのためには経済人の育成が急務だと痛感したこと、
それらが学校設立の端緒となっていると云う。

    

「少人数教育の一橋」
現在・学部生1学年約950人程度で、ゼミナールも少人数教育における特色とし、特に必修のゼミナール制度が挙げられると云う。
教員一人に対して10人前後の学生という形態を守り、現在も10人前後でのゼミが行われていると云う。
ゼミナールでは、学問だけでなく全人格的指導を行っているのも特徴。
学生は、4学年の2年間を通じて、同じゼミに所属し、課外でのレクリエーション、ゼミ合宿、卒業後の定期的な会合などが行われるゼミも多いと云う。

    

       「たまらん坂」坂下から国立駅へー旭通り商店街
    

次回は、国分寺方面へ。

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