富士川に沿って 由井から「田子の浦にうち出でてみれば白妙の・・
東海道五十三次 江戸・日本橋 - 品川 - 川崎 - 神奈川 - 程ヶ谷 - 戸塚 - 藤沢 - 平塚 - 大磯 - 小田原 - 箱根 - 三島 - 沼津 - 原 - 吉原 - 蒲原 -「由比」 興津 - 江尻 - 府中 - 鞠子 - 岡部 - 藤枝 - 島田 - 金谷 - 日坂 - 掛川 袋井 - 見附 - 浜松 - 舞阪 - 新居 - 白須賀 - 二川 - 吉田 -御油 - 赤坂 - 藤川 -...
View Article源平富士川の戦いの吉原宿と小さな原宿へ(達磨白隠禅師)
「富士川」 山梨北西部・静岡県 南アルプス駒ケ岳西麓・釜無川源流部南流して静岡県駿河湾に注ぐ川ー山形最上川・熊本球磨川と富士川を日本三大急流と云う。 土砂の運搬量多く洪水に悩むー武田信玄の治水対策は知られている「信玄堤」。 江戸時代は、鍛沢河岸と岩淵を結ぶ舟運が。 長さー128km・流面3990km2 新富士川橋...
View Article1本1本植林した 沼津の千本松原(増誉上人)
永禄3年ー1560年、今川義元の桶狭間での敗北による今川氏の衰退は、諸国の諸大名による今川領への進入を招いた。 西からは徳川氏、北からは武田氏が遠江、駿河に攻めてきた。また、東の後北条氏も武田氏に対抗して駿河に進攻した。 後北条氏と武田氏は駿河中部から東部にかけて数度の戦いを繰り広げた。...
View Article”汽笛いっせい新橋を・・”変貌する新橋
静岡県掛川~沼津まで掲載してきましたが、「JR/山手線・新駅」が2020年に出来ますので、途中ですが中断し、2回・新橋~泉岳寺までを。 「浅野長矩」 1665-1701 江戸城中で乱心した赤穂藩主・8歳で53500石の領主に。 接待役で指導を受けていた「吉良義央」を、江戸城中・松の廊下」で傷を負わせたことから、「切腹」を命じられ、赤穂浅野家改易処分に。...
View Article山手線30番目に新駅工事 高輪泉岳寺に2020年
武蔵野台地末端、東の山の手と沖積低地の下町・中央部に「古川」で、赤坂・麻布・高輪台の台地に分かれ、台地が入り込むので坂が多い。 その地形を表す「三河台・高輪台・日の窪・・」坂では、鳥居坂・潮見坂・仙台坂・乃木坂・・87か所を数える。 海を面する旧芝は、江戸時代の町屋を形成し、海苔の漁村であった。 現在は、埋め立てられ港湾・物流倉庫・工場・高層ビルが立ち並ぶ、芝大神宮だらだら祭知られている。...
View Article歴史ある沼津海岸 沼津御用邸付近
沼津に戻ります。 伊豆半島の西付け根、東部中心都市・中世沼津郷、政治・経済地域、駿河湾北東部を抱き込、沼津町・楊原村・片浜・金岡・大岡・静南・愛鷹・大平 内浦・西浦ー北に「愛鷹山」「狩野川で二分」、先土器・縄文土器の遺跡が多く、弥生土器時代は水稲耕作がい営まれている。...
View Article土肥金山から土肥温泉 修善寺物語
静岡県田方郡土肥町・伊豆半島西海岸、駿河湾の臨む、中世期以来の地名、説はいろいろある。 1577年、採掘、1606年、「大久保長安」が幕府の金山奉行に任命。「土肥千軒」と云われたのがこの頃、金産出量が増えていく。 が、1965年閉山した。1680年頃坑道から「温泉」が湧きだした。それを鉱湯と云われた。土肥温泉である。土肥海岸・温泉・金山跡などで...
View Article伊豆長岡 韮山の反射炉、日本で初めてパンを作ったなど江川氏の偉業
「浜城」 駿河湾奥部の内浦湾に面したこの城は、室町時代から北条氏に仕えていた大川氏が居城としていた。 その後武田氏が狩野川沿いに三枚橋城(のちの沼津城と同地)を築城したため、水路を絶たれた北条氏が1579年頃、北条水軍の基地として改修したとされる。 武田水軍との幾多の戦いの際の発進基地ともなっており、1580年には千本浜沖で、後に駿河湾海戦と呼ばれる大規模な海戦も起こっている。...
View Article富士山の湧水の柿田川公園 頼朝以来の三嶋大社
県東部、駿東郡清水町に入る。西に沼津・東が三島で、街中央に富士山の大小10ヶ所に自爆湧水の柿田川がある。町名も湧水に由来する。 戦国時代は泉頭・徳倉の2城が置かれ、北条と武田の激戦地になっている。 三島市の発展で清水町もその延長部分となっている。 今は、工場が多く、沼津の卸商団地、徳倉団地とベッドタウン化している。...
View Article日本一の大空中吊り橋 中山峠 三島から箱根へ
JR東海道本線「三島駅」マップ 南口駅前 三島神社近くの「お菓子の田子の月」健康茶と大福が 三島駅北口の三島風穴 富士山から30km以上ある。 三島駅から「元箱根」行きバス 大吊橋下車 我が国最長の吊橋空中散歩 全長400m...
View Article箱根八里は海賊遊覧船で
箱根峠の山道が、東西交通の主要となってくるのは鎌倉時代以降。 律令時代に設けられた当初の東海道は箱根峠ではなく、箱根山北方の足柄峠を経由した。 富士山の延暦噴火(800年 - 802年)の為に通行が困難になったため、新たに箱根峠の街道が開かれたと云う。 その後、足柄峠のルートも再開した為、二つの街道が並存している。 「箱根の坂」 室町から戦国への時代の移り変わりを、北条早雲の人生を中心に描いた...
View Article箱根 ロープウエイで白煙立ちのぼる大涌谷
「箱根八里」 明治34年、中学唱歌に初出の唱歌・「鳥居忱・作詞、瀧廉太郎作曲」 題名の箱根八里とは、旧東海道で小田原宿から箱根宿までの四里と箱根宿から三島宿までの四里をあわせたもの。 東海道では大井川とともに難所として知られ、箱根馬子唄でも「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」とうたわれる。 李白の漢詩「蜀道難」の一節「一夫當關...
View Article箱根湯本 北条氏五代の早雲寺
「小田原宿」は、東海道五十三次の9番目の宿場、江戸を出て最初の城下町にある宿場。 箱根駅伝は、国道1号線を走るのは横浜駅近辺の青木橋から戸塚中継所付近と「大礒から箱根方面」(往路・復路どちらも)。 箱根駅伝は、大正9年、マラソンの父「金栗四三」らが、世界に通用するランナー育成したい思いからと云う。...
View Article不落の小田原城と石垣山の一夜城
1589年 北条氏は「真田昌幸公」の名胡桃城を攻めます。 これが、秀吉公の小田原攻めのきっかけを与えてしまいます。 その後、小田原攻めの準備は着々と進み、2月には徳川家康公、が先発隊を出陣させ、この段階で北条氏がもくろんでいた三国同盟の一角はくずれます。4月には秀吉公は小田原城を包囲。 石垣山登り口...
View Article遺跡の曽我兄弟と梅園
「酒匂川」 二級河川、静岡県内では鮎沢川と呼ばれる。 富士山の東麓と丹沢山地の西南部を主な源流とし、JR東海の御殿場線と並走するように流れ、丹沢山地と箱根山の間を抜け足柄平野を南下、小田原市で相模湾へと注ぐ。 山間部から平野部に入るときに流れをコントロールし平野の中央を流れ、耕地を潤すように文命堤(岩流瀬堤、大口堤)が建設。...
View Article頼朝を追い込んだ大庭氏の城址と真鶴・湯河原
東海道53次の6番目の宿場「藤沢宿」 遊行寺の門前町として栄え、後北条時代は小田原城と支城の江戸城の桜田門、八王子城、玉縄城をつなぐ小田原街道の分岐点が藤沢。 清浄光寺(遊行寺)の東側に「江戸側の見附(江戸方見附)」 現在の小田急江ノ島線を越えた西側あたりに「京都側の見附(上方見附)」があった。この範囲が「藤沢宿」である。...
View Article遺跡の多い逗子 披露山、持田遺跡 名越の切通し
古代律令時代の官道で都から東へ向かう道は、中部の山地を通るものが東山道と呼ばれた。 日本海沿岸を北上を北陸道・南の太平洋沿岸を進むものが東海道。 東海道といえば安藤広重の浮世絵で知られる東海道五十三次のルートを思い浮かべるが、東海道という道の語源は遙か奈良時代の昔からのものであって、その当時の東国(関東)へ向かう太平洋沿岸の幹線路を江戸時代の道と区別するために「古東海道」と呼んだ。...
View Article鎌倉は歴史の町、寺の町
「鎌倉府」 後醍醐天皇が建武の新政の一環として、関東統治を目的に皇子・成良親王を鎌倉へ下向させて創設した鎌倉将軍府が起源。 実権は幼い親王を奉じた足利直義にあった。 観応の擾乱が発生すると、足利尊氏は子である足利基氏を鎌倉へ派遣し、以来、長官の鎌倉公方は基氏とその子孫、これを補佐する関東管領は上杉氏が世襲する鎌倉府となった。...
View Article頼朝が眠る古都鎌倉へ 八幡宮から
鎌倉には縄文時代から弥生時代にかけての遺跡もあり、杉本寺、長谷寺、甘縄神明神社のように創建を奈良時代と伝える社寺も存在する。 万葉集にも登場し、三浦半島から房総半島へ抜ける古代の東海道が通っていた。律令体制下、相模国鎌倉郡の行政の中心となった。 蘇我入鹿打倒を祈願するために常陸国の鹿島神宮を訪れた藤原鎌足が、帰途に霊夢によって鎌を埋めた土地であることから「鎌倉」と命名されたとする伝説がある。...
View Article北条政子の墓から江ノ電極楽寺へ
「北条時政」 土豪から幕府初代執権 1138-1215 娘北条政子 頼朝の挙兵に加わる。頼朝死後13人合議制で二代将軍頼家を廃して次男実朝を 三代将軍とした。有力御家人「梶原・比企・畠山・・」を謀殺し、後妻の娘婿「平賀朝雅」を将軍にしようと企てた。 陰謀が発覚、突如出家退隠・朝雅は殺されている。 「北条義時」 二代執権 時政の次男 1163-1224...
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