「諡号慈眼大師・天海」 1643年、 天台宗の僧・東叡山寛永寺創建.
比叡山・三井寺で修行・江戸崎不動院、仙波喜多院に住むが、徳川家康に召されて幕閣の一員となった。幕命で、比叡山復興させ、家康の葬儀を司る。江戸上野に東叡山寛永寺を建て「徳川家の廟所」とし、徳川家康側近中の側近と云われた。
天海の進言はほぼ採用されたと云う。家康は「天海は、生きた仏である。出会いが遅く残念である・・・」と悔やんだと云う。「家康死の6年前」
家康神号「金地院崇伝」で争い勝っている。それで「日光山再建し、改葬している。
天海は、36歳の時に「武田信玄」に甲斐国に招かれ、天台論議法要の講師を務めている。
天海の死因は、病死、享年108歳だったとも言われる。
三代将軍、家光においては、家康と天海が年が近かったため天海が家康と重なり、家光の天海に対する崇敬ぶりはすさまじかったと云う。
川越仙波喜多院には、江戸城にあった家光誕生の間と春日局化粧の間を移築するほどでらる。
川越・日光は、観光地に。
寛永寺子院 「大黒天 護国院」

護国院は、天海の弟子生順が、釈迦堂の別当寺として、現在の東京国立博物館の右手奥に開創。1653年、1680年、に寺地を西方へ移転し、さらに宝永6年の1709年、現在地に移った。
移転は、それぞれ四代将軍家綱霊廟・五代将軍綱吉霊廟の建立にともなうもの。
昭和2年、第二東京市立中学校(現、都立上野高校)建設にともない、本堂を現在の位置に移し、 現存する本堂は釈迦堂とも呼ばれ、1722年、の再建。間口7間(18.2m)、奥行5間(13.6m)。唐様の建築で中央奥の須弥壇に本尊釈迦三尊坐像を安置・大黒天画像は三代将軍家光から贈られたものと伝え、谷中七福神のひとつとして信仰をあつめている。
平成13年国登録有形文化財に指定された建築物。
設計の 岡田氏は、東京美術学校・早稲田大学で設計教育に携わるかたわら、旧鳩山市郎邸(大正13年竣工)・歌舞伎座(同年竣工)等を手がけ、和風建築の設計に手腕を発揮した人物で知られている。
大黒天画像 谷中七福神

舞殿 上野・王子・駒込33ケ所観音霊場 14番札所

護国院 本堂

「国立 東京芸大」

煉瓦造りの校舎

東京芸大 奏楽堂 (重文ー滝廉太郎等が学んだ)

京成電鉄、旧上野動物園前駅廃舎跡

寒緋桜

大噴水ー都美術館・池田屋敷表門・宝物館・国立博物館・科学博物館・西洋博物館・日本学士院・文化会館等。

野口英雄像 科学博物館前

動物園と東照宮


東京大仏の頭部

五条天神

清水堂 彰義隊士の墓、西郷像へ

上野公園桜並木通り

次回、不忍池からアメ横通りへ