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Channel: syuの日記・気まま旅
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日暮れの里・日暮里  2019年(31年)3月中旬撮影

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「大田道灌」 1432-86 江戸城築城、主君に謀殺された名将。
武将太田資清の子・上杉(扇谷)定正の執事を務め、上杉の勢力拡大の為に尽力し、天下にその名を轟かせた。主君謹言を信じ謀殺。
道灌死の目前「当方滅亡」と叫んだと云う。その通りに。

日暮れの里・日暮里ー駅を出ると御殿坂、右に月見寺の本行寺と経王寺(寛永寺から逃げ込んだ彰義隊が戦った鉄砲弾の穴が山門に残っている)
その先が、観光になった「夕焼け段々ー谷中ぎんざ」へ。
月見寺の本行寺に   「陽炎や 道灌どのの 物見塚」 一茶の句碑が残っていると云う。
JR西日暮里駅を出ると「道灌山」があり、右手に私立開成高校・左に「道灌山、諏訪台」(北側に小山のように突き出ている)
ここは、古くから虫聴きの名所として知られ、大田道灌が、この丘に砦を築いたとする説がある。
立地的に道灌は、日暮里に「城」を造りたかったと推測する。いろいろの諸説が残っている。


                JR日暮里駅と私鉄京成・舎人ライナー


「御殿坂」 谷中に向かう坂
西日暮里3丁目と台東区谷中7丁目の境を七面坂上から日暮里駅方面へ下る坂。
江戸時代から用いられていた呼称で、当時の絵図などから,天王寺(現谷中墓地)の下を通り芋坂下に続いていた。
天保九年の1838年、「妙めお(みょうみょう)奇談」は,
寛永の1624~44年の頃,白山御殿(将軍綱吉の御殿)や小菅御殿(将軍御膳所)と同様の御殿がこのあたりにあったことにより付いたというが,
(坂名の由来は明確ではない) 荒川区教育委員会

 俗に「御隠殿」と呼ばれる輪王寺宮の隠居所がこの先にあったからといわれるが,根拠は定かではない。(標識より)


「幸田露伴」 1867-1947 随筆・小説家 本名成行 下谷生まれ。
明治維新で没落、中学半ばでやめ電信技師・北海道へ。帰郷し文学へ、1889年「風流仏」で文壇に認められる。「五重塔」など男性的理想主義的ロマンチシズムに溢れた特異的作風で次々発表・尾崎紅葉と文壇二分する。
「頼朝・運命・芭蕉・・」多数残している。1937年第一回文化勲章に。

                        谷中で、天王寺五重塔を


                     桐生悠々・小泉八雲などと同年代



2001年(平成13年)に彫塑館の建物4棟(アトリエ棟、旧アトリエ、住居、東屋)が国の登録有形文化財に登録・2008年に中庭と屋上庭園が
「旧朝倉文夫氏庭園」として国の名勝に指定された。有料

                      朝倉文夫宅裏玄関


「田河水泡」本名・高見澤仲太郎    1899-1989
幼少期から青年期までを江東区で過ごしている。昭和6年の1931年、大日本雄辯會講談社(現・講談社)の雑誌「少年倶楽部」に「のらくろ二等卒」を発表、爆発的な人気を博し、昭和初期を代表する漫画家に。
漫画「のらくろ」は、身寄りのない野良犬・のらくろが猛犬連隊という犬の軍隊へ入隊し活躍する物語です。最初は二等卒(二等兵)でしたが、徐々に階級を上げ、最終的には大尉まで昇進します。
自分の境遇にもめげず、明るく楽しく元気よく出世していく・・・・・。




「天王寺五重塔」が、

                        今は、小公園に。








寛永寺と天王寺の寺領であったが、明治4年に東京都が管理に。
園内には、渋沢栄一・横山大観・長谷川一夫などの知名人の墓がある。中央に、名所の桜並木がある。

                         天王寺前の桜並木(五重塔が無いのが寂しい)



                    高橋お伝・おぺっけぺ~の川上音二郎の墓が


「徳川慶喜」 1837-1913 15代将軍・徳川幕府幕引き。(水戸藩斉昭の七男・一橋家相続、家茂補佐)。
慶応3年大政奉還で徳川幕府終幕を引いた。晩年は、静岡に。長州木戸孝允は、家康再生を見るようだ・・と。

                     慶喜のみ谷中墓地に





                    谷中の巨木 ヒマラヤ杉


                        鉢植え時


                川端康成も眺めていたであろう 谷中ヒマラヤスギ


「紅葉坂」 日暮里駅南口から谷中に。
周辺の紅葉が美しかったので、紅葉坂と命名・別名「幸庵坂」ともいった。
江戸後期の国学者、山崎美成は「金杉日記」
天王寺うら幸庵坂下、又三しま社のほとり秋色尤もふかし、林間に酒を煖む。と記している。「幸庵坂」の名は江戸時代すでにあった。
金杉日記から、江戸時代に命名された坂で、歴史を感じる。
が、江戸切絵図(尾張屋清七板)を見ると、天王寺の東側に道筋があり、これらのどれかがこの坂に相当か、
「紅葉坂」とつけられた時期は、明治以降と思われる。
紅葉坂上 紅葉坂上 紅葉坂上 紅葉坂上 坂上を右折すると、寺の塀を左に見ながら緩やかな上りとなって、谷中墓地の方に続いている。
明治11年の実測東京全図を見ると、興味深いことに、天王寺の北端近くの崖地に道があり、南北へ延びる道に接続している。この坂かも?。

                         紅葉坂


                         説明が


「天王寺」
1700年の元禄13年、徳川幕府公認の富突(富くじ)が興行され、目黒不動、湯島天神と共に「江戸の三富」として大いに賑わった寺「天王寺」。
1728年、幕府により富突禁止令がだされるも、興行が許可され続け、1842年の天保13年、禁令が出されるまで続けられたと云う。
1274年の文永11年、長耀山感応寺が開山・1621年、日蓮宗9世・日長が入寺・1643年の寛永20年に梵鐘を鋳造。
1644年の寛永21年、「谷中五重塔を建立。
1698年、天台宗に改宗し天台宗1世「慶運大僧正が入寺、毘沙門天像を本尊とした。1700年(元禄13年)富くじ興行が幕府に許可される。

1772年に、明和の大火により、五重塔を焼失・1791年の寛政3年、五重塔を近江出身で湯島の大工「八田清兵衛」が再建する。
1842年の天保13年、天保の改革により、富くじ興行が禁止される。
1868年の慶応4年、彰義隊の兵火により、本坊、五重塔以外焼失した。

                          天王寺正面


                           入口に石仏


                            本堂


「谷中」は、江戸時代以前からある。
上野台と本郷台の谷間にいちしていることにちなみ、下谷に対してつけられた。江戸時代に入り、都市計画で、多くの寺院が集められて門前町として発展
してきた。また、この地域は、日暮里の荒川区と桜木町の台東区が細い道を挟んでの区域。

                        下町の長屋住宅が


「谷中・一乗寺」 日蓮宗・千葉県茂原妙光寺17世「日僚」が1617年に創建。

「太田錦城の墓」
太田錦城(1765-1825)は、江戸時代中期の儒学者で、名は元貞、字は公幹、才佐と称し、錦城は号である。
加賀国大聖寺に生まれ、当時の大儒であった皆川淇園、山本北山に折衷派を学んだが満足せず、漢代以降の中国の諸説を直接研究し、一家の学を建てた。
晩年にいたり、一時京畿に遊び、三河国吉田藩に仕えたが、加賀国金沢藩から賓師として招かれ、三百石を給せられた。
文政8年4月23日、61歳で没した。著書には「九経談」「春草堂詩集」「鳳鳴集」など非常に多くの著述があり、長男は加賀侯に仕え、三男は吉田侯に儒学をもって仕えたと云う。都教育委員会掲示より。



他に谷中には、下町風俗資料館、旧吉田酒店・大名時計博物館・岡倉天心記念公園などが。






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