滝廉太郎「花」
「春のうららの 隅田川すみだがわ のぼりくだりの 船人ふなびとが 櫂かひのしずくも 花と散る ながめを何に たとうべき
見ずやあけぼの 露つゆあびて われにもの言う 桜木さくらぎを 見ずや夕ゆうぐれ 手をのべて われさしまねく 青柳あおやぎを
錦にしきおりなす 長堤ちょうていに 暮くるればのぼる おぼろ月づき げに一刻いっこくも 千金せんきんのながめを何にたとうべき」
1番の歌詞は、源氏物語「胡蝶」の巻で詠まれた和歌
春の日のうららにさして行く船は棹のしづくも花ぞちりける。によったものと云う。
3番は蘇軾の詩「春夜」の一節「春宵一刻値千金」
春の夜のすばらしさは、ひとときが千金にもあたいするほど貴重なものだ。の着想であると云う。廉太郎が学生時代の作と云う。
隅田川浮世絵

「火事と喧嘩は江戸の華」
1657年「振袖・明暦の大火」江戸城、本丸2.3丸と天守・えど60%焼失・死者10万人以上・・、安政江戸大地震、目黒行人坂などが。
「定火消」が設置された。与力・同心・火消人足が常駐し町の自衛に組織「へ・ラ・ヒ」を除き、いろは・・百・千・万ー47組・と本所・深川ー16組
費用は町方の負担が基本であった。
「新門辰五郎」 1800-75 徳川慶喜を助けた「を組頭、町火消」浅草神社裏に小さな神社がある。侠客・火消
下谷生まれ 娘は慶喜に仕えた。慶喜配下として働き文久3年の上洛に同行している。
慶喜が、大阪城に金扇置忘れ、辰五郎が東海道を駆け江戸城の慶喜に届けている。また水戸謹慎の慶喜に御用金2万両護送したと云う。明治8年没
桜橋 中央から

「隅田公園」は、墨田区側「8.1HA」・台東区側「10.7HA」で両方で日比谷公園とほぼ同じ面積になる。
隅田川の東側が「東京スカイツリー」のある墨田区、西側が浅草や上野などを含む台東区、春の桜が特に有名で、台東区が2003年から行っている
「隅田公園花の名所づくり事業」により、彼岸花や紫陽花の植樹が進められたり、梅園が拡張されたりして、1年を通して季節の花々が楽しめる。
台東区側の園内には「台東リバーサイドスポーツセンター」があり、野球場やテニスコートが設置され、公園一帯にジョギングやウォーキングコースも
整備され、スポーツを楽しめる公園。
2012年、東京スカイツリーの開業前に公園中央付近の「展望広場」が整備され、東京スカイツリーがきれいに見えるビュースポットとして人気となっている。イベントとしては、毎年100万人近くの人出がある「隅田川花火大会」が有名で、幼少の頃数人で遊んだところ。
日本さくら名所100選の一つで、緑豊かな空間である。
「台東スポーツセンター」の前は、私が小学校時代「プール」でお世話になり、入口前の「アイスキャンデー」の味は今でも。

「今戸橋と山谷堀」
約1Kmほどさかのぼると吉原に、上流にさかのぼると「音無川・石神井川」。
都の下水道局ポンプ場の辺りから隅田川へと注ぐ約700mの長さにおよぶ堀が山谷堀と呼ばれていた。
吉原との関係が深いため、江戸時代初めには堀が、吉原が現在地に移転したのは、明暦3年の1657年、この頃に掘られと云う。
山谷堀の南側の江戸市中側には日本堤と呼ばれる土手、この土手は洪水を防ぐ堤防として江戸時代はじめに築かれている。
土手が吉原まで約八丁あったため、俗に土手八丁はここから。
中村座発祥の地

今戸橋跡

大根祭りで知られる「待乳山聖天」1820年頃、江戸時代に、歌川広茂の画や絵師・歌人達が隅田川を望み景勝ちとしている。
「待乳地山聖天」
小高い丘になって昔は、鬱蒼とした森、推古3年・595年、この地が一夜のうちに盛り上がり、推古36年の浅草観音出現への瑞兆と伝えられている。
同時に龍が舞い降り、この丘を守護したと伝わる。
もともとは「真土山」。本当の土といった意味がある。
沖積低地部には珍しい洪積層(本当の土、台地)、真土が待乳に変わり、聖天さまと親しまれ、夫婦和合の神様に。
聖観音宗「待乳山聖天」 浅草名所七福神の毘沙門天

天井に堅山南風画「龍」 本堂

「「池波正太郎」 1923-1990 小説家 直木賞・吉川英治賞・菊池寛賞・紫綬褒章
大正12年、ここ、浅草区聖天町で生れる。
父富治郎は、日本橋の錦糸問屋に勤める通い番頭、母鈴は、浅草の錺職・今井教三の長女で、正太郎は長男。
この年、関東大震災が起こり、両親とともに埼玉県浦和に引越し、6歳まで同地で過ごし、両親は東京に転居。
正太郎は、台東区の根岸小学校に入学、(私の大先輩)。
商売の思わしくなかった富治郎は近親の出資によって下谷上根岸で撞球場を開業するも、両親不和のためこの年に離婚した・・・・。
正太郎は母に引き取られて浅草永住町の祖父の家に移り、学校は下谷の西町小学校に転入している。
鬼平犯科帳・剣客商売など時代小説が多い。
池波正太郎生誕の地

正太郎が遊んでいた公園

「花戸川公園」
昔、老婆と若く美しい娘が2人で住んでいたが、実は老婆は旅人を泊めると見せかけ、寝床を襲って石枕で頭を叩き割って殺害し
「関八州古戦録巻二」では、
天井から縄をつけた大石を落として圧殺したと記す。
亡骸は近くの池に投げ捨て、奪った金品で生計を立てるという非道な鬼婆、娘はその行いを諌めていたが、聞き入れられることはなかった。
老婆が殺した旅人が999人に達したある日、ひとり旅の稚児が宿を借りた。
老婆は、躊躇することなく、寝床についた稚児の頭を石で叩き割った。しかし寝床の中の亡骸をよく見ると、それは自分の娘だった。
娘は、稚児に変装して身代わりとなり、自分の命をもって老婆の行いを咎めようとしていたのだ。
老婆が自分の行いを悔いていたところ、家を訪れていた稚児が現れた。
実は稚児は浅草寺の観音菩薩の化身であり、老婆に人道を説くために稚児の姿で家を訪れたのだった。
その後、観音菩薩の力で竜と化した老婆が娘の亡骸とともに池へ消えたとも・観音菩薩が娘の亡骸を抱いて消えた後、老婆が池に身を投げたとも、老婆は仏門に入って死者たちを弔ったともいわれている。
花戸川公園 歌舞伎の十八番「助六」の碑もある。

「粋と云えば・助六」 歌舞伎の演目の一つ,江戸っ子の心意気「いき・はり・いなせ」。
江戸古典歌舞伎を代表する。「粋」を具現化した洗練された江戸文化の極致として、後々まで「日本文化」に決定的な影響を与えている。
市川團十郎家のお家芸と云われいる。上演回数は最も多く、上演すると大入り。
三社様と三社祭の「浅草神社・浅草寺」
本尊「黄金観音像」 隅田川川底から拾い上げた人物、漁師の檜前の浜成と武成兄弟と村長の上師真中知の三人を祭神・「三社様」
東京三大祭りの一つ・毎年5月第三日曜日の4日間
馬車通り花川戸から 「二天門」

浅草神社鳥居 拝殿裏手に新門辰五郎の小社がある。

「浅草寺」 聖観音宗総本山 金龍山浅草寺と云う。
本坊は、伝法院 寺伝によれば推古天皇御代の628年 現在の観音堂昭和33年再建された。雷門昭和36年。五重塔昭和48年と新しい。
「ほずき市・羽子板市」などが開かれている。
拝殿

昭和初期には、映画館・劇場・花やしき、落語・漫才・見世物などいろいろな興行街「六区」として栄えた。
花やしき通り・西参道・五重塔通りでロック通りへ、その先が昔国際劇場のあった国際通りとつながる。
浅草寺境内と五重塔

本堂

1750年頃の三美人
谷中笠森神社境内の水茶屋「鍵屋」にいた看板娘ー笠森のお仙。
浅草観音裏の楊枝店ー柳屋のお藤。
浅草二十軒茶屋の蔦屋ーお芳。・・・・・・錦絵のモデルとして人気美人であったと云う。
奥山門

江戸時代の浅草縁起絵巻が人気であったと云う。
五重塔通り商店街

天婦羅屋台ー竹串の立ち食い・生そば・うどん屋・稲荷寿司屋台・焼豆腐、蒟蒻等の煮物売り・飴餅なども売られていた。
木馬館

浅草奥山見世物(本堂の裏側)
見世物・大道芸・物売り、たたき売りの中でも「松井源水」のこま回しで歯磨き売りの余興が名物に。
長井兵助の居合抜きで反魂丹売り。楊弓場・草履・小物・色紙・・など江戸土産として売れていたという。
花やしき通り

六区通りからひさご通り

現在のロック通り

国際通りと言問通り

入谷方面へ。